ピティナ調査・研究

24.ピアノ編曲の多様性と特異性

24.ピアノ編曲の多様性と特異性

大編成から小編成までオリジナルと同じくらい選択肢の幅がある編曲の中でも、19世紀のピアノへの編曲には他の編曲にはない特殊性が指摘されます。
このことは、ピアノ編曲のみに「クラヴィーアアウスツークKlavierauszug」というドイツ語が存在することに象徴されています。「クラヴィーア」とはドイツ語で鍵盤そのものないしは鍵盤楽器を指し、アウスツークAuszugとは「要約」や「抜粋」といった意味です。まとめれば「鍵盤(鍵盤楽器)での要約」とも言えそうです。ただしこの言葉はドイツ語以外の言語にはありません。ドイツ語の権威的な音楽事典(MGG)によりますと、ヨーハン・アダム・ヒラーが歌曲集《イタリア歌曲名作集Meisterstücke des italienischen Gesangs》から一部の曲を抜粋して鍵盤楽器用に編曲した際にクラヴィーアアウスツークClavierauszugという言葉を用いたのがこの言葉の最初の用例だとみなされており、のちに歌曲の編曲だけでなく器楽の鍵盤楽器編曲も指すようになったということです注釈1
しかしクラヴィーアアウスツークの言葉で括られる編曲は、「フルート二重奏編曲」のように楽譜の形が一義的ではありませんでした(そのため既に筆者も、「ピアノ編曲」という一言で括ってしまうことに抵抗すら覚え始めています)。すなわち、オリジナルの声部が全て鍵盤楽器の声部だけに移されるタイプと(つまり編曲後の楽譜はピアノ声部のみ。「全ての声部」といっても、もちろん取捨選択はあり得ます)、オリジナルの歌唱声部や協奏曲などの器楽ソロ声部を鍵盤楽器声部とは別に記譜するタイプです(編曲後の楽譜はピアノ声部+ソロ声部)。
少しややこしくなりますが、この後の話を進めるためにこの二種について補足説明をしておきましょう(以下、英語とドイツ語の文献が混ざりますので、煩雑さを避けるため、鍵盤楽器を総称する「クラヴィーア」も便宜上「ピアノ」と記します)。音楽学において、クラヴィーアアウスツークが示すこの二種を区別する決まったドイツ語はないようです。他方、英語圏では、これらに対応する言葉としてpiano reductionとpiano score(またはvocal score)という語があります。しかし困ったことにこの二語にも明確な定義があるとは言い難いのです。例えばクラヴィーアアウスツークの研究書を著したヘルムート・ロースは、オリジナルの全ての声部が鍵盤楽器に移されるタイプをpiano reduction(Klavierreduktion)であるとし、歌唱声部が鍵盤楽器とは別に記譜されているタイプがpiano score / vocal score(Vokalpartitur)であるとしています(歌唱声部ではなく器楽ソロが別記されている場合、ロースは“Klavierpartitur”という言葉を避けると述べて、Solistenpartiturという語を当てています注釈2)。一方、ベートーヴェンの新作品全集を見ると、室内楽作品で鍵盤楽器以外の楽器が小さく記譜されている楽譜を”Klavierpartitur“と呼んでおり、大編成作品や歌唱声部つきの作品には適用されていないように読めるのです注釈3確かに後者はこんにちでも室内楽作品のピアノ・パートで一般的に用いられている形ですが)。
さらに英語の音楽事典Oxford Music Onlineで “Klavierauszug”を引いてみると、歌唱声部付きの作品のピアノ編曲ということになっており、特に歌唱声部には手を加えていないもの、という補足説明があります。この鍵盤楽器+歌唱声部という記譜は同事典が “Score”の項目で説明している “a vocal score“ないし”a piano-vocal score”と同義ということになり、先に出したロースの語法ではVokalpartiturに当たります。それでは歌唱声部の有無に関わらないpiano reductionはOxford Music Onlineでどうなっているかというと“a piano score”が「何らかのアンサンブルをピアノ・ソロに」したもの、とされています。これはベートーヴェン作品目録やロースとは異なる説明です。
さらにドイツ語の中でクラヴィーアアウスツークとArrangementの違いは何か、ということもまたはっきりしません。ロースは自身の研究書の中でフーゴ・リーマンという研究者の事典をひきながら注釈4、自著の中での用語の使い分けを試みています。彼は「既存の楽曲や既存の音楽素材を何らかの方法で使った」音楽にはドイツ語で「翻訳」を意味するÜbertragungという言葉を使うと決めています。そしてオリジナルにできる限り忠実な編曲を “Arrangement”、オリジナルを自由に扱った編曲を“Bearbeitung”と呼ぶ、と定めました注釈5。そしてKlavierauszugはArrangementに属するものと位置づけています。このようにロースがわざわざ細かな言葉の定義を書かなければいけなかったところからも、それぞれの用語の適用範囲が明確に定まっていなかったことがわかります。
それに対して再びベートーヴェンの作品目録に目を向けると、オリジナルの初版と同時に出版されたピアノ譜や、初版が総譜ではなくピアノ譜でしか出版されなかった場合には、それらのピアノ譜が初版の項に「Klavierauszug」として挙げられ、その他の初版の再版や後続版も同様にKlavierauszugと記されています。それ以外でピアノ用に仕立てられた楽譜は「編曲Arrangement」の項目にて「ピアノ二手用」などとして記されているのが一般的です。こうした点からは、恐らくベートーヴェン作品目録もロースと同じようにKlavierauszugをオリジナルに忠実なものだとする見解に立っているのだろうと思います。またその一方で「Arrangement」の項目の中に、「Klavierauszug」として掲載されている出版譜もわずかにあるのです注釈6。ただしArrangementの項にあるKlavierauszugとそれ以外の項にあるものの厳密な区別に関する説明は見受けられません。
例に出したロースとベートーヴェン作品目録の見解が同じかどうかを問うには、ロースが規定したところのArrangementの程度、つまりどの程度オリジナルに忠実ならばArrangementなのか、ということを明かさなければなりません。しかしそもそもオリジナルをピアノに移したとき、音楽的内容が「できる限り忠実か」ということの「忠実」の度合いは数値で測れるものではありません。それを考えれば以上に示したような可変的な語用は必然の結果でしょう。さらに言えば、ここで例にとっているのは広い音楽学の中のほんの一角ですから、他の研究者の用例を合わせて一般的な語用を掴もうと思ったら、それこそ大変な研究になりそうです。

さて、語用論が長くなりましたが、以上に示したことから、ピアノ編曲と一口に言っても実に多種多様な形態があるのがお分かりいただけるかと思います。そしてこの多様性にこそ、ピアノ編曲の担った役割の多様性が反映されていると思います。
それでは次回以降、具体的にそれらの役割を考えていくことにしましょう。

  • Richard Schaal und Klaus Burmeister, “Klavierauszug,” ed. Laurenz Lütteken, Kassel; Stuttgart; New York, 1996; online published 2016, http://www.mgg-online.com
  • Helmut Loos, Zur Klavierübertragung von Werken für und mit Orchester des 19. und 20. Jahrhunderts, München; Salzburg: Katzbichler, 1983, 17.
  • Beethoven-Haus Bonnのデジタル・アーカイヴにある辞典(“Glossar”)では、Klavierauszugの項で両者が特に区別なく説明されています。対応する英語のページ(“Glossary”)では“piano reduction, piano score”という見出しで一項にまとめられていますが、特に両単語の区別には触れられていません(https://www.beethoven.de/en/glossar_archiv, accessed February, 4, 2021)。
  • Riemann, Musiklexikon, Sachteil, ed. Wilibald Gurlitt and Hans Heinrich Eggebrecht, Mainz; New York: B. Schott,1976. ロースが参考文献に挙げているのはしているのは“Arrangement,”“Bearbeitung,” “Klavierauszug”の項。
  • Loos, 16. ロースはBearbeitungがÜbertragungの上位概念として使われることを承知の上で、自著での語法をこのように規定しています。
  • 交響曲第9番のカール・チェルニーによるピアノ四手用は、“Arrangement”の項目の初めに「Klavierauszug」として挙がっています。