ピティナ調査・研究

26.「より本物らしく」—ピアノ編曲を通した作品理解(前半)

26.「より本物らしく」—ピアノ編曲を通した作品理解(前半)

前回の記事に書いたように、ピアノ編曲の一部はオリジナルを手軽な形で楽しめるように、アマチュアのニーズに合うよう作られていました。そうしたピアノ編曲(クラヴィーア・アウスツーク)は往々にして演奏が簡単——オリジナルの音楽を簡素化したタイプも多かったのです。
その一方で、もっと複雑で、オリジナルをより忠実に「再現」するピアノ編曲も存在しました。こちらのタイプはどういう歴史を辿り、またどのような目的で作られていたのでしょうか。編曲の具体例とともに見ていきましょう注釈1

まだ早い時期の17世紀頃のピアノ編曲は比較的簡素に作られていたようです。声楽作品のピアノ編曲なら、歌唱声部ははっきりと辿れるように、伴奏声部は和声を重視した作りになっていたと言います。
そこで具体的な姿を確認するため、試しにヒラーによる歌曲の編曲集(歌唱声部と鍵盤楽器)『ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの《メサイア》と《マカベウスのユダ》より、とても優れたアリア、二重唱、合唱 選曲集』(ドレスデン、ライプツィヒ:ヨハン・ゴットロープ・イマヌエル・ブライトコップフ、1789年)を覗いてみます注釈2。まずもってヒラーがこの曲集の冒頭につけた序文に、クラヴィーア・アウスツークという形の編曲が「この上ない寛ぎや熱心で私的な楽しみに最適」と書いていることが、曲集の用途を物語っています(序文は1788年に書かれました)。
譜面を見ると、確かに鍵盤楽器パートの両手はぎっしり音符があるというよりもスカスカ。また左手のパートには単音が目立ち、通奏低音の楽譜を連想させます。一方、右手が歌唱声部の旋律をなぞる程度は曲によってまちまちで、そうした箇所がほとんどない曲もあります。しかし右手は休符が多く——想像ですが——鍵盤楽器奏者は休符の箇所で歌唱声部の旋律を部分的に弾いてあげるなんてことも簡単にできそうです。
こうしたクラヴィーア・アウスツークからは、楽曲を細部まで再現するのではなく、曲の輪郭が掴めれば良い、というスタンスが伺えます。多少なり腕のある鍵盤楽器奏者が原曲を知っていれば、自分自身でオリジナルのパートを部分部分に加えていくこともできたでしょうし。

さて、19世紀になりますと、アマチュア向けの弾きやすいピアノ編曲が量産される一方で、弾きやすさとは真逆の、新しいタイプのピアノ編曲も生まれました。ピアノ編曲の歴史上、時代を画すると目されている編曲にカール・マリア・フォン・ウェーバーによるものがあります。ウェーバーといえばロマン的ジングシュピール《魔弾の射手Freischütz》(1821年)で有名ですが、自身が優れたピアノ奏者でもあった彼は、ピアノ曲の分野にも多くの功績を残しました(《舞踏への勧誘》などは現在でもメジャーなレパートリーです)。その功績の一つにピアノ編曲も数え入れられるのです。彼は自作の劇作品をピアノ編曲にする際に、厚い和音やトレモロを散りばめたり、ペダルを頻繁に使ったりするなど、オリジナルのオーケストラの豊かな響きをピアノで再現するべく工夫を凝らしています。さらにはオーケストラの楽器名も楽譜に記されており、なんとなれば奏者は指示された楽器の音色を意識しながらピアノのタッチを変えられたかもしれません。まさに「ピアノでオーケストラを演奏する」編曲であり注釈3、ここから響きをも含めてオリジナルを如実に描き出すピアノ編曲の発展の道が敷かれたと考えられています。本連載で以前に取り上げたフンメルのピアノ編曲はウェーバーの《魔弾の射手》の編曲にほんの少し遅れて出版されていますが、同じ系列に属する編曲と言っていいでしょう(ただし、フンメルの編曲は編曲者の個性も見られる編曲でした)。そして同じ系譜に連なるのが、フランツ・リストの有名な編曲群です。ベートーヴェンの交響曲をはじめ、ベルリオーズの《幻想交響曲》その他、数々の大編成作品をピアノ用に編曲していくリストの手法は、まさに重厚なオーケストラをピアノに「写していく」編曲と形容できます。

オーケストラの響きをピアノに移し替えるのには、ピアノという楽器の発展も関わっていました注釈4。第一に、ピアノ以前に広く普及していたチェンバロは、強弱の漸次的な変化など、音のニュアンスを自由自在につけるのは不得手です。1700年頃にクリストーフォリがピアノを発明したからこそ、家庭で用いる鍵盤楽器でも、オーケストラで使われる弦楽器や管楽器と似たように音色や強弱を自由裁量で変えていくことが可能になりました。
しかし初期のピアノではオーケストラを模倣するにはまだ能力不足です。当時のピアノは「フォルテピアノ」と呼ばれ、コンサート・グランドピアノをはじめとする今日のピアノ(モダン・ピアノ)から区別されています。これは18世紀〜19世紀初頭のフォルテピアノがモダン・ピアノとかなり異なる性質を持っていたからです。フォルテピアノはモダン・ピアノに比べて音も小さく、響きの豊かさもモダン・ピアノに程遠く、とても大規模なオーケストラのような広がりのある音響は望めません。
しかし18世紀終わり頃からピアノは目覚ましく発展し、楽器は堅固になり、それに伴い響きも豊かで重厚になります。当初は5オクターヴ程度だった鍵盤の幅も広がって、また音色を変えるペダル機構も充実してきました。こうなれば一台の楽器でオーケストラの楽器の音域をカヴァーするのも可能ですし、ペダルを上手く使えば音色の多様性も管弦楽のそれに近づきます。
ウェーバーが上のようなピアノ編曲を書けた理由の一つには、このピアノという楽器がオーケストラの模倣を可能にするような変化を遂げてきたという背景があります。そしてフランツ・リストはまさしく、このピアノという楽器の利点を挙げて、オーケストラを模すことができるのだと述べているのです注釈5

  • 歴史的変遷はRichard Schaal und Klaus Burmeister, “Klavierauszug,” ed. Laurenz Lütteken, Kassel; Stuttgart; New York, 1996; online published 2016, http://www.mgg-online.comで概要が確認できます。今回の記事でも、歴史的経緯は上記の説明に則っています。
  • 完全なタイトルは『ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの《メサイア》と《マカベウスのユダ》より、とても優れたアリア、二重唱、合唱 選曲集。選帝侯【宮廷】楽長兼音楽監督ヨハン・アダム・ヒラーによりクラヴィーアに適した形に仕立てられた』(Auszüge / aus / vorzüglichsten / Arien, Dutten und Chöre / aus / Georg Friedrich Händels / Messias und Judas Maccabäus, / in Claviermäßiger Form, / von Johann Adam Hiller, / Herzöglich, Curländischen Kapellmeister und Musikdirektor in Leipzig / Leipzig und Dresden / vorgelegt von Johann Gottlob Breitkopf / 1789)。
    IMSLPで楽譜を閲覧できます。
  • この一方で、フォーグラーなどはオリジナルへの忠実さよりもピアノの書法に適した自由な編曲を好んで書きました。
  • この点については、Arnfried Edler (2016), “Das Orchestrale Klavier,” in Schumann Forschungen, vol. 15, Klavierbearbeitung im 19. Jahrhundert. Bericht über das Symposion am 25. November 2012 in Köln, eds. Birgit Spörl (Mainz et al.: Schott), 23–33に詳しく論じられています。
  • Ibid., 27.