金子勝子 第2回 湧き上がる”教育者マインド”の源
「湧き上がる”教育者マインド”の源」
大学時代の練習不足を自覚した金子は、卒業後、属澄江に教えを請い、月一回成城の自宅脚注1に通うようになった。
属は、1931年に東京高等音楽学院脚注2を卒業し、翌々年にエントリーした第2回「音楽コンクール」脚注3で2位に入賞し、日本のピアノ萌芽期、期待の星として注目を集めたピアニストである。榊原直、マキシム・シャピロに師事し、ウィーン留学時にはエミール・フォン・ザウアー、パウル・ワインガルテンから指導を受け、優れた技術を身につけた。1943年から母校で後進の指導にあたり名誉教授まで務め、「(コンクール入賞後)国立音楽大学の教授になられて、今では押しも押されもしないピアノ教育陣営の最高権威になっている」脚注4と、音楽評論家の野村光一にその活躍を讃えられた。夫の属啓成は西洋音楽史に精通した音楽評論家で、数多くの研究論文、書籍を後世に残している。東京高等音楽学院を卒業後、母校に奉職し、夫婦ともに楽壇で華々しく活躍した。
属が師事した恩師は、ピアノ教育の土壌を作った重要な人物ばかりだった。榊原脚注5は、1912年東京音楽学校に入学し、橘糸重、小倉末子、萩原英一ら脚注6の指導を受け音楽の素地を固め、卒業後の1926年に東京高等音楽学院の創立に教育担当として参画、長年主席教授を務めた人物である。定年を迎える前の55歳の時に退職し、10年後の1959年に逝去したが、国立音楽大学ピアノ科の礎を築いた人物で、象徴的な存在と言ってよい。「最も完全な条件を具備している近代的なピアニストを君において発見し得る」と評された脚注7・8。
属は、東京高等音楽学院開設の翌年に入学し、榊原に師事。最後の1年はパウル・ショルツについたと語っている脚注9。
属がコンクール参加時に師事していたシャピロについて、昭和楽壇のベテラン3名が『日本洋楽外史』で語っている。
- 三善清達脚注10:
- (今名前のでた)シャピロですが・・・。
- ~
- 野村光一:
- ~彼は亡命してやって来たんだ。彼はペテログラード大学で経済か何かを勉強したんだけど、ピアノが好きでメットナー(メトネル)について正式に習っていた。メットナーとかスクリアビンというのは当時のロシアでは大作曲家だからね。それでピアノがとてもうまいものだから、日本ではピアノの先生を始めたんだ。独奏会もやったけど、非常に清冽(ルビ=せいれつ)な演奏でね、ルバートなどほとんど使わないで、それで抒情性をもたせたピアニストだよ。音もとても良かった。
- 中島健蔵脚注11:
- シャピロは好きなピアニストだったな。さわやかな印象が残ってるよ。
- 三善:
- そのシャピロに習ったというのはどういう人ですか。
- 野村:
- 音楽コンクール第一回優勝の甲斐美和子脚注12、第二回の一位属澄江(実際には2位)、これがシャピロの高弟だ。二人とも見事な演奏をしたね。彼はずいぶん長い間日本にいたけど、ずっと民間にいて音楽学校系統じゃない。個人教授だけでは成立たないので、近衛秀麿と組んで音楽会をやったりした脚注13けど、それでも続かないでアメリカへ行っちゃった。向こうでどこかの音楽学校の先生をしてたらしいね。彼はね、奥さんがいたんだけど、弟子の甲斐さんと仲良くなっちゃって、二人でアメリカへ行ったんだよ。それで結局甲斐さんはピアニストを廃業したわけど、実に惜しい人を失ったと思うな。~
この時期に日本に滞在していたお雇い外国人は、戦争を背景にクロイツァー、レオ・シロタらユダヤ系が多かった一方で、ロシア革命の混乱を逃れ日本に亡命したロシア人のシャピロは異質であった。新交響楽団のソリストに駆り出されるほどの腕を持ち、さらに甲斐、属をコンクールで入賞させるほど教師としての腕も確かであった。しかし、アカデミックな世界に身を置かなかったこと、アメリカに渡り日本との縁が切れたことにより、彼の日本での功績はあまり語られていない。
属は、「ロシアのピアニスト、マキシム・シャピロが日本に残した最大の遺産である。シャピロの演奏は拡張高く、知性豊かなものだったが、そうした美点をよく消化している」脚注14と評される。さらに前出の野村も、シャピロの流れを受け継ぐ人物として属を見做している。「彼女もやはりシャピロの門弟で、清潔なピアノを弾きましたね。私はその時(コンクール)のことを今でも覚えていますが、彼女はブラームスの「パガニーニ・ヴァリエーション」を弾いたと思う。~シャピロ型に誠に正確、正統な演奏をしていた」脚注15。これらを見ると、属は希少なロシアのピアニシズムを引き継ぐ存在だったのである。
- 脚注1
- 当時の成城について、「成城と云うと、この東京でもっとも文化人の集まっているところ。音楽家、作家、画家、演出家、俳優諸公の一流どころがデンと邸宅を構えている地域だ」と書かれている(「ピアノ教室めぐり 属澄江先生」『muse』(1961)ヤマハ音楽教室より)。属をはじめ、この地域に居を構えていた音楽家は多く、ピアノを習いに成城へ通ったという人も多いだろう。
- 脚注2
- 現在の国立音楽大学
- 脚注3
- 現在の日本音楽コンクール
- 脚注4
- 野村光一『ピアノ回想記』(1975)音楽出版社
- 脚注5
- 『昭和前期音楽家総覧 現代音楽大観 下巻』(2008)ゆまに書房
- 脚注6
- 野村光一は、パウル・ショルツの門下で傑出した学生の一人として、榊原直を挙げている。(野村光一『ピアノ回想記』(1975)より)東京高等音楽学院にショルツが赴任していたことを踏まえると、榊原が門下生だった縁から、ショルツを学校の教師に迎えた可能性は高いだろう。
- 脚注7
- 『昭和前期音楽家総覧 現代音楽大観 下巻』(2008)ゆまに書房
- 脚注8
- ピアノの練習の方法を指南する『アルス音楽大講座』第5巻「ピアノの実技」で、榊原が「ソナチネの練習」について語っている。話し言葉のまま書かれているため、榊原のレッスンそのままの様子で、丁寧に穏やかに、彼がいかに生徒を尊重し、学ぶ意志を大切にしようとしていたかが如実に感じられる。
- 脚注9
- 「せんせいこんにちは 属澄江先生」『月刊 レッスンの友』(1970)4月号
- 脚注10
- 東京音楽大学名誉教授、音楽評論家。三善晃は弟。
- 脚注11
- フランス文学者。音楽に造詣が深く、コンサートに出向くなどしていたため楽壇との繫がりもあった。
- 脚注12
- シャピロとアメリカに渡った甲斐は、コロンビア大学東アジア図書館に勤め、日本図書部部長となり定年まで職を全うした。図書館増設の貢献など、ライブラリアンとしての功績が認められ、甲斐美和記念館が建設されている。
- 脚注13
- 1927年から35年までの8年間で、10度、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)にソリストとして招かれて演奏会を行っている。
1927年9月25日ショパン《ピアノ協奏曲第一番 ホ短調作品11》近衛秀麿指揮
1928年9月30日ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第二番 ハ短調作品18》近衛秀麿指揮
1929年5月27日ショパン《ピアノ協奏曲第一番 ホ短調作品11》近衛秀麿指揮
1929年12月18日ベートヴェン《ピアノ協奏曲第一番 ハ長調作品15》近衛秀麿指揮
1930年2月7日ロベルト・シューマン《ピアノ協奏曲 イ短調作品54》、チャイコフスキー《ピアノ協奏曲第一番 変ロ短調作品23》シシェルブラット・ニコライ指揮
1930年9月28日ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第三番 ニ短調作品30》近衛秀麿指揮
1932年12月21日ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第三番 ニ短調作品30》シシェルブラット・ニコライ指揮
1934年10月12日ロベルト・シューマン《ピアノ協奏曲 イ短調作品54》近衛秀麿指揮
1935年1月30日ベートヴェン《ピアノ協奏曲第四番 ト長調作品58》近衛秀麿指揮
1935年2月22日ショパン《ピアノ協奏曲第一番 ホ短調作品11》、ショパン《ピアノ協奏曲第二番 ヘ短調作品21》、ショパン《アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ 変ホ長調作品22》シシェルブラット・ニコライ指揮 - 脚注14
- 「日本の音楽家」『音楽の友』(1968)
- 脚注15
- 属の話しでは、今では到底考えられないが、本選のピアノがあまり良くなかったため、自分のピアノを持ち込んだという。
属:本選の時の日比谷公会堂のピアノが悪かったんですよ。ブルッツナーのいやなピアノしかなかったんです。それで家にあるベシュタインを持っていったんです。
インタビュアー:自分のピアノの持ち込みができたんですか。
属:とにかくピアノのいいのがなかったからでしょう。家のピアノを持っていってもいいかと伺いましたら、いいと言われて。コンサートのセミですよ。
(「せんせいこんにちは 属澄江先生」『月刊 レッスンの友』(1970)4月号より)