第21回「死にゆく者が貴殿に挨拶を」
音楽が持ち運び可能な個人用の快適空間となってもう何十年にもなる。しかし、いわゆる「クラシック」として広く知られている音楽の多くは、現代のような消費の環境など想像もできなかった時代に作られたものです。
人生のあらゆるシーンにBGMとして音楽が存在するようになった今、ある意味では音楽の地位は高まったとも言えるし、逆に軽い存在と化したと言えなくもない。その昔、音楽とは場を支配するものであり、周囲の誰かと共通体験として楽しむものだったけれど、今は違う。
携帯できるようになった音楽が「~しながら」聴かれるのも当然と言えば当然のこと。全身全霊を傾けて聴いてもらってナンボ、というタイプの作品が多いクラシック音楽にとって今は厳しい時代なのかなあ、という気はいたします。どんなに工夫をこらした作品だって、受け取る側にそれを受け止める気力がなければ、ただの理解しがたいガラクタになってしまうのだから。
芸術表現の媒体そのものにも大きな変化があった。映画、ゲーム等々、圧倒的な情報量と緻密さ、没入感を持った総合芸術がこの100年で花開いたのです。そんなわけで、現代において人々の記憶に残っていく音楽というのは、おのずと視覚芸術と結びついたものが多くなっている。
たとえばゲームなんてのは、物によっては人をして何十時間も没頭させる力があります。そんな中で繰り返し耳にした音楽ならば、容易に「この旋律を聴くだけで泣ける......」などという状態に陥ることにも頷けようというもの。作品全体が優れていれば、その付随音楽は力を持ちやすい。たとえ音楽単体で見たときの出来はそこそこ程度だったとしてもです。
何十分もかかる長大かつ複雑な構成の音楽が現代人に受け入れられるとしたら、そういった没入感の高い総合芸術の一部として浴びせかけられたときだけなのかもしれない(まあ、クラブ系のダンスミュージックには演奏時間の長いものも多いですけど、これは単調な繰り返しリズムと高揚するシンセ音でトリップすることが主眼となっているので、いわゆる「長大な」というのとは違う気がします)。もちろん、仕事の資料を作成しながらベートーヴェンの作品106のピアノソナタ「ハンマークラヴィーア」を聴くことだって可能だし、実際にそうしている人もいるだろうけれど......、それではおそらく作曲者が曲にこめた内容を10分の1も受け取れないでしょう。
結局、音楽単体では一瞬の旋律勝負をするしかない! みたいになってしまうのが現状。クラシックの中にも「名曲」と呼ばれて親しまれているものはいくつもありますけど、実際には特定の数秒間のインパクトで記憶に残っているだけ、なんて場合も多い気がします。その数秒間のインパクトにしたって、実は映画で使われていたおかげだったりして。ベートーヴェンの交響曲第9番、第1楽章を聴いてそれとわかる人って意外と少ないんじゃないでしょうか。あるいはリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラかく語りき』、出だしの1分を削って聴かせられたときに即座に曲名がわかる人ってどれくらいいるんでしょう(正直、私も自信ありません!)。
そんなわけで、忙しい現代人に耳を傾けてもらうためには、巨大な交響曲よりも短い小品が適しているかな、と考えます。1分未満の短い曲もたくさん入っている『エスキス』はその点、クラシック入門としても相応しいのではないでしょうか。......ってなんでマーケティング戦略のプレゼンテーションみたいになってるのやら。
今回の「死にゆく者達が貴殿に挨拶を」のタイトルは、古代ローマの奴隷剣闘士(グラディエーター)が、試合に臨む前に皇帝にかけた言葉だそうです。今でこそ映画の題材になったりもするグラディエーターですが、19世紀のパリの社交界にあって、そうした存在に思いを馳せることのできた人間は多くはなかったことでしょう。こんな短い曲の中にも、遥かな過去の想像上の一幕をまるで映画のワンシーンのように表現してみせたアルカン。時代を超越したイメージの豊潤さもまた、現代人にとって彼の音楽をより親しみやすいものにする一助となってくれるはずです。
演奏にあたっては、半音階で上行する動きをどれだけ息の長いフレーズとして聞かせられるかがポイントになるでしょう。また、次々と新しい上行パートが積み重なって、重厚な響きを作り出していくということをよく意識して。和音を構成するすべての音が、独立した1つの声部であることを忘れないようにしましょう。
ではでは、次回は「無垢」です。
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