ピティナ調査・研究

第3回 オーストラリアざっくり音楽史(3)

たたかえカンガルー

ざっくり音楽史の第三回は20世紀後半の流れを中心にまとめてみます。「オーストラリア的なもの」を求める作曲家たちの探求です。


この大地を音楽で表したい!!

 ざっくり音楽史(2)でお伝えしたように、20世紀前半のオーストラリアの音楽シーンは、イギリスの影響からの強い保守性に縛られていました。たとえば初のオーストラリア産交響曲としてうたわれる作品も、とりたてて当時として斬新な響きがうかがえるものではありません。「ブッシュ The Bush」と題されたこの作品、作曲者はロンドン生まれのフリッツ・ハート(Fritz Hart 1874-1949、1901年よりオーストラリアで活動)です。ハートは組曲「惑星」で有名なホルストと友達だった人で、「ブッシュ」はホルストからの影響もあってカラフルな音遣いが実現したのだとも評されています。ところでブッシュとは、オーストラリアでしか見ることの出来ない大自然の未開地をいいます。林とも森とも山道とも違う、オーストラリア独特の自然地帯です。オーストラリア人は頻繁にブッシュ・ウォーキングを楽しみます。斬新じゃないなんて書きましたが、曲自体は雄大な南大陸のランドスケープを彷彿とさせる美しい音楽です。

 ハートの他にも、アルフレッド・ヒル Alfred Hill、ウィリアム・ジェームスWilliam James らといった作曲家たちが、オーストラリアに生息する鳥や動植物をテーマにして作曲をしていますが、いずれも英国的なセンスで書かれたもの。また当時は先住民族アボリジニの音楽が取り入れられることはほとんどありませんでした。

脱英の兆し

 一方、早くにイギリス音楽の影響から離れた作曲家として、オーストラリア生まれの二人の作曲家、ジョン・アンティル(John Antill 1904シドニー~1986シドニー) とマーガレット・サザーランド(Margaret Sutherland 1897アデレード~1984メルボルン)があげられます。アンティルは、21歳まで州の鉄道会社で製図工として働いていた人。その後シドニー音楽院へ入り、音楽の道に方向転換をはかって成功しました。彼はアボリジニの儀礼音楽を初めて本格的に取り入れ、1946年彼のバレエ作品《カラバリ Corroboree》を完成します。これは「最初で本物のオーストラリア音楽」と高く評価され、グーセンスが欧米で指揮をして紹介し一躍有名となりました。またその土俗的な響きから「オーストラリアの『春の祭典』」とも呼ばれました。またサザーランドも、これまでの英国民謡風なアレンジに頼らず、アボリジニの音楽を独自の語法で自作に取り入れた作曲家として注目されています。

「ヨーロッパってこんなことになってたの?!?!」

 さて、コンセルヴァトワールでの保守的な教育は依然として根強い一方、1950年代ころには蓄音機とLPレコードがオーストラリアで普及するようになります。若い作曲家たちは20世紀の半ばになって初めて(!)ヨーロッパからの最新の音楽(シェーンベルクバルトークストラヴィンスキーメシアンブレーズシュトックハウゼンなど)に出会うことになります。無調やセリエスムなどによる新しい響きには相当驚いたことでしょう・・・。V. プラッシュ(AU作曲家)によれば、「両大戦間、オーストラリアがヨーロッパの知的精鋭たちの後を引き継ぐことはなく、ストラヴィンスキー vs. シェーンベルクの議論などもおよそ私たちの前を通り過ぎていってしまった」とあります。この頃新しいヨーロッパの響きに出会ったのは、リチャード・ミール(Richard Meale、 シドニー生 1932~) 、ピーター・スカルソープ(Peter Sculthorpe, タスマニア生1929~)、ニゲル・バタリー(Nigel Butterly シドニー生 1935)、ラリー・スィッツキー(Larry Sitsky 天津生 1934~)といった作曲家たち。彼らは1960年代から、ヨーロッパのアヴァン・ギャルドな語法を取り入れ、次世代の音楽創作へと目覚めていきます。スィッツキーはとくに、ピアノ音楽において大きな貢献を果たしています。セリエスム音楽にある緊張溢れる作品を生み出すばかりでなく、録音活動や著作を通し、オーストラリア人作曲家によるピアノ作品を体系的にまとめた大人物です。

脱欧から「オーストラリア的なもの」へ、アジアへの接近

 そうした中で、もう一段階、彼らは次なるハードルを強く意識します。それは何かと言えば、「オーストラリア的であること Australian-ness」。アンティルやサザーランドらによって意識された「脱英化」。その先にあるヨーロッパの語法を知った上で、さらに「脱欧化」をはかり、オーストラリア音楽として独立した「アイデンティティ」を獲得すること。次世代が目指したものは、実態こそ掴むことのできない「自分たちの声」でした。

 ここで興味深いのは、作曲家たちがそうした「オーストラリア的なるもの」すなわちアイデンティティを求める上で、アジアを見出したということです。地球儀で見れば一目瞭然、オーストラリアはイギリスよりも、地理的にはずっとインドネシアやタイや中国、日本と近い国です。そして、アジアから多くの移民を受け入れている人種混合国家です。アジアへと歩み寄ることは「オーストラリア的なもの」を求めるための手段の一つなのです。アジアの音楽語法を取り入れることは、アボリジニや広大な砂漠といったご当地ランドスケープと同じくらい、彼らにとって有効な装置なんですね。
 スカルソープはいち早くアジアに目を向けた作曲家。バリの民謡を取り入れ(弦楽四重奏曲第8番)、また日本のエッセンスも使用し始めます。ピアノ曲では、日本の雪月花のイメージをモチーフにした《夜の小品集》(1971)(響きは、武満徹のピアノ作品と通ずるものがあるように感じます!)や、テープによるオスティナートを伴った《Koto Music I & II》(1976)といった作品が顕著です。また、スカルソープらより一世代若い作曲家にバリー・カニングハム(Barry Conyngham シドニー生1944~)やロス・エドワーズ(Ross Edwards シドニー生1943~)がいますが、両者ともに作曲をスカルソープに師事しました。彼らもまた、アジア、とりわけ日本に強い関心をよせています。カニングハムは大阪万博のあった1970年に半年間だけ武満徹に師事していて、それがとても貴重な経験だったと認めています。その頃の作品《水・・・足跡・・・時間》(1970)は楽曲のタイトルからしてすでに武満の影響が明らかです。エドワーズのピアノ曲《5つの小さなピアノ曲集》(1976)は五音音階で構成されていて、あまりに「アジア的」な雰囲気をかもし出しています。

どこかの国と似たような・・・?

 ところで、こうしたオーストラリアの作曲家たちの動き、どこかの国の作曲家たちの動向と、似たものを感じませんか?そう、それは日本の作曲家たちです。連載「ピアノ曲MADE IN JAPAN」でも紹介されていますが、明治以降、日本が西洋音楽を受容して以来、日本の作曲家たちを少なからず悩ませてきたのは、いかにして西洋音楽をもってして「自分たちの音楽」を作り出すか、という課題でした。しかしながら、実はこの問いに明らかな答えなど生まれることはありません。「こうだからオーストラリア!」「こうだから日本!」というのは、結局のところは実態なきもの。むしろ、「西」と「南」あるいは「東」の振幅運動の中で、作曲家たちは創作活動のレンジを広げてきたのだと思います。上述の武満徹などは、よく「西と東を融合した作曲家」と描写される一人ではありますが、私はむしろ、彼は「西」と「東」の「」という一番ワケがわからず、しんどいところに留まり続けて創作に燃えた人だと感じています。彼とオーストラリア作曲家との交流は、そのような意味で興味深いものがあります。今後の研究が待たれるポイントのひとつでしょう。

オーストラリア音楽事情はまだまだ未開封のポイントだらけ。ここでは「ざっくり」したご紹介に留まっていますが、今後、彼らの作品が日本でもたくさん紹介されていくことを期待したいと思います。

次回からは、実際にオーストラリアの音楽にアクセスする方法、音楽機関のご紹介をしていきたいと思います。お楽しみに。

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