ピティナ調査・研究

12.「編曲」と「オリジナル」の境界―「作品」とは何か?

12.「編曲」と「オリジナル」の境界―「作品」とは何か?

これまで本連載では、18~19世紀の編曲の種類や、その様々な機能と在り方などを概観してきました。前回までの話を振り返ると、「編曲」はどうやら随分と幅広い音楽を内包する言葉のようです。ひいては、「編曲」とは、「作品」とは何か、という音楽に関する根本的な疑問すら浮かんできます。ここで、一度「編曲」「オリジナル」「作品」といった用語を、概念のレベルで整理しておきたいと思います。

「編曲」概念の射程

連載第1~2回で概観したように、一般的に「編曲」と和訳されるドイツ語の単語「ベアルバイトゥングBearbeitung」は、転用や改作、トランスクリプション、歌詞のみを変えるコントラファクトゥムなど、非常に様々な意味があります。これは現代の我々が第一に頭に浮かべる「編曲」よりもずっと広範な概念であり、対応する適切な訳語が見つからないほどです。

そこで、この連載では扱う「ベアルバイトゥング」の範囲を狭めて、演奏媒体の変更を伴う音楽の書き換えを、「編曲」と訳して扱うことにしました。しかし歴史の中から編曲にまつわる話を探してみると、「演奏媒体の変更有り」という限定を加えてもなお、編曲の範囲を規定することの難しさが浮かび上がってきます。交響曲を室内楽に書き換える「編曲」から、もともとピアノ作品の一部だったものをオーケストレーションし直し、舞台音楽の一部に「転用」するのも、管楽作品の内実を大きく改変して弦楽器のための五重奏曲に仕立てるのも、「編曲」に分類することができます。ひいては、人気のオペラなど既存の音楽から変奏曲の主題を取った場合にも、狭義の「編曲」と共通の手順が踏まれます。

このように「編曲」を特定のカテゴリーに収めようとしても、音楽的営みの実状をみると、「編曲」を捉え切るためのフレームは大きくなるばかりです。一体、当時の人々は(限定をつけたとしても)どこからどこまでを「編曲」と考えていたのでしょうか。そして、私たちはどこに「編曲」と「オリジナル」の線引きをすれば良いのでしょうか。

当時の人々にとっての「編曲」と「オリジナル」

これまで、折に触れて18~19世紀を生きた作曲家たちの証言を紹介しましたが、彼らの言葉に耳を傾けても、はっきりとした答えは得られませんでした。例えばベートーヴェンは演奏媒体の変更を伴う編曲の難しさを訴え、編曲ブームに(表向き)不平を漏らしていました(第5回参照)。また、当時の編曲出版譜にも「~による編曲」と明示され、ここに「アレンジ(英)/ アランジェ(仏)/ アレンジーレン(独)arrange/ arranger / arrangieren」という動詞が使われています(「~にあわせて書き換えた/ adapted for~」と書いてある場合もあります)。ここから、当時の人々が「編曲」と「オリジナル」の区別を認識していたということは間違いないようです。

しかし他方で、ベートーヴェンのピアノ四重奏曲または五重奏曲のように、異なる編成で演奏できるように複数のパート譜が作曲者自身によって書かれ、作曲者の了解のもとに同時出版されるケースもありました(第6回参照)。また、自由に追加の声部を加える「アド・リビトゥム」の習慣もありました。こうした事実は、そもそも作品が作曲家の承認付で「可変的」だったことを証明しています。こうなるといよいよ「オリジナル」という概念そのものを考え直さなくてはならなくなってきます。

「作品のオリジナル性」はどこにあるのか

数年前、有名なモーツァルトの《ピアノ・ソナタ》K331「トルコ行進曲つき」の自筆譜が新たに発見され、今まで一次資料として使われていた出版譜の内容が一部、モーツァルトの自筆譜と相違していることが判明しました。作曲家の意図に基づくオーセンティックな曲の姿という、その重要性には疑問の余地がありません。

しかし、前回までに概観した、編曲をめぐる歴史的事例の数々は、当時、「オリジナル」の変更自体が慣習的に頻繁に行われていた実態を物語っています。例えばモーツァルトのいくつかのセレナーデは、演奏される土地によって、交響曲としてもセレナーデとしても演奏されていました(第10回参照)。楽章構成の変更など、楽曲の元々の形が習慣的にに変化するのだとしたら、作品に「絶対的なオリジナル性」はあるのでしょうか。

この問題に答えようとすると、そもそもある楽曲が「作品」として規定される条件は何か、という芸術の存在論に関する新たな問いが生じてきます。我々は何をもとに「作品」の同一性を認識しているのでしょうか。

私たちは作品の同一性をいかに認識しているか

繰り返しになりますが、作曲家の意図する曲の在り方や演奏など、真正性は極めて重要です。各楽曲のオーセンティシティの重要性を蔑ろにすることは、まったく筆者の意図するところではありません。問題にしたいのは、むしろ「編曲」と「オリジナル」の区別がどこから生じるのか、という点です。

この問いに答える上で、制作者―作品―受容者の三者の間に作品を位置付けてみることは、有効な方法です。例えば、私たちは給湯器の通知音で聞いても、オーケストラで聴いても《パッヘルベルのカノン》は《パッヘルベルのカノン》と認識するでしょう。ピアノの発表会などでモーツァルトのソナタの終楽章だけが抜粋されても、それを「モーツァルトのソナタとは違う作品だ」という人はいないでしょう。普段、あまり意識しませんが、私たちが音楽作品を同定する上で、演奏媒体や楽章の順番などは重要ではないようです。

受容者の認識が「作品」を生み出す

この経験を「編曲」に当てはめて考えると、実に悩ましい問題が起こります。私たちは「編曲」を聞いて、「オリジナル」が何か特定できます。それでは「編曲」は「オリジナル」と同じ作品でしょうか?なかなか答えにくい問題です。事実、ベートーヴェンの管弦楽七重奏曲のピアノ三重奏曲編曲の例にあるように、作曲家自身がオリジナルとは別の「作品」番号をつけて出版しているケースがあります。作曲者側の視点では「編曲」も個別の「作品」となりうる、という意味と捉えられます。

さらに、編曲されていなくても、演奏される機会や、音楽の社会的機能という観点からみた場合、ある音楽は自律的な「作品」として成立したり、典礼を成り立たせる一要素になったりします。例えば、ミサ曲が演奏会曲目として演奏されたら、その時点でミサ曲は多かれ少なかれ、本来の典礼の一部としての意味を失います。つまり音楽作品は置かれる場所が変われば意味が変わるのです。ということは、音楽「作品」を規定するのは、必ずしも作品元来の意味・機能ではなく、聴き手がその音楽を「作品として」受容するかどうかという、受容者側の認識に関わっているといえます。