ピティナ調査・研究

第46回「初めてのラブレター」

近年のポップスを見ると、その大半が男女の恋愛に関する内容で占められているように思われる。ごく最近のマス的音楽産業の崩壊っぷりと、その廃墟にちらほら見られる新たな萌芽を観察すれば、もしかしたらそれとは違った傾向も発見できるのかもしれませんが、少なくともちょっと前まではそんな感じでした。音楽というものはどうやらロマンチック・ラブと相性が良いらしい。

市場経済に飲み込まれる中で、音楽がここまで恋愛に特化してしまった経緯や理由について考察しだすと興味深くてキリがありません。そもそも「愛」という概念がどうやって現在あるような形に出来上がっていったのか、という辺りからきちんと追わねばならなくなってくる。そうやって辿ってみると、現代の恋愛至上主義的な幻想はロマン派の感受性をそのまま引きずったものであることがわかってきます。

ロマン派において恋愛がかくも神聖で重要なものと捉えられたのはなぜか、という問いに説明をつけようとすると、これがまたなかなか奥の深い問題のようです。たとえば――宗教的なもの、超越的なものへの志向が受け皿を失い、人々が卑近な対象に超越性を投影するロマン主義へと堕落していく中、12世紀から受け継がれた「気高き『宮廷風恋愛』」という思想が取り込まれ、その結果、ひとりの異性に神性を降臨させるような過大な幻想が生まれたのだ、とかなんとか。

このような考察が正しいのかどうか別として、ともかく、特にドイツロマン派の作品において「愛」は思想的に大変に重要なものであったことは事実です。いや、作品だけの話ではなく、多くの人々にとって、「恋愛」は人生観の中心に居座る概念となっていたのでしょう。もともと恋というのは感情的な面と観念的な面の双方を備えたものに違いないんですが、観念的な部分だけがそうやってどんどん肥大化してくるとまあ大抵いいことありません。

恋の終わりはほぼ世界の終わりと同じくらいの意味を持ってしまうので、たとえば連作歌曲なんかだと大体が失恋しては「もうダメだ、死ぬしかない」といった展開になります。あるいは本当に死ぬための気合が足りない場合には、「死んだように生きていこう」みたいな感じになります。「今となってはいい思い出だよ」などと前向きに受け入れる姿勢を見せる主人公はあまり見当たりません。たぶん、(実際の自分がどうであれ)諦めて新しい恋を探そう、なんて態度を表向きに認めると「至上の恋愛」という観念が崩壊してしまうので、そんな軽めの考え方は存在しないものとして扱おう、ということなのでしょう。

今回の「初めてのラブレター」、チャーミングなタイトルと切な甘酸っぱいメロディーで、個人的にも良くアンコールピースとして取り上げてしまう作品。『エスキス』の中でも特に、誰もが共感しやすい曲と言えそうなのですが、しかしロマン派的な感受性を前提に考えてみると、この「深刻さの一切ない追想」という切り口、実は割と珍しいものかもしれない。そして、こういう観念的な呪縛からふっと離れた素朴と言ってもいいようなイメージがあるからこそ、『エスキス』の世界はこれほど豊かになったのだと思います。

観念的に物事を突き詰め、全てに深い精神性を求めるのもひとつの真っ当な態度ですが、それだけでは取りこぼしてしまうものも確かにある。対象物に過剰なまでの意味合いと重みを投影するのがロマン主義の真髄かもしれないけれど、幻想にも様々な深度があって、浅い領域にだって捨て置けない独自の魅力が存在します。アルカンはそのバランス感覚を大事にできた人で、そこがロマン派的な感性からすれば弱みであり、逆に現代的な視点で捉えれば強みでもあるのだと感じます。

さて、演奏にあたっての注意点。この曲はかなり細かな指示の多い譜面となっていますが、そちらに目を向ける前に、まずは楽曲の構成や転調のタイミングそのものをしっかりつかんでおきましょう。音楽を柔軟に動かせるよう、標示をよく読み、それに沿った形で音量やテンポを思い切って変化させてみるのも良いかもしれません。仕上げとして、旋律に付けられたスラーやスタッカートひとつひとつを繊細に表現することも忘れず心がけること。

それではまた。次回は「小スケルツォ」です。


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