研究活動報告『澤田柳吉 日本初のショパン弾き』第3回 多田純一先生(ピティナ研究会員)
ピティナ研究会員 多田純一
澤田柳吉は日本の旋律に和声を付けた「調和楽」の楽譜出版に続き、ピアノ・ロールの作成という形態でも出版しました。海外で自動ピアノが開発、製造されたことを受け、明治45(1912)年には日本楽器製造株式会社によって国産の自動ピアノが製造、発売されました(図1)。
澤田はピアノ・ロール作成の試作段階から中心的にかかわったと思われます。多数現存するロールには《調和勧進帳》や《娘道成寺(下巻)》のように歌舞伎のよく知られる旋律をピアノで表現するために工夫されたもの、《蝶々》や《蛍の光》のように明治期に広く親しまれた唱歌を主題として超絶技巧を用いて変奏したもの、《梅は咲いたが》や《雪は巴》(図2)のように江戸端唄を調和(編曲)したものなどがあります。
これらの主に大正期に作成されたピアノ・ロールを介してどのような音楽が奏でられていたのかについては、ほとんど顧みられることがありませんでした。この度、その最初の取り組みとして『澤田柳吉の芸術 ピアノロール&SPレコード 日本録音集』(サクラフォン、2023年9月)が出版されました。「Disc 1 ピアノ・ロールと「調和楽」を中心に」では計11作品のピアノ・ロールが収録されています。
澤田柳吉の音楽活動の特徴は、ピアノ独奏会をはじめとして「日本人として最初に〇〇をした」という功績が多いことですが、そのひとつとしてSPレコード録音への対応の早さが挙げられます。大正2(1913)年から積極的に声楽作品の伴奏や「調和楽」の合奏でSPレコードを出版し始めます。特筆すべきは、日本人として最初にベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ》を録音したことです。大正8(1919)年1月、Op.13「悲愴」の第1楽章が両面に分かれて1枚のレコードとして出版されました(図3)。この録音は長い間、第1楽章のみの録音であると思われてきましたが、昨年、令和4(2022)年11月にテストプレス盤(マザー原盤)が発見され、全楽章録音であることが明らかになりました。当初の予定では2枚組全楽章としての出版であったと考えられます。この幻のレコードとなった全楽章録音もCD『澤田柳吉の芸術』に収録されています。
ショパンの作品を最初にSPレコード録音したのも澤田です。大正12(1923)年12月には《ポロネーズ》Op.40 No.1「軍隊」(図4)、翌年1月に《ワルツ》Op.64 No.2が出版されました。
関東大震災の翌年、大正13(1924)年2月に、澤田は大阪へ移住しました。彼は大阪洋楽研究所という音楽教室を設立し、ピアノ教育を行いました。声楽、マンドリン、ヴァイオリンも学ぶことができたこの事業は成功したと考えられます。
また、SPレコードに続いてラジオにもいち早く出演しました。大阪で仮放送が開始された初日にあたる大正14(1925)年6月1日、三越呉服店大阪支店屋上に設置された仮設放送所にて、澤田はベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ》Op.27 No.2「月光」全楽章を演奏しました。
澤田が最後に挑戦したのは、大阪市立盲学校の音楽教師としての仕事でした。同校は、日本の盲学校で最初に洋楽科を設置した学校として知られています。専門教育としてピアノや弦楽器等を教え、洋楽で職業につながる教育が目指されていました。澤田は昭和4(1929)年4月から嘱託教員、昭和6(1931)年7月から専任の教諭となり、山村光枝(1914- ?)というピアニストを輩出しています。
そして、引続いて旺盛な音楽活動を行っていましたが、昭和11(1936)年9 月、澤田は京都で突如脳溢血に倒れ、急逝しました。最後の言葉は「ああ、くたびれた!」だったといいます。常に開拓者として、明治の黎明期から日本の洋楽界の先頭に立って牽引してきた澤田柳吉。その生涯をかけて展開したダイナミックな音楽活動を、多くの方に知っていただくことを願いつつ、この連載を締めくくりとさせていただきます。
ピティナ正会員 松原聡
黎明期にあった1912(明治45)年に、ヤマハは紙ロール式の自動ピアノを発売に踏み切りました。この自動ピアノを普及させるに当たり、日本最初のピアニストの一人、澤田によって邦楽の名旋律を織り込んだ調和楽のソフトが多数制作されました。
山葉寅楠が1897(明治30)年10月12日に日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)を創業。初代社長に就任。次いで1899(明治32)年にアメリカへの視察旅行を経て、1900(明治33)年よりピアノ製造を開始。1907(明治40)年、創業10周年の記念式典の際の記念写真とプログラムには、山葉寅楠夫妻と共に澤田の姿も見られ、その関係の深さを今に伝えています。
ドイツのウェルテ・ミニョン社が1904年に発表した自動ピアノは、空気圧で鍵盤やペダルを動かし、紙ロールを回して開けられた穴をトレースして再生するもので、タッチとペダルに段階差が付いて強弱やニュアンスを再現できる為、当時の著名なピアニストや作曲家がその演奏を記録し、現在貴重な音源資料となっています。
ヤマハの大正期のカタログを紐解くと、自動ピアノにアップライトとグランドがあった事が判ります。因みに1939(昭和14)年までカタログに掲載されています。なお筆者は、アップライトは数台現存する事は把握していますが、グランドは情報皆無で現存の可否も全く判りません。
サクラフォンのCD復刻「澤田柳吉の芸術」では、再生可能なヤマハロールを可能な限り集めたものでソロと1台4手の連弾物とがあります。特に1台4手の「花は色色」が異色で、文部省唱歌や進軍ラッパ等、メロディーを織り交ぜて絢爛豪華なパラフレーズに仕上げられ、澤田の技量と想像力を見せつけられる思いがします。今回の澤田のリバイバルは、音楽界への計り知れない意義を感じます。
とりわけ、その中心となって来られた多田純一氏と、サクラフォン主宰の夏目久生氏に、この場を借りて敬意を表します。
- 「ヤマハ草創譜」三浦啓市著 按可社刊
- 図5、図6、図7 三浦啓市氏
- 図8、図9 松原聡個人蔵