ピティナ調査・研究

第7回 カルクブレンナーのベートーヴェン交響曲・ピアノソロ版

素顔のアンティーク楽譜

前回はショパンとの関連で楽譜を紹介しました。今回は楽譜を通して見えてくる、殆ど知られていないカルクブレンナーの編曲者としての横顔を紹介しましょう。


ご存知のように彼はパリを拠点に演奏、作曲、弟子の育成と精力的に活動し、自ら当代きってのヴィルトゥオーゾとしてピアノのテクニークの開拓・向上に努めていました。それは彼の残したエチュード集に集約されています。また一方で表現手段としてのピアノというメディアの追求にも腐心しました。その結実したものが今回紹介する"ベートーヴェンのシンフォニーのピアノ・ソロ編曲集"です。

ベートーヴェンのシンフォニーのピアノ・ソロ編曲と言えば、誰しもが異口同音にフランツ・リストの編曲を挙げます。しかしカルクブレンナーの編曲を知る人、ましてや実際に演奏したことのある人となると殆どいないのが現状でしょう。

歴史の闇に消えていってしまった膨大な作曲物が、何故忘却の憂き目をみたかについては一言で表現することなど不可能であるし、ましてやその要因、原因についてそれを正当化することもまた不可能です。一言でいえば謎です。一般的には「それらの作曲物が取るに足らないもので現代では演奏するにも値しない」と一蹴されているようです。しかしこれは自らの歴史認識のなさを露呈しているに過ぎません。

皆さんは例えばヨーロッパ史における『中世』という歴史区分の語源をご存知ですか。これはフランス語の Moyen Agesの訳語です。moyen という「中間の」という意味と同時に「凡庸な、並みの」という一種の侮蔑的な意味もあり、優れた歴史学者、ル・ゴフが指摘するようにこの語感が示すものが人々の意識を代弁しています。しかし現実には『中世が』がヨーロッパ近代を形成したのであり、また現代も深くそこに根を下ろしているのです。従って少なくともフランスにおける歴史学の分野では皆がこぞって"凡庸な"中世を研究しているのです。


話は長くなりましたが、個人的なことを申し上げれば、フランス留学中に触れることが出来た歴史に対するこれらの認識、感覚に基づいて、音楽のことも考えざるを得ません。今回は敢えてカルクブレンナーのピアノ・ソロ編曲を紹介します。先に挙げたリストのベートーヴェンのシンフォニーのピアノ・ソロ編曲に先立って出版されたのがこのカルクブレンナーのソロ版です。具体的にはこの版は1838年頃にパリで出版された初版で、ドイツでは1837年に初版が出ています。全体は10分冊で構成されています。ベートーヴェンのシンフォニーは9曲ですが、第9番が2冊構成になっている訳です。表紙を見ると当時の楽譜にはありがちな献呈者の名前が中心になった構成で、ここでは『ルイ・フィルップ王』です。作曲者名もフランス風に Fréd(éric) となっています。因みにリストは自らのソロ・編曲を出版社に印象付けるために『今までに何冊もの凡庸なソロ・編曲が出されたが、これこそが決定版である』という趣旨のことを書き送ったそうです。

ここで、当時の音楽界でピアノ・ソロ編曲の果たした意義について考えてみましょう。リストは現代で言うところのピアノソロ・リサイタルを確立したわけですが、それまでは演奏会は王侯貴族の館、サロン、もしくは台頭し始めたブルジョワジーのサロンが主でしたから、一般人が最新の音楽に触れるには正に楽譜を通じてしかアクセスの手段しかなく、ましてや編成の大きな管弦楽曲などは主にピアノ・デュオを介して広まっていきました。この状況はリストの晩年になっても変わらず、彼の弟子、ワインガルトナーとライゼナウアーはピアノ・デュオ版で師リストの交響曲を広めていました。これはワインガルトナーの自叙伝にも記されています。これに比べて、ピアノ・ソロ版はピアニスト一人いれば事足りたわけなので手軽な反面、高度な演奏技術を要求されるので、相対的にはデュオ版よりはるかに少数しか存在しません。いずれにせよ当時の人々は演奏会以外でこれらの編曲版によって初めて数々の交響曲に接したわけで、その楽譜の果たした歴史的意義は過小評価されるべきではありません。


さて、カルクブレンナーに先立つ編曲として、フンメルによるベートーヴェン、モーツァルトのピアノ・ソロ版が存在しますが、これらはピアノ・トリオ版のピアノ・パートです。従って、すくなからずスカスカな感じがするのは否めません。
それではカルクブレンナーによる交響曲第五番『運命』のソロ版の冒頭と、同じく『エロイカ』の冒頭部分を載せておきますので、どうか音にしてみて下さい。
最後に、カルクブレンナー編曲によるベートーヴェン『エロイカ』『田園』は2006年、桐朋学園大学教授であるピアニスト、村上弦一郎さんによって演奏されたことを書き添えておきます。

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