第44回「有頂天」
アルカンの楽譜には、なんだか黒っぽいのが多い。つまり、譜面はインクだらけで、紙の白がそのまま見えている部分が少ない。この「黒っぽい」印象こそ、演奏者をして敬遠させるいちばんの原因なのではないかと思ったりもします。
黒っぽいのには2つ理由があって、まずひとつは音の数が多い。『エスキス』の場合はそうでもないのですが、彼の残した数々の練習曲には、分厚い和音の連打やら128分音符のパッセージやらがわらわらと出てきて、結果としてインクが紙面を埋め尽くすことになる。細かい音符がたくさんあれば、楽譜が真っ黒になるのも必定です。
しかしそればかりでなく、調号や臨時記号の多さというのも理由に挙げられそうなのです。たとえばアルカンは、調号の7つついた調性(嬰ハ長調、変イ短調)で曲を書くことがある。特に嬰ハ長調はかなりお気に入りの様子で、しばしば用いています。通常、調号というのは最大で6つまでしかつかないはずなので、アルカンの書く五線の左端は他の作曲家より濃いめになっているわけですね。特に譜読みの苦手な人などは、7つも調号がついていたらそれだけで「うわっ」となってしまうかもしれない。
調号が最大6つというのは、それより調号が多い場合は、異名同音で読みかえて逆の調号(#なら♭、♭なら#)を用いた方がすっきりと書き表せるためです(#6つの調は異名同音で読みかえると♭6つとなります)。
だから、アルカンの好む嬰ハ長調というのは、変ニ長調として書けば♭5つになるので、一般的には使われない調性と言えます。彼がわざわざこうした調性を選んだ理由とはなんだったのでしょうか?
ひとつには、彼が同主調の関係性を大事にしていたのだろう、ということが挙げられる。つまり、#7つの長調である嬰ハ長調の同主調は嬰ハ短調で#4つで書けますが、これを変ニ短調で書き換えるとダブル♭まで必要な無茶な譜面になってしまう。だから同主調を行き来することを念頭に置くと、変ニ調より嬰ハ調で統一した方が美しい。また、♭7つの短調である変イ短調の同主調は♭4つの変イ長調ですが、これは#で書きなおすとダブル#まで必要となる。だから同じく、変イ短調にしておいた方が同主調間の行き来は書きやすい。
同主調の行き来を意識した良い例が、『エスキス』第32曲の「小メヌエット」でしょう。全体は嬰ハ短調の曲ですが、トリオ部分は嬰ハ長調に転調しています。もちろん変ニ長調で書き換えたって演奏して出てくる音は同じなのだから構わないんですが、そこは生真面目なアルカンのこと、きちんと「同主調」として書式を整えないと気持ちが悪かったのだと思う。
しかし、明らかに同主調とは関係ない場合もあります。今回の「有頂天」はそういう例。どんな解釈をしようとも、この曲の中に嬰ハ短調になるような部分は一切出てきません。純粋に、「これは断じて変ニ長調ではなく、嬰ハ長調の曲なのだ」という主張のために、このように書かれているのです。さて、わざわざ調号の多い書き方をすることに、どんな効果があるのか?
これはもう、作曲家と演奏家のコミュニケーションの問題だと言えます。一般的に音楽家はそれぞれの調に対して特定のイメージを持っているものです。これは共感覚を元にした先天的なものであったり、古い調律法に基づく調ごとの和音の響きの違いから想像されたものであったり様々で、人によっても大幅に違ったりするものなのですが、ひとつだけ、観念的なレベルで多くの人々が共通して持っている感覚があります。
それはごく単純に「#が多い調ほど外向的で起伏に富んでおり、♭の多い調ほど内向的で落ち着いている」といったもの。これは文化として醸成されたかなり後天的な感覚だろうと思うのですが、だからこそ人々が安心して共有できもする。アルカンはその文化的な共通認識をここで用いているのです。
『エスキス』の「有頂天」の7つの#にははじけんばかりの喜びが表れている。対して『前奏曲集』の「波打ち際の狂女の歌」の7つの♭には、重苦しいまでの悲しみが表れている。ただ「調号多いよ!」ではなくて、そういうふうに捉えてみると、譜読みもより楽しくなるんではないでしょうか。
作曲家と演奏家の意識の共有、ということについて、アルカンは非常に真剣に考えていた。曲に具体的なタイトルを与えたり、一般的には楽語として用いられていないような単語で事細かな指示を書き込んだりするのも、その表れです。逆に、若い頃にはあえて音符以外の指示をひとつも書かずに出版する、などという実験的なこともしていた。そんな彼にとって、記譜上の調性というのも、重要な情報伝達手段のひとつだったのです。
演奏にあたっては、すばやく交代する和音をすべて捕まえるための機敏さが必要になります。黒鍵が多いので、「きちんと揃えてつかもう」という意識た大切。和音としてだけでなく、各声部の横のつながりとしても捉えられるよう、片手ずつに分けるなどして注意深く練習すると効果的でしょう。
それでは。次回は「小悪魔たち」です。お楽しみに。
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