シンフォニア第9番
石井なをみ
半音階的な性格をもった3つの主題からなり、転回対位法を用いて作曲されています。修辞的な音型も多く使われており、受難曲などを想起させるような曲です。曲全体の枠組みに関わる調性から一フレーズに至るまで、多くの部分に宗教的な意味が込められています。1つ1つ表現を考えながら演奏できると良いですね。
上田泰史
第9番のテーマは「嘆き」や「絶望」です。バッハはこの曲で、宗教作品で出会う深刻な情念の表現の典型を、創意工夫に富む手法で展開させています。古典修辞学では、弁論を行う際には「発想(inventio)」、「配置(dispositio)」、「 措辞 (彫琢)(elocutio / decoratio)」、「記憶(memoria)」、「実行(actio)」という5つの能力が必要とされ、18世紀にはヨハン・マッテゾンを始めとする音楽家によって、この枠組みが音楽にも適用されました。このうち、「措辞(彫琢)」には、慣習に適合したジャンルや機会(場を意味するロキ・トピキ loci topici、あるいはトポス)を選ぶことも含まれます。たとえば、教会音楽では対位法的な厳格様式を用い、オペラではいっそう表出的で劇的な様式を用います。場違いな音楽を書かないように、作曲家はジャンルや書法、調を選ぶ必要があるというわけです。
第9番では、対位法的な書法とヘ短調という調が選択されています。17世紀末以来の調性格論では、ヘ短調は深い悲しみと結びつけられてきました。マッテゾン自身、「深く、重々しく、何かしら絶望に関係する、死ぬほどの心の底からの不安」※1を表す調として説明しています。つまり、バッハが対位法的書法とヘ短調を選択した段階で、宗教的な絶望や深い悲しみという情念が主題となることが想定されていたはずです。 この種の情念に対応するのは下行音階(カタバシス)や、息を切らしたように短い休符で区切られる旋律(ススピラツィオ)などです。
楽曲の基本的な性格は主題を構成するすべての動機に表れています。主題を見てみましょう。主題には2つの対主題が設定されています。
冒頭の中声部が主題、下声が対主題1、第3小節の下声が対主題2です。中声部の主題は、八分音符で区切られた典型的なススピラツィオです。主題を成す断片的な動機には半音が含まれ、とくに第2小節ではB-Eという増4度(トリトヌス)の跳躍も見られ、悲痛な情念が強調されます。下声部の対主題1は半音階で下行するいわゆるラメント・バスですが、この後すべてのパートに現れるので常にバスとして機能するわけではありません。
このような半音階的な下行ないし上行はパッスス・ドゥリウスクルス passus duriusculus(いくぶん硬い歩み、の意。「硬さ」は「辛さ」にも通じる)と呼ばれます。完全4度を半音階で下行する音階は、カンタータ第12番《泣き、歎き、憂い、怯え》BWV12の冒頭合唱のバスでも使用されています(この曲は、後に《ロ短調ミサ曲》の「十字架に」に転用されます)。
第3小節の下声には32分音符を含む細かいリズムの対主題2が現れます。この音型のF-As-Fis-Gを結ぶと、十字が浮かび上がります。バッハ作品の主題にしばしば現れる十字架の音型で、この楽曲の宗教音楽としてのトポス性を補強しています。
主題と2つの対主題は、さまざまな組み合わせで現れます。主題をa、対主題1をb、対主題2をcとすると、声部(上中下声部)の組み合わせは、abc, bac, bca, cab, cabで、acb以外の5通りの組み合わせで現れています。また、形式図の経過句のCとC’(第15-26, 28-29小節)では、aのモチーフが上声・下声で半拍遅れのストレッタを形成し、歎きの声がこだまします。中声部の4分音符は、このモチーフを2倍に拡大し反行形にして配置されています(3度上行→2度下行が2度下行→3度上行になっています)。第9番は、絶望的な情念の表出を主題としながらも、バッハらしい冷静で緻密な計算の上に成り立っていることがよくわかります。
- ヨハン・マッテゾン『新しく開かれたオーケストラ(1713年)』村上曜訳・解説、東京:道和書院、199頁。
橋本彩
一番上のパートに、最初と同じ音、同じ高さでテーマが戻ってきます。
山中麻鈴
- 楽譜は一例です