ピティナ調査・研究

19.拡大編曲(1)

19.拡大編曲(1)
ベートーヴェン ピアノ三重奏曲 Op.1第3番ハ短調の弦楽五重奏編曲 Op.104

ベートーヴェンのピアノ三重奏曲Op.1第3番をカウフマンが編曲した弦楽五重奏曲。これがベートーヴェンの満足を得られず、作曲家本人に手を加えられてしまったのは前回お話した通りです。この五重奏曲は最終的にOp.104としてヴィーンのアルタリア社から1819年2月に出版され、現在、ヘンレ社から出版されているベートーヴェン作品新全集に収められています。
オリジナルと編曲を比べてみますと、オリジナルの音楽にさほど影響しないもの(ピアノに適したイディオムから弦楽器のそれへ変えるなど楽器の特性を考慮したと思われる変更や、伴奏和音の補強など)から、全く新しい動機を加えるといった独創的なものまで、オリジナルからの変更のレベルは様々です。ただし新全集のスコアでは、どれがカウフマンによる変更で、どれがベートーヴェンによる修正なのか分かりません。ベートーヴェンはカウフマンによる編曲のどこが気に入らなかったのでしょうか。

幸い、弦楽五重奏編曲Op.104は現在、コピストの手で作られた筆写スコアがベルリンのプロイセン文化財団に保管されています(この自筆譜は元の所有者名をとってGransick11と呼ばれており、以下、本稿でもこれにしたがいます。)注釈1。そしてこの筆写譜にはベートーヴェンの自筆で多岐にわたる修正が書き込まれているのです。コピストがカウフマンの書いた編曲をそのまま写したものがGrasnick11なのか、それともコピストが筆写譜を作る前に既にカウフマン稿に多少の修正が加えられていたのか、確実なことはわかっていません。資料研究の大家であるアラン・タイソンはコピストの筆写した元の音楽がカウフマン編曲稿である可能性が高いという見解です注釈2
ですからタイソンの推測が正しいとすれば、私たちはGrasnick11の修正を見れば、ベートーヴェンがどこを直したのか——つまりベートーヴェンにとって編曲の何が「不適切」だったのか、手がかりが得られるのです。

タイソン論にしたがってベートーヴェンの修正が入る前の稿をカウフマンの作った編曲稿としてオリジナルと比較すると、編曲手法に興味深い特徴があるのが分かります。前回取り上げたフンメルの編曲は、楽器語法に合わせた音形の変更や和音の補強、アーティキュレーションや強弱法の変更はあれども、新たな動機や旋律声部の追加などは目立たず、概ねオリジナルの忠実な再現を目指すタイプの編曲と位置付けられました。
カウフマンとベートーヴェンの編曲はこれとは対照的です。この後、具体的に見ていきますが、カウフマンは、所々でオリジナルにはない動機を加えたり、弦楽器でも弾けるはずの音形を変えたりと、オリジナルから大きく離れる変更も行っているのです。さらにそこにベートーヴェンが加えた修正は、カウフマン稿をよりオリジナルの姿から遠くするものなのです。引用したベートーヴェンの言葉から彼の修正の多くが「5声部」の重視に由来するのは明らかですが、どうやらカウフマンもベートーヴェンに違わず、編曲に当たって「弦楽五重奏曲」という室内楽ジャンルを強く意識したと思われます。
オリジナルからの変更には、音響の工夫や、変更箇所のオリジナルの音楽を想像できないほど独創的なものまで様々にあります。そのうち今回は、話のテーマに合わせて、五重奏という室内楽編曲を意識したと思われるものに焦点を絞り、いくつかの例を上げて考察します。

五重奏曲という編成を意識?

弦楽五重奏曲、つまり5声の室内楽といいますと、当時の認識では5つの声部がどれも独立していることが求められたようです注釈3。そうだとすれば、ともすると5声以下(ピアノの両手、ヴァイオリン、チェロの4声が基本)のピアノ三重奏曲から弦楽五重奏曲に編曲するとき、オリジナルの各声部をそのまま転写してもうまくいきません。カウフマンは多くの箇所で、5パートそれぞれが自立的に動く形へオリジナルを変更し、この問題を解決しています。

その中には、オリジナルの音形にごく僅かに手を加えただけのものもあります。例えば第2楽章第1変奏を例に取りましょう。ここでヴィオラはオリジナルのピアノの8分音符の分散和音を担っています。ところがオリジナルの第35小節で8分音符の伴奏が途切れる瞬間に、ファースト・ヴィオラは16分音符を含む動機に変わり、小節後半の16分音符への橋渡しを作っています(第1変奏第3小節)。このおかげでヴィオラ声部はただ単調な伴奏ではなく、より個性的で生き生きとしたものになっているのです。何でもない変更に見えますけれど、声部の自立性を高めるちょっとした工夫です。
【譜例1】(本稿の弦楽五重奏曲の譜例は、ベルリン州立図書館蔵のGrasnik11に基づき、カウフマン稿にベートーヴェンが書き込んだ修正を赤で示しています。ただし、ベートーヴェンの書き込みなのか、コピストが元々書いていたものなのか判別が難しいところもあるので、あくまで筆者の解読としてご覧ください。なお、連桁の向きや小節番号など音楽そのものに影響しないところはフォーマットの関係上、断りなく付加変更しています)

譜例1
ピアノ三重奏曲Op.1第3番 第2楽章 第1変奏
弦楽五重奏曲Op.104

オリジナルでは同じ声部にあった動機を複数の動機に分割する手法も、声部同士の「掛け合い」を作り出します。先に出した譜例1の第2楽章の後楽節を例に取りましょう。ファースト・ヴァイオリンの分散和音が、セカンド・ヴァイオリンとファースト・ヴィオラに分割されています(和音の音そのものも変わっていますね)。
また第3楽章第13~14小節では、オリジナルの上行音形が、リズムを多少変えて2つのヴァイオリンに演奏されます。オリジナルでこの上行音形は左手と右手の両方で演奏され、記譜上も右手は休符ですから、元々この動機は上下2声に分割されていたものだと見ることができますが……(スラーも右手にしかありません) 。カウフマンはここでファースト・ヴァイオリンにはアウフタクトを加え、また2つの楽器を第15小節冒頭で重ねることで、ポリフォニックなテクスチュアをはっきりさせています。【譜例2a】

譜例2a
Op.1第3番第3楽章 第12~15小節
Op.104第3楽章 カウフマン稿

ちなみにベートーヴェンの修正では、低声部がもっと活き活きと動いています。【譜例2b】

譜例2b

またカウフマンは、新しい動機をそこかしこに加え、声部同士の動機の応答や対位法的なあやを作り出しています。例は様々にありますが先ほどから例に出している第2楽章第1変奏の終わりにも良い例があります。【譜例3】

譜例3
Op.1第3番第2楽章 第1変奏 第44~48小節
Op.104第2楽章 第1変奏 第44~48小節
カウフマン稿
第47小節の1st ヴァイオリンと1stヴィオラはベートーヴェンの修正によりカウフマンの稿がわかりにくくなっている。

第3楽章のTrio部では、オリジナルになかったヴィオラの対旋律や、上声部と反行する音階が加えられています(第70小節)。【譜例4】

譜例4
Op.1第3番 第3楽章 トリオ 第65小節~
Op.104 カウフマン稿(赤字はベートーヴェンによる修正)

第1楽章でも、第69小節からファースト・ヴァイオリンに主題の動機断片が現れます 【譜例5】。

譜例5
Op.1第3番 第1楽章 第67小節~
Op.104 第1楽章 第67小節~

また第4楽章再現部の主題ではセカンド・ヴァイオリンが直前の小節のファーストヴァイオリンの旋律を逐一繰り返しています注釈4。【譜例6】

譜例6
Op.1第3番第4楽章 第250小節~
Op.104 ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリン

こうしてオリジナルにはない動機を付け加える時、例にもあるようにカウフマンは往々にして既存の動機素材を用いています。その理由は単に新しい素材が思いつかなかったとか、素材のリサイクルで手間を省くということも考えられますが、いずれにせよ結果的には、楽曲の部分間に新たに関連の網の目ができているのです。
カウフマンの工夫は他にも様々にありますが、もう一つ注目したいのは、「弦楽五重奏」というジャンルに特徴的な楽器の交替を取り入れていることです。例えば第4楽章第180小節では、オリジナルでヴァイオリンとチェロにあった主題動機が2つのヴィオラに割り当てられています。そして第186小節からは、オリジナルではピアノ声部に主題動機が移っていたのに対して、編曲は2つのヴァイオリンに交替しています。繰り返し前をオリジナルと同じヴァイオリンとチェロの組み合わせにするのも問題なくできるはずですが、なぜカウフマンはこのように変更したのでしょうか。ここに弦楽五重奏というジャンルが絡んでいると思われます。というのも、当時の弦楽五重奏では、楽想の繰り返しで声部のグループを交替させる手法は典型的なのです。そして編成がヴァイオリンとヴィオラを2つずつ含む場合、同一楽器のペアが同じ動機を反復するというのは、実によく見られる構図です。

以上から、編曲に当たってのカウフマンの「ジャンル意識」と言うべきものが見えたわけですが、ベートーヴェンの編曲はどうなのでしょうか。次回はベートーヴェンの修正を検討します。

  • Staatsbibliothek zu Berlin Preußischer Kurturbesitz, Signatur, Mus.ms.autogr. Beethoven, L. v., Grasnick 11. 資料はベルリン州立図書館のホームページでオンライン閲覧可能("Quintette; vl (2), vla (2), vlc; c-Moll; LvBWV op.104; KinB 104; op.104, "Digitalisierte Sammlungen der Staatsbibliothek zu Berlin Preußischer Kulturbesitz, http://resolver.staatsbibliothek-berlin.de/SBB0002318700000000)。
  • タイソンはベートーヴェンがその他の自作品の筆写譜に書きこむ赤入れとGrasnick11への修正との性格の違いから、編曲でベートーヴェンに起因する部分はGrasnick11の書き込み部分に限られると推測しています。(Alan Tyson,“The Authors of the Op.104 String Quintet ”, in Alan Tyson (ed.), Beethoven Studies 1 (New York: Norton,1973), 158-173(ここではp. 163))
  • 音楽理論家ハインリヒ・クリストフ・コッホHeinrich Chrisoph Kochは自身が著した音楽事典Musikalisches Lexikon (1802; Faksimile-Reprint, hrsg. und mit einer Einfphrung versehen von Nicole Schwindt, Kassel et al.: Bärenreiter, 2001)において、器楽の五重奏には四重奏曲と同じことが当てはまるとし(art. “Quintett, (Quintetto), col. 1226)四重奏の項(art. “Quartuor,” col. 1209-1210)で、声部の平等が求められる旨を書いています。コッホは「最近の」、つまりこの辞書が書かれた1800年頃の四重奏曲が必ずしも厳格な書法を取らないと述べつつ、それでも各声部が主声部を交替で担うと指摘しています。ここからも、声部同士の対等な関係が依然として求められていたのがわかります。
  • タイソンはこれを「陳腐」と批判していますが、カウフマンが5声体アンサンブルであることや声部同士の結びつきに考慮したと考えた点は評価してもいいのでは、とも思われます。(Tyson, p. 168)


  • ※第19回、第20回のOp. 1第3番の譜例は
    Ludwig van Beethoven, Trios für Klavier, Violine und Violoncello, Bd. 1, nach dem Originalausgaben hrsg. v. Günter Raphael, München: G. Henle, 1964 (HN9024)に基づく。