第20回「村の小さな行進曲」
音楽というのはもともと、場と結びついてしか存在できないものでした。極端な話、音楽の誕生まで思いをはせるならば、そこにあるのはきっと踊りや手拍子を伴った歌であったでしょう。狩りの成功を喜ぶ歌、子の誕生を祝う歌、仲間の死を悼む歌。その場面に相応しい音楽が、複数の人々によって共有されるというのが、最初期の音楽の形でした。
しかし、そんな中で、音楽には別の楽しみ方があることがわかってくる。それは、特に上手い人の歌をみんなで鑑賞するということ。
「なあ、昨日の『森の恵みに感謝する歌』のおまえのアドリブ、すごかったよな。またみんなの前で歌ってくれよ」
「え? でも今日は栗拾いには行ってないぞ」
「いいからいいから、あの歌が聴きたいのさ」
――というようなやりとりがあったかどうかは知りませんが、特に優れた歌は、場面と切り離されて鑑賞の対象となり得たわけです。
ある分野に秀でた人を見つけて、その人の技を鑑賞して喝采する。あるいは自分に才能が備わっていれば、その分野の技術をどんどん磨いて誰よりも上手くなろうとする。こういう習性は、人間に基本的に備わったもののように思えます。足の速さや跳躍力、格闘技術などといった、純粋にサバイバルのためだったはずの能力すらも、今では祭典の中で競われ、勝者にはメダルが贈られるようになっているくらいなのだから。
「どこまでできるかやってみたい」という理由だけで、無駄にも思える情熱を傾けてしまえるのが、人間なのかもしれない。そんな性質こそ、文化を複雑怪奇に発展させていく原動力でしょう。
「音楽」が得意な人の中から、特に「笛」の扱いに長けた人が現れる。その人は専門家として笛の演奏技術を磨き、前代未聞の技法を生み出す。また、「物づくり」が得意な人々の中から、特別に「笛づくり」にこだわる人が現れる。その人は研究を重ね、今までにない美しい音色の楽器を開発する。彼らは互いに影響を与え合って、その結果、人々が驚嘆するような新しい音楽が生まれるでしょう。
演奏の利便性を高める「鍵盤」という素晴らしいインターフェースが開発されたのは、そんな積み重ねの上にある出来事だ。そして、クリストフォリがフォルテピアノという驚くべき楽器を発明したことだって、その延長上にあります。そして、優れた楽器が誕生すれば、その楽器を極限まで使いこなしてやろうという人々が現れるのは当然のこと。ピアノという楽器の可能性は、超絶技巧を持つ演奏家たちの手によって、おそらく製作者クリストフォリさえも想像しなかったであろう領域まで大きく広がっていきました。
19世紀前半、アルカンの生きたパリは、まさに超絶技巧のヴィルトゥオーゾが跋扈する世界でした。音楽はもはや単に暮らしの中の特定の場面と分かちがたく結びついたものではなく、才能に恵まれた一部の人が、あるいは特殊な訓練を受けた専門家が、人並み外れた技術をもって聴衆を魅了するための道具にもなっていたのです。
さて、今回の「村の小行進曲」ですが、これは田舎風の合奏を表現するためにヴィルトゥオーゾ風の技巧が用いられた作品と言えるでしょう。このことをつらつら考えると、なんだか不思議な気持ちになる。洗練を極めた最先端の楽器として生み出されたピアノ。そんな楽器のために、トップレベルの演奏技術と作曲技術の持ち主が書いた曲が、どこかの村の素朴な音楽を再現するものなのです。
人々の生活がどれほど変わっても、技術がどれだけ発達しても、音楽を通して表現される物事は結局そんなに変わっていない、ということなのかもしれませんね。
演奏上の注意点としては、まず和音をよくつかむこと。気持ちの良いスタッカートを表現するためにも、内声までしっかり意識して、ひとつひとつ引掻くようにして鳴らしましょう。リズムはとにかくノリよく、テンポをくずさずに。後半で高音域が加わり、装飾が増える場面では、新たな楽器が合奏に加わる様子を思い描けると良いでしょう。
ではではまた次回、「死にゆく者が貴殿に挨拶を」にて。
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