ピティナ調査・研究

最終回

最終回

長きにわたった本連載も今回で最終回。この連載では、編曲をいろいろな角度から論じてきました。連載の始めの方で確認したように、一言で「編曲」といってもその形態や意味は様々です。ドイツ語の編曲Bearbeitungは「原曲になんらかの手を加えたもの」であり、実に広範囲にわたる音楽を包括する概念です。
この意味に従うと、西洋音楽史の古い時代から行われたものを例に取れば、世俗曲の旋律を借りて教会音楽を作るのもBearbeitungでしょうし、歌詞を変えるコントラファクトゥムという行為もBearbeitungに入ります。コラールを定旋律にして変奏曲などを作っていくものは「コラール編曲」と呼ばれています。もしかしたらこんにち「編曲」と言っても、こうした活動は一番に頭には浮かばないかもしれません。
このように多岐にわたる編曲のうち、本連載では主に「ある楽曲の演奏媒体を変えたもの」という編曲の狭い定義に当てはまる範囲に論を絞り、18世紀と19世紀の編曲を話の中心に据えました。それでも、編曲の在り方は極めて多種多様。大規模な管弦楽作品をピアノや室内楽編成にする縮小型の編曲もあれば、ピアノ曲を管弦楽にオーケストレーションする拡大型の編曲もありました。それだけではありません。器楽曲から声楽曲への編曲もありましたし、自動演奏楽器用に書き換える編曲もありました。はたまたアド・リビトゥム楽器や代替楽器を付け加えて、演奏者が演奏形態を選べるようにした編曲も珍しくありませんでした。
原曲の「どこをとるか」も問題になります。楽曲全体を編曲するのではなく、多楽章作品であれば一部の楽章のみ編曲するということもありましたし、原曲を部分的にカットしてしまうこともあります。また変わった例では、複数の楽曲から一部分だけを取り出して編曲を作り、つぎはぎのように繋げて出版するケースもありました。元の作品を知っていればどこが削られたのかわかりますが、オリジナルの全容を知らず編曲だけに接した人は、「こういうものか」と思ってしまうかもしれない、というわけです(現在、メジャーな曲をCMなどで聴いて、サビだけ知っている、というのと似ている気がします)。

用途・機能の多様性

上記のように、編曲の意味や在り方は様々。それと関連して、編曲の用途(目的)や編曲が果たす機能も様々です。編曲には、オペラや管弦楽のような大規模な作品を家庭的な規模の小編成に仕立てたものが多くあり、これらは作品の受容や普及を促進する役割も担いました。原曲とは違う楽器用に編曲されると、特定の楽器の演奏レパートリーの拡大にも繋がりました。そうした背景もあって、編曲には高い需要がありましたから、経済的利益のためにも制作・販売されていたのです。音楽家が学習のために自ら編曲を行なったり、研究や練習に役立てられる編曲も少なくありません。その一方で、「転用」と呼びうる形で、独立した楽曲を他の作品の一部に組み入れることも。例えば劇音楽として活用するといった例がこの類です。

編曲手法の多様性

用途や機能が多様であるならば、編曲の音楽内容、つまり編曲手法が様々になるのは当然と言えるでしょう。原曲の一つ一つの音をできるだけ写しとるような「トランスクリプション」と言い表される忠実な編曲から、全体として忠実ではありつつも、編曲の楽器や編成に適した語法に変更したもの、ひいては原曲に反すると思われるような、大胆な変更を行うものなど……
編曲者は、受容者(編曲者本人の場合もあります)が編曲を手に取る意図に則するように編曲手法を選び取るでしょう。原曲を自分に手に届く編成で再現したいのか、練習や研究用なのか、それとも純粋に音楽作品として楽しむためなのか。加えて、編曲者個人のスタンスや時代の一般的風潮も、編曲の内容を左右します。ベートーヴェンのように編曲手法に強いこだわりを持つ音楽家もいましたし(彼の場合はそのスタンスもその時々で変わるように見えますが)、それほどこだわらない人もいるでしょう。またクラヴィーア・アウスツーク(ピアノ編曲)の歴史は、編曲の一部類に対する理念が時代ごとに変わっていった様子を辿るいい例でした。
編曲に何を求めるのか、何のために編曲を作るのか、どういった楽器で演奏されるのか、オリジナルの楽曲と同様、編曲を取り巻く状況が、「どういう編曲を作るのか」を決定するのです。

編曲と創造性

オリジナルに対する「忠実さ」の度合いはどうでしょう。おおよそオリジナルのアウトラインを保った編曲の枠内で考えてみると、中には新しい素材を加えるなどして、オリジナルから部分的に逸脱するような手法をとる編曲者もいます(ベートーヴェンの自作編曲がこの一例です)。こうした編曲には、オリジナルを出発点として別の作品を作り上げるような創造性が認められます。創造的要素が特に多い編曲は、「改作」の部類に入るでしょう。音楽用語で言えば19世紀に流行した「パラフレーズ」がこの類でしょうし、現在「アレンジ」という言葉で想像されるような楽曲の多くも、オリジナルを編曲者の創造力によって独自に変身させた曲ではないでしょうか。そしてオリジナルを知っているからこそ、アレンジされた楽曲の魅力が一段と増すのも事実だと思うのです。その場合には、オリジナルの良さを最大限引きだす編曲者の手腕に脱帽してしまいます。かてぃんさんやファジル・サイなどの編曲は、オリジナルに勝るとも劣らぬその独自性が、聴衆の耳を掴んで離しません。

すぐそこにある編曲、これからの編曲

少し意識してみると、私たちの日常には編曲が溢れています。ホームに流れる発車合図(ある駅は《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、ある駅はモーツァルトのピアノ協奏曲……)、電話の保留音、それにホッと心を和ませるオルゴールも編曲ですね。
デパートで雨の開始を暗号のように知らせる店内放送が《雨に唄えば》の旋律だったり、カフェで耳にするのはボサノヴァ風にアレンジされたミュージカル音楽だったり、どこかで聴いたと思ったらジャズ・アレンジされたクラシックだったり。
映像メディアでも編曲が流れていたりしますね(そういえば『のだめカンタービレ』の《ラプソディ・イン・ブルー》では鍵盤ハーモニカが使われていました! あれも編曲)。数え上げればキリがなさそうです。また電子楽器を使った編曲のほか、ボーカロイドといった高度なIT技術による編曲もあるでしょう。
録音技術や配信技術の向上によって音楽受容の形態が変化しているのと同じく、社会の状況に応じて編曲にも新しい形が生まれていると言えるでしょう。コロナ禍で盛んに行われていた遠隔合奏の一部にも新たな編曲の形と言える試みがあったのではないでしょうか。パンデミックで公開演奏会が中止されていた時期には、小規模編成での演奏が配信されていました。

このような技術の発展や社会のあり方に応じた柔軟な音楽活動の現状を考えると、編曲についてもこの先、いろいろな創作・演奏の可能性がありそうです。オリジナルが日々生まれ続けているのと並行して、魅力的な編曲、あっと驚くような編曲もどんどん作られてくるでしょう。音楽というものはもとより再現芸術であり、同じ楽曲であっても一度として同じ演奏はありません。言ってみれば作品の表現可能性は無限大で、一つ一つの演奏が新しい創造ともいえます。そして編曲も、同じ作品を新たな表現で生まれ変わらせる行為で、新たな創造という一面を持っています。
筆者は編曲の方が原曲よりいいと言うつもりもありませんし、その逆も然りです(人それぞれ好みの問題はあるでしょうが)。ただ、編曲という活動を通して、音楽という芸術の計り知れない力も感じるのです。音楽作品は一度作曲されたらそれで終わりではありません。作品は常に新しい解釈で表現を変えながら生き続け、そして演奏だけではなく編曲という手段を通しても、恒常的に生まれ変わり続けるものではないでしょうか。
これから生まれる編曲はどのようなものになるのでしょう。
そしてそれは、音楽活動や社会の中でどのような意味を持つのでしょう。
今までもそうだったように、これからの編曲も、きっと多方面で私たちの糧となっていくのだろうと思うと、目の前が明るく開ける気がしませんか?