28.目的に合わせた編曲制作
これまで見てきたように、ピアノ編曲(クラヴィーア・アウスツーク)には様々な用途があり、また編曲に何を求めるのか、編曲に対してどういった姿を理想と考えるのかも時代や立場に応じて変化していました。作曲家も編曲といろいろな形で向き合ってきました。ベートーヴェンなどは一度完成させた作品を再作曲する機会かのように創造性溢れた編曲を作りました。リストは一連の交響曲のピアノ編曲を作る際には、ピアノの鍵盤上でオリジナルの管弦楽を思わせるような豊かな響きを実現する書法を取る一方で、広義の編曲Bearbeitungに含められうる「パラフレーズ」では、オリジナルのオペラの旋律のエッセンスを残して煌びやかな楽曲を作り出していました。
目的に合わせて編曲の姿を変えるというのは至極自然なことです。ヨハネス・ブラームスもそうでした。ブラームスはクラヴィーア・アウスツークを「どこで」「何のために」演奏するのかに応じて、クラヴィーア・アウスツークを作り分けていたようです。
ブラームスは自作品か他作曲家による作品かを問わず、かなりの楽曲をピアノ用に編曲しています。オリジナルの作品ジャンルは大規模な管弦楽曲のこともありますし、室内楽のこともあります(ピアノを含まない室内楽は、友人であるヨアヒムの誕生日の際に書いた冗談的な作品である弦楽三重奏曲と、クラリネットと弦楽の五重奏曲op. 115を除く全てにピアノ編曲が存在します)。そして演奏媒体の移行先は、同じピアノであっても2手または4手、もしくは2台ピアノと一様ではありません。一つの作品を複数のヴァージョンに編曲することもあります。例えばピアノ協奏曲op. 15や交響曲op. 98には2台ピアノ用と連弾用がありますし、弦楽六重奏曲op. 18にはピアノ・ソロ用と連弾用があります(この後にも触れますが、ピアノ・ソロは第2楽章のみです)。こうしたいくつもの種類のピアノ編曲がある場合、それぞれのヴァージョンが個別に出版されていたり、はたまた片方は出版され、片方は生前未出版だったり、ブラームスが編曲に対してとった行動は同じではありません。それではブラームスはピアノ編曲の複数のヴァージョンをどのような目的に従って区別していたのでしょうか。
区別する方法の一つとしては、次の考え方があります。すなわち、4手連弾ヴァージョンは家庭などの演奏用として書かれ、それに対して2台ピアノ編曲は公開の場での演奏を意図して作られたというもの。2台ピアノヴァージョンは、ブラームスの時代には家庭での演奏でも好まれた形ということですが※注釈1、それと同時に2台のピアノで出せるヴォリュームある響きを考えると演奏会用にぴったりというのも納得がいきますね。端的な例が連弾用のワルツop. 39です。この作品は連弾用が出た1866年の翌年にいささかオリジナルより簡単なピアノ・ソロ編曲が出版され、これは家庭で作品を享受する可能性を広げる性格のものと考えられています※注釈2。その一方で、op. 39はさらに2台ピアノ編曲もブラームスの手によって作られていますが、こちらは未出版です。では2台ピアノ編曲の目的といえば?それは演奏会で演奏されること※注釈3。同様に《ハイドン変奏曲》の2台ピアノ編曲にも、演奏会用曲目としての目的が指摘されています※注釈4。
ブラームスの場合、連弾用編曲であれば家庭用やプライベートな機会のための音楽として位置付けられたという推測が成り立ちます。なぜなら連弾用編曲については批評などが見つからない反面、ブラームスと交流のあった人々が残した言葉に、私的な場での演奏について語ったものがあるからです※注釈5。
さらに興味深いのは、ブラームスがこうしたピアノ編曲の一部に独自の意義を与えていたらしい、ということです※注釈6。ここから、ブラームス自身は編曲によってジャンルも変わると意識していたのだと推測できるでしょう。先のワルツop. 39の編曲に関してブラームスが出版社のJ. M. リーター・ビーダーマンJakob Melchior Rieter=Biedermannに、表紙に「編曲Arrangement」と書かないよう頼んだというからなおさらです※注釈7。オーケストラのための《ハイドン変奏曲》op. 56aが2台ピアノ用op. 56bに編曲されたのも同様の例と見做されています。
このように一口にピアノ編曲と言っても、学習・研究や家庭で楽しむ代替物として作られるだけではありませんでした。リストによるオペラの楽曲のパラフレーズほどまで楽曲の中身に大きな変更を施している訳ではありませんが、ブラームスのようにピアノ編曲を「編曲」とさえ見做そうとしない姿勢もあったわけです※注釈8。
- Katrin Eich, “Die Klavierwerke,” in Brahms Handbuch, p. 354.
- Christian Martin Schmidt, “Brahms, Johannes,” in: MGG Online, edited by Laurenz Lütteken, Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–. Article published März 2016. Accessed January 31, 2022. https://www.mgg-online.com/mgg/stable/11984
- Katrin Eich, “Einleitung,” in Johannes Brahms, Streichsextette, Nr. 1 B-Dur Opus 18, Nr. 2 G-Dur Opus 36, Arrangements für ein Klavier zu Vier Händen, ed. by Katrin Eich, München: G. Henle, 2018, p. X。ただし、出版目的も同時に考えられていた可能性があることは指摘されています。
- MGG, Schmidt 2016. ブラームスのピアノ五重奏曲op. 34にも2台ピアノ版があります。ピアノ五重奏曲は当然ながら「五重奏曲Quintett」の表題がついていますが、2台ピアノ版の表題は「2台ピアノのための4手用ソナタSonate für zwei Klaviere zu vier Händen」であり、表紙には編曲であるとは書いてありません。作品番号も「op. 34bis」と、原曲とは区別されています。しかしこの作品に関してはほかのピアノ編曲とは事情が異なります。というのは、op. 34の成立過程をたどりますと、当初ブラームスはこの作品を弦楽五重奏曲として構想していたのですが、友人のヨアヒムの批判によってまずは2台ピアノに作りかえ、その後に今度はクララからも批判を受けて最終的にピアノ五重奏曲にしたのですから(Siegfried Oechsle, “Klaviertrios, Klavierquartette, Klavierquintett,” in Brahms Handbuch, ed. by Wolfgang Sandberger, Stuttgart, Weimar: Metzler; Kassel: Bärenreiter, 2009, 431f.)。
オリジナルの完成稿としてはピアノ五重奏曲が第一ですから、 op. 34bisの初版の楽譜が書かれた最初のページにははっきりと「五重奏曲に基づいてnach Quintett」と書いてあります。 ただし、ブラームスが2台ピアノ版ものちのち出版したという事実は、彼自身が一つの作品に対して多様な演奏媒体が可能であり、いずれも同じ価値を持つと考えていた証左にはなるでしょう。 - Eich, “Einleitung,” XIII. ここにはブラームスの六重奏曲の4手連弾用のピアノ編曲について、ほとんど受容に関する証言がないのが普通であるという主旨の指摘があります。なお、ブラームスがop. 18の第二楽章を抜粋編曲したヴァージョンは、クララもブラームスも公で演奏しました(Ibid., X)。この編曲はクララへの誕生日のプレゼントであり、ピアニストとしてのクララの力量では変奏曲楽章が単独でも「変奏曲」というピアノ・ジャンルの一作品として成り立つことを思うと、公開演奏に至るのも自然な成り行きかもしれません。
- ただし、ブラームスは自身が編曲者として公に現れることは忌避していたようです。
- Einleitung, X. ブラームスはピアノ・ソロのヴァージョンを「オリジナル」と捉えているとも説明したそうです。
- MGG Online(Schmidt 2016)やOxford Music Online(Bozarth, George S., and Walter Frisch. "Brahms, Johannes." Grove Music Online. 2001; Accessed 31 Jan. 2022.https://www.oxfordmusiconline.com/)にあるブラームスの作品目録において、op. 34bisやop. 39などの編曲は「編曲(Bearbeitungenもしくはarrangements)」の項目に分類されず、それぞれの編成のオリジナル作品の項目に挙がっています。