第45回「小悪魔たち」
悪魔やら地獄やら、薄暗いものに何らかの魅力を見出すのがロマン主義の特徴でして、音楽の分野においてもロマン派作曲家の多くがそうした主題による作品を残しています。たとえばクララ・ヴィーク(シューマン)が10代で残した小品集などを見ると、当時の怪奇趣味の浸透具合がわかろうというもの。少女が「魔女集会」などと題した曲を書いてしまうほど、そのような題材は身近なものであったわけです(もちろん、彼女が非常に特異な感性と知性の持ち主であったことは差っ引いて考える必要がありますけれど!)。
音楽の世界に怪奇趣味が大々的に持ち込まれる直接の切っ掛けとなったのは、ベルリオーズの『幻想交響曲』の成功でしょうけれど、あのサイケデリックな作品が熱狂的に受け入れられたのは、文学の分野でのドイツロマン主義の流行という背景あってのことでした。特に、何と言ってもゲーテの『ファウスト』の与えた影響たるや恐るべきものがあった(「ロマン主義嫌い」のゲーテ作品がロマン主義であるや否や、という話はここでは取りあえず置いておくとして)。
『ファウスト』は作曲家たちの霊感も大いに刺激しました。アルカンと同時代に生きた作曲家たちだけを並べてみても、ベルリオーズ『ファウストの劫罰』、リスト『ファウスト交響曲』、シューマン『ファウストからの情景』など、こぞって『ファウスト』を題材に大作を仕上げている。アルカンだって『大ソナタ 作品33』の中核となる第2楽章に「ファウストのように」という副題を与えており、その例に漏れないと言えます。
かように、文学界からの流れを汲んでロマン派の幻想の深みへと分け入って行く段階にあったのが当時のパリ音楽界。そんな風潮の中、アルカンは先陣を切るかのように、ほかの作曲家に比べてもかなり直接的と言いますか、真っ向勝負で怪奇へと切り込むオドロオドロしい音楽を残しています。
特に、ヴァイオリンとピアノのための『協奏的大二重奏曲』の第2楽章「地獄」の迫力などは凄い。ピアノの低音で奏でられる重厚な不協和音とトリル、そして怪しげなヴァイオリンの半音階的旋律。それらは中間部でのシンプルで美しい祈りと相まって雰囲気バツグンです。こんな思い切りの良い絵画的表現、後の印象派の登場を待たねばお目にかかれません。
そしてまた『エスキス』の「小悪魔たち」――今回取り上げている曲ですが――も、ある意味「地獄」に匹敵するような斬新な内容を持っている。怪奇趣味に加えてユーモアまで備わっているぶん、アルカンらしさという面では上かもしれない。この曲集からいくつか抜粋して紹介するとしたら......といった話を「異名同音」の回にしましたが、ご記憶でしょうか。「小悪魔たち」は、そんなとき選ばれやすい代表選手ナンバー1と言っても良い曲だと思います。
譜面を見たインパクトもかなりのもの。ブドウのごとく音符の密集したトーンクラスターっぽい和音の並びが、この世ならざるものを視覚的にも体現しているように思えます。「トーンクラスターっぽい和音」なんてものは当時の常識では使われるはずのない音で、だからこそ記譜したときの見た目も普通ではないものになる。以前も触れた通り、アルカンが楽譜そのものの見栄えにこだわっていたことは確実ですから、きっと彼はこの変態的な譜面を書き記しながらほくそ笑んでいたんではないかなあ。
そしてまた、この曲でも途中で挟まれるコラール風の祈りパートが効いている。まったく異なる楽想を同居・対比させることで表現の鋭さを増幅させるというのは、アルカンの得意技とも言える手法です。言ってみれば『エスキス』という曲集自体、各曲の発想の振れ幅やバラエティを最大限に活用することで、作品全体としての世界観を深めているわけですね。
弾くときには、とにかくコミカルさを強調する方向でいきましょう。私見ですが、この音楽は「教会に遊びに来たイタズラ好きの小悪魔(小鬼?)どもが悪さをしようと企み、抜き足差し足してるシーン」に違いないと思う。リズムの感じ方、休符の扱い方ひとつでどれだけ雰囲気が出るか決まります。おろそかにしないようにしましょう。最後に突然2倍速になる大騒ぎの部分は、直前までこれっぽっちもそんな気配を感じさせないよう、「sempre pp」を厳守! 聴き手が呆気に取られて笑ってしまう、というのが理想です。
それではまた次回。こんどは打って変わってセンチメンタルに、「初めてのラブレター」です。
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