金子勝子 第1回 生涯挑戦者~若き日の横顔~
「生涯挑戦者~若き日の横顔~」
金子勝子
金子勝子は、日本のピアノ教育がこれから成長の階段を駆け上がるという時代に、これまでの教本だけに頼らず、指導法を試行錯誤しながら、独自の手法を編み出した開拓者である。弓削田優子をはじめ、これまで大崎結真、根津恵里子ら、多くの優れたピアニストを輩出し、メディアでもお馴染みピアノ界の若き俊秀、牛田智大も門下生に名を連ねる。ピティナとの関わりは古く、発足当初から10年ほど課題曲の選定に携わり、現在の理事の面々とともにコンクールの礎を築いた。
ピアノ教育に携わって約50年。今だから明かせる話もある。今じゃないと伝えられない話もある。「今は、ピアノの先生が足りない。後継者の人には、私みたいに大変な経験をして欲しくないから、とにかく自分が培ったものを全部伝えてるの」と、惜しげもなく奥義を開陳している。レッスンの見学を歓迎し、そして金子が数十年かかって確立した秘伝の「指メトード」をプリントして見学の生徒や先生に渡すこともある。卒業生にも「忘れないでね」と言ってはせっせと渡す。しかし、それで身を削ってばかりかというと、そうではない。「これまで、人にいろいろしてあげてきたけど、ちゃんと返してもらえるのよ」と金子。人のため、広くは教育のためにやってきたことは、いつしか自分に戻ってきている。
「今じゃ、押しても引いてもビクともしないわよ」とケラケラと笑い、明るく情に厚い金子。志しを高く掲げ、長い凸凹道を突き進んできた、笑いあり、悔し涙ありのピアノ教育人生である。誰しもその人生から学び、そして魅了されるだろう。
金子は、趣味でヴァイオリンを弾く弁護士の父と、オペラ好きで台所仕事をしながら歌を歌うような母との間に生まれた。音楽好きの両親のおかげで、家にはALEXANDER脚注1というアップライトのピアノがあったという。ピアノを弾くことが好きだったが、幼い時分に戦争が勃発し、自宅のあった方南町が空襲に遭い、ピアノを焼失する。東京大空襲は、1945年3月9日深夜、B29三百機の来襲に始まり、この時、下町を中心に東京の4割を焼失させたといわれる。4月13日、5月25日と続き、東京は約120回の空襲を受け、計77万世帯が損失。金子の家が、一家の宝であるピアノを失ったのは5月の空襲だった。
家を失った一家が移った笹塚に、華族のお宅があった。ピアノがある家で「弾きにいらっしゃい」と誘われ、ピアノ恋しい金子はよく弾きにいっていたという。しばらくして小学校5年生の時に、両親が中古のピアノを買ってくれたことで、先生につくようになり金子のピアノ人生が本格的に動き出した。
金子は、中学時代を玉川学園で過ごした。高校進学にあたり、師事していた岡本たま子から国立音楽大学の付属高校を勧められる。これは岡本たま子の夫が、玉川学園の合唱教育の父、岡本敏明脚注2(玉川学園ホームページ)で、当時岡本が国立音楽大学の教育音楽学科の長という重職についていたことも、遠因であろう。1960年代の国立音楽大学の校舎恩師の勧めを受けて金子は、本格的に音楽の道を志すことを決意。国立音楽大学の付属高校を受験し合格する。入学後は、仙波八重子に師事するようになったが、「とてもお優しい先生で、レッスンには、着物を着てこられてたわ。よく音の粒を揃えるようにとおっしゃってた」と話す。
仙波八重子。『国立音楽大学要覧』(1958)
仙波脚注3は、1906年に東京市小石川区諏訪町生まれ、小学校時代にオルガンを学び、青山女学院脚注42年から本格的にピアノを習い始めた。女学院を卒業後に東京音楽学校脚注5に入り、小倉末子、レオニード・コハンスキーらに師事した。小倉は、ドイツ留学を経て、日本の女性として初めてアメリカでのコンサートを成功裏に収め、帰国後、若干26歳で東京音楽学校の教授に任ぜられた女流ピアニストの先駆けである。当時、「わが国女性ピアニストとして、最高の列にある女史は、久野久子女史亡き今日の我が楽界において音楽教育家として、又芸術家として最も優れた諸要素の持ち主として、女史と同時代の人々の間にその追随者を持たぬであろう」脚注6と評されている。一方、コハンスキーは、ドイツでクロイツァーに師事した後に来日し、戦前には井口基成、愛子らを、戦後には中村紘子、二宮裕子らを育て、日本のピアノ演奏文化の定着に重要な役割を担った。
これらを踏まえると、仙波は東京音楽学校で当時日本で一番進んでいたピアノ教育を受けていたと考えてよい。1927年に優秀な成績で卒業し、研究科に進み、しばらくは演奏活動と母校に留まり教える仕事をしていたようだが、44歳の時に国立音楽大学の教授に招かれ、大学と高校、中学を兼務した。着任当初、ピアノ指導について仙波は「音楽を存分に表現の出来るテクニックを作る事が、先づ第一でしょう」と語り、「ただピアノにかじりついていても効果が上がる訳ではなく、〜頭を使って、楽譜をよく読み、曲を理解する事に力を使うべき」脚注7と話している。
一方で金子は、大学卒業まで仙波に師事したが、ピアノの練習はあまり熱心ではなかったようで、「学友たちと学校の帰りに、新宿の『らんぶる』脚注8や、吉祥寺の『田園』というクラシック喫茶に行って、わずか一杯のコーヒーで3、4時間粘ったり、ラーメンを食べに行ったりするのが日課でした」と話す。学生生活を謳歌していた金子であった。
- 脚注1
- 戦前から戦後しばらくの間、日本には多くのピアノメーカーが存在しており、中小企業ながら優れた国産ピアノ生産を目指し切磋琢磨していた。現在YAMAHA、KAWAIを有する浜松地域では、1957年頃、2大メーカーを除くピアノ製造所は38 社に及び、確認されるブランドは 58 を数えたという。大野木吉兵衛「浜松における洋楽器産業」『遠州産業文化史』(1977)
ALEXANDERは、明治12年生まれのピアノ職人、福山松太郎氏が明治末期に千代田区神田小川町に開業した福山ピアノ社で開発生産されていた。年代によっては、浜松市和田町にあった老舗、大成ピアノ製造で作られていた。 - 脚注2
- 岡本は、1907年宮崎に生まれた。1929年に東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)高等師範科を卒業(第一回生)。その年に創立を迎えた玉川学園の教員に招かれ、校歌を作曲している。また、国立音楽大学の教育音楽科でも教鞭を執り、教育科合唱団を設立、「合唱行脚」の活動を実施し、音楽教育における合唱を実践、根付かせた。合唱行脚は、全国の学校で演奏活動を行うもので、その後の国立音楽大学の合唱文化の一翼を担ったと言える。1977年に逝去。
国立音楽大学では、岡本の業績を記念して、1977年より音楽教育、幼児教育専攻の成績優秀者に「岡本賞」が授与されている。
岡本は、《どじょっこふなっこ》の作曲者、そして《かえるの歌》の訳者としても知られる。元国立音楽大学教授の小山章三は、岡本の音楽教育を「どじょっこから第九まで」と称し、簡素で小さな合唱曲で基礎的な力をつけることで第九のような大曲につながっていく、という岡本の理念を的確に表現している。朝日公哉『岡本敏明の輪唱教育論?「かえるの合唱」をめぐって--』より(2015)玉川大学教育学部紀要 - 脚注3
- 『昭和前期音楽家総覧 現代音楽大観 下巻』(2008)ゆまに書房
- 脚注4
- 1895年に普通科、手芸科、高等科の3つの科を開設。1927年に青山学院と合併。青山学院女子短期大学ホームページより
- 脚注5
- 現在の東京藝術大学
- 脚注6
- 『昭和前期音楽家総覧 現代音楽大観 下巻』(2008)ゆまに書房
- 脚注7
- 1950年、仙波が就任した年の『国立音楽大学要覧』より
- 脚注8
- この時代、喫茶店ブームがおこり、中央線沿線にはクラシック音楽をレコードでかける純喫茶やジャズを聴くことができるジャズ喫茶が点在していた。『らんぶる』は、まだ営業しているが、『田園』は現存していない。