ピティナ調査・研究

第36回「小トッカータ」

ロマン派の時代は芸術が深化した時代でもあったけれど、派手なパフォーマンスや技巧的な音楽がもてはやされた時代でもあった。――こう書くと、精神性を尊重した音楽と見栄えを強調した音楽という対極的なものが、相反するものとして競い合っていたように感じられるかもしれません。

しかし、楽器もできる作曲家にとって、特にトップレベルのコンポーザー・ピアニストにとって、芸術性と技巧性は分かちがたく結びついていた、というのが本当のところです。

およそどんな技術も、突き詰めれば芸術の域に達するものです。空中ブランコの技術も、スケートの技術も、寿司を握る技術もそうです。もっとコマゴマしたものでも十分です。皿回しでも独楽回しでも、ペン回しでだって、人を感動させることはできるのです。楽器の演奏技術そのものが芸術にならないわけがありません。

などと言うと、「それは確かにそうかもしれないが、音楽そのものの精神や芸術性とはまた別の話じゃないか」という反論もいただきそう。しかし、曲と演奏が組み合わさってようやく音楽芸術が生まれる、というのがクラシック音楽の世界です。演奏技術を芸術の域にまで高めてこそ、曲の持つ力を最大限に引き出せるはず。より圧倒的な精神の深みを音として表すためには、表現の幅を追求することが必要になってくるでしょう。それは必然的に楽器の限界を探り、演奏の限界を開拓することとつながっているのです。

アルカンは自らもピアノの名手でしたが、人前での演奏はあまり得意ではなかった。その分、技巧を単なる見世物としてではなく、芸術表現の一部として捉える感覚が、例えばリストと比べても強かったようです。彼が「練習曲」と名付けたピアノ曲たちを見れば、それがよくわかる。

「練習曲」と題していながらも、純粋に指の訓練のために書かれたわけではない、演奏会用にも使えるような音楽。そんな作品は、19世紀中頃から数多く作られるようになった。代表格は何といってもショパンの練習曲集でしょう。「練習曲を芸術にまで昇華した」などと評されているのを耳にしたこともあろうかと思います。しかし、ショパンと比べてもアルカンの練習曲は際立っており、物理法則に縛られる肉体や楽器の限界に挑む、求道とも呼べそうな姿勢が見えてくるほどです。

何しろ、アルカンの残した最大最長のピアノ曲は練習曲集の中に収められている。『協奏曲』と題された50分を超えるその練習曲は、常人の感覚からすれば半ば狂気じみた代物と言えましょう。何が練習なものか。山岳部のトレーニングと称してヒマラヤ山脈を縦断させられるようなものです。

ショパンの練習曲にはまだ、他の曲を弾きやすくするための特殊な技術の習得、という側面が核として存在していた。しかしアルカンの『協奏曲』は、もはや他の曲を演奏するための練習などではなく、『協奏曲』それそのものを完成させるための練習曲、として自己完結してしまっているのではないか。「練習曲を芸術にまで昇華した」どころではなく、「練習曲でしか到達できない芸術の極みを発見した」とでも言うべき作品なのです。

そんな風に、アルカンにとって「練習」というのは表現の一部としてとても大切なものだったので、ちょっとした小品の中にも驚くほどの技巧を詰め込むことが多々あります。『エスキス』には、技巧の面では平易な作品もたくさん含まれていますが、そこは驚異的な多彩さを誇るこの曲集のこと、当然ながら中には練習曲風の技術を要する作品も混ざっている。それら、一般的な軽い小品にはありえないほど激しい音楽たちが、曲集の雰囲気を要所々々でピリリと引き締めているようにも感じられます。

今回の「小トッカータ」はまさにそういう役割を担う1曲です。左手による連続するオクターブの跳躍、そして右手の細かく回転するパッセージ。両手とも指先の感覚をよく保って、しかし肩、肘や手首は柔らかく、腕の重さがすべて指だけにかかるような意識を忘れないで練習しましょう。速いパッセージでは指を動かすことに集中してしまいがちですが、むしろ腕の重みを移動させる感覚が大切です。それだけ意識していれば、音型は自然に弾けてしまう、そんなイメージが身につくと断然、弾きやすくなりますよ。

さて、これで第3巻も終わりまで辿りつきました。いよいよ次回から最終第4巻! 第4巻最初の曲は、「小さな小さなスケルツォ」です。


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