ピティナ調査・研究

第22回「無垢」

表現者に悩みはつきものです。本当は、何の計算もしたくない、何の妥協もしたくない、ただ自然に出来てしまうものだけ作って、それに満足していたい。そんな思いを抱いている人は少なくないはずです。しかし、物を作るには技術や知識が必要。人に受け入れてもらうには工夫が必要。それらを学べば学ぶほど、無垢ではいられなくなる。

それに、自然に出来てしまうものを作っているつもりでいたって、もしかしてこれは他人の作品の焼き直しでしかないんじゃないか、なんて疑問がわいてきたりするものです。感動を覚えたものから影響を受けるのは避けようのないことだし、既存のルールに則って作る以上、先人たちの作った枠組みに縛られることも避けられない。ではルールに則っらなければいいじゃないか、などと言ってみても、身体に染み付いた習慣が決してそうはさせてくれません。

そんな中で、自分は人とは違うことがやりたいんだ、猿真似じゃなくて新しいものを作りたいんだ、と意気込むなら、ルールの枠組みから構築しなければならなかったりする。しかし、それはそれで良し悪しなのです。枠組みを構築するなら、計算高くやる必要がある。もうその段階で、自然に出来てしまうものを作っていたかった自分には戻れなくなっている。それに、そうやって意図的に作り上げた体系はえてして無闇にわかりにくく、高踏的なものになりがちです。

こうして、創作活動のベクトルは大体3つに分かれていきます。まず、勉強なんかせずに気ままに作って満足する方向性。たいていの場合、箸にも棒にもかからぬ駄作が出来るのが関の山です。まあ、本物の天才というのはこういうベクトルの人かもしれないのですが。

次に、勉強した上で、職人になる覚悟を決めるという方向性。人の要求に応えるために、身につけた技術を商品開発に活かします。オリジナリティなんてほとんど問題にしません。これは、一定の質の商品を依頼に応じて提供し続ける、という行為を純粋に楽しめる人にとっては、幸せな生き方になるはず。しかし実際のところ、一度は独自の表現を志した人が転向することも多いので、そうした人々は内心モヤモヤを抱えていたりもします。

3つ目は、無理してでも新奇なものを目指す、という方向性。研究を重ね、理論を打ち立てて、戦略的にオリジナリティを生み出したりもします。芸術表現の方法論は、こうした作品に牽引されて発展する場合が多い。しかし、中には理論武装して難しいことを言っているだけで、ぜんぜん大したことをやっていない場合もあって困ります。

3つともどうにも閉塞感があって、だからみんな悩み続けるしかない。でも、もしかしたら今の時代とは、表現の形が変わっていく真っ只中なのかもしれません。たとえば自分の好きな作品に対して、応答するかのように二次的な創作活動をしていく。そんなやり方が、昔と比べてより肯定的に捉えられるようになってきている気がします。直接的な引用、流用といった文化も、さまざまな分野に浸透してきた感がある。

親となる作品がひとつあれば、それに感銘を受けた人が各々の持つ技術や才能を活かして、子や孫となる新しい作品を生み出す。そのうちに、その系統樹そのものがひとつの作品として機能するようになる。そんな形の表現も増えてきているのではないでしょうか。

受け手が作り手にもなり、作り手が受け手にもなるようなコミュニティは、びっくりするような化学反応を生み出すこともあります。個々人は自分のできることをやっているだけなのだけど、いつのまにか今まで見たこともないような新しいものが生み出されている......そんな複合的なオリジナリティもあり得るかもしれない。そう考えられたなら、技術を学び、自分にできることを増やしていくことに臆病にならずに済むのかもしれません。

今回の「無垢」は、繰り返しはありますが、書かれている小節の数は11と短く、ごく単純な曲です。特筆するほどのオリジナリティはないかもしれないけれど、心地よい。まさに、自然に出来てしまったもの、と言っても構わない作品ではないでしょうか。演奏に際しては、3度で動く装飾が決して重くならないよう十分に注意しましょう。また、4小節単位でのフレーズをきちんと意識することも大切です。

それではまた今度、「木靴の男」にて。


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