15. 編曲シリーズ—出版社のマーケティング?
前回までのところで、編曲が経済的利益をもたらすことについて触れました。これに関して19世紀、「マーケティング戦略」とでも呼べるような興味深い編曲出版が行われていました。それは、特定の作曲家、特定の音楽ジャンルのシリーズ編曲です。
ベートーヴェンの編曲から例をとると、各国の出版社によるシリーズ出版が目を引きます。ベートーヴェンの生前、19世紀の初めのものでは、ロンドンの二つの出版社によるシリーズがあります。どちらもベートーヴェンの交響曲の編曲版です。一つはモンツァーニ・アンド・カンパニーMonzani & Co.(1825年頃からはモンツァーニ・アンド・ヒルMonzani & Hill社)から刊行された七重奏曲版で、ジローラモ・マージGirolamo Masiが交響曲第1番から第3番を、ウィリアム・ワットWilliam Wattが第4番から第6番を編曲しています。
もう一つはチャペル・アンド・カンパニー Chappel & Co社から出版されたヨハン・ネポムク・フンメルが手がけたベートーヴェンの交響曲第1番から第7番までの編曲で、二つの演奏形態で演奏可能な楽譜を一度に出版するというもの。これについては、編曲の内容とともに後で詳しく論じます。
その他にも、やはりベートーヴェンの生前に、全く同じ編曲者が同じ出版社から、同一ジャンルに属する複数の作品を特定の編成へ編曲しているケースがあります。ベートーヴェンの友人で出版業を営んでいたジムロックも、そうした編曲譜を刊行しています。弦楽器のための室内楽を見てみますと、ベートーヴェンの弦楽三重奏曲op. 3、op. 9ないし弦楽四重奏曲op. 59がカール・ダーフィト・シュテークマンCahl David Stegmann、弦楽四重奏曲op. 74とop. 95がフランツ・クサヴァー・グライヒアウフFranz Xaver Gleichaufによって4手ピアノに編曲されるといった具合です(出版地は前者がボン・ケルン、後者がボン)。表紙の装飾などはそれぞれ違いますが、編曲者もジャンルも共通するところから、出版社がシリーズ感覚で編曲譜を作らせていた可能性も考えられます。
弦楽四重奏曲は19世紀半ば以降、ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社も様々な編曲者による4手ピアノ版シリーズを複数巻に分けて出版しています注釈1。
注釈1:少し変わった編曲シリーズとしては、ツェルニーによる協奏曲のピアノ・リダクションがありますが、これについては編曲のあり方が別種になるため、またの機会に取り上げましょう。
「シリーズ」販売には様々な意味があります。一つには、19世紀から徐々に強くなってきた「作品集」編纂の傾向が考えられます。最後に述べたブライトコップフ・ウント・ヘルテル版などは、個々の編曲版を既に一部分刊行したのちに、一連の編曲の広告を出していますが、これを19世紀半ばという年代と考え併せると、一人の作曲家の作品を「纏める」という時代思想が現れているように思われます。
もう一つ、考えられる意味は、やはり経済的利益です。今でもシリーズものは魅力的ではありませんか?好みの演奏家がバッハの作品を全てCD録音・販売すると言われたら、全部集めたくなるでしょう。好きな映画の続編が公開されることになったら、映画館に通ったりDVDを買ったりするでしょう(とても好きな作品なら、シリーズ全てのコレクターズ・エディションを購入する人もいるでしょう)。編曲の場合もそれと似たように、一部の購買層がシリーズ全体を継続的に購入してくれると見込めたのではないでしょうか。
上に挙げた編曲の中でも、経済的利益を見込んで戦略的に作られたと言えるのがフンメルによる編曲です。フンメルのピアノ四重奏版は、モーツァルトやベートーヴェンの作品を英国で広めようとしていたヨハン・ラインホルト・シュルツという人物の提案で作られたと言われており、実際フンメルはモーツァルト作品の編曲シリーズも手がけていました。
そしてフンメルはベートーヴェンの交響曲の編曲版を、ロンドンだけではなく国際的に出版しようと、ドイツおよびパリに事業を展開する出版社に売り込みます。その結果、パリではショット、シュレジンガー(シュレザンジェ)、プレイエル (プライエル)、ジムロック社によって、ドイツ市場にはジムロックとショット社を通してフンメルの編曲版が国際的に広まっていきました(ロンドン以外で全曲を同じ会社から出版することにならなかったのは、出版交渉の成り行きゆえでしょう。なお第5番以降、ショット社の編曲版表紙にはマインツ、パリのほかアントワープも加わっています)。
さらにこのフンメル編曲は、作り方にも購買層を広げる工夫があります。すなわち、ピアノ・ソロでもピアノ四重奏でも演奏可能になっているのです。例えばロンドン版のタイトルは「ベートーヴェンのグランド・シンフォニー、ピアノ・フォルテのための編曲、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの伴奏付き」となっておりますが、値段を見ますとピアノ・パートだけで買った時の値段と、伴奏も含めて買った時の値段が別々に書かれています。実際、著者が古書店で購入したフンメル版はピアノ・パートしかなく、伴奏パートは付いておりませんでした。元の所有者はピアノ・パートのみ買ったに違いありません。また他国の版ではピアノ以外の楽器が「アド・リビトゥム」、つまり加えるか否かは演奏者が自由に選べるようになっていますし、ショット社はピアノ・ソロと四重奏のそれぞれのヴァージョンに個別のタイトル・ページを作っています。
次の回では、フンメルの作った編曲の中身を覗いてみます。
注釈1:少し変わった編曲シリーズとしては、ツェルニーによる協奏曲のピアノ・リダクションがありますが、これについては編曲のあり方が別種になるため、またの機会に取り上げましょう。