18.「スクリャービンの伝記」という神秘:4②

バワーズが強調するスクリャービンの「神秘」の二つ目の側面は、スクリャービンの「女性的」な物腰や振る舞いを、同性愛的な性向と結びつけて解釈しようとする試みです。
バワーズは伝記の中でかなりの紙幅を割いて、スクリャービンの「女性的」な外見や振る舞いについて論じています。「洗練された……女性的な……繊細な……優美な……柔らかい」といった同時代人の評言を並べ、エーンゲリが「女性たちとの結びつきが、スクリャービンにある種の女性性の刻印を残した」と書いた一節を引用し、さらにはアメリカ公演時の批評(「女性的な物腰がなければ……」)を重ねることで、読者を一つの結論へと導きます。すなわち、「二人の妻と七人の子がいたとはいえ、スクリャービンの中に同性愛的な核がなかったとすれば、彼の人生はあれほどまでに苦悩に満ちたものとなり得ただろうか?」(Bowers 1969, vol. 1, 69)と。
さらにバワーズは、スクリャービン自身は下品な言葉を嫌い、同性愛について「口にできないもの」と呼んでいたとしながらも、「それでいて彼の音楽はあからさまにエロティックだった」と断じ、作品のタイトル(「官能的な喜び」「愛撫されて踊る」「欲望」等)を挙げて、スクリャービンの抑圧されたセクシュアリティが音楽に噴出しているのだ、という解釈を展開しました。
しかし、この議論は今日の観点から見ると、いくつかの問題を孕んでいます。まず、1960年代はフロイト流の精神分析が知識人の間で大きな流行を見せていた時代であり、芸術家の創作を無意識の性的衝動で説明しようとする試みが広く行われていました。バワーズのスクリャービン解釈もまた、この時代特有の知的潮流の影響を強く受けたものと考えられます。
もちろん、スクリャービンの振る舞いに同時代人が「女性的」と形容したものがあったことは記録に残っています。しかし、「女性的」であることが同性愛を意味するわけではありませんし、ましてやそれを根拠に音楽を「エロティック」あるいは「ポルノグラフィック」と断ずるのは、論理の飛躍が大きすぎます。スクリャービンの音楽に「官能性」が感じられることと、作曲者のセクシュアリティとを安易に結びつけるこのような解釈は、1960年代の精神分析的な流行と、バワーズ個人の視点が重なった結果生じた過剰解釈の産物と言えるでしょう。
バワーズが描くスクリャービンの「神秘」の三つ目にして最大の側面は、いわゆる「誇大妄想的な神秘主義者」としてのイメージです。
確かに、スクリャービンの手記や書簡には「我は神なり」といった自己神格化の言葉や、キリストとの一体化を思わせる記述が残っています。バワーズはこれらをスクリャービンの内面世界を示す重要な証拠として大きく取り上げました。「スクリャービンの誇大妄想――『我は神なり』――は不快なものであったし、今もそうである」(Bowers 1969, vol. 2, 136)という直截な評価を下しつつも、「しかしその狂気は、地に足のついた人間が太陽や星や宇宙へと飛翔しようとあえて志す姿を見せてくれる」と、半ば魅了された筆致で描いています。
さらにバワーズは、スクリャービンが芸術的創造と性的恍惚を重ね合わせていたことにも注目しています。スクリャービンにとって「世界の創造は、男が女を抱くようなものだ」というのです。バワーズはこの思想を「精神病理学的(psychopathological)」と形容しながらも、その壮大さに一種の賞賛を隠せないようです。
しかし、ここでもバワーズの記述には重大な文脈の欠落があります。スクリャービンの「我は神なり」という言葉やキリストとの同一化は、彼が手記や書簡の中で練り上げていた哲学的思索の一部であり、そこには当時ロシアの知識人の間で広く共有されていた思想的潮流――象徴主義、神智学、ニーチェ哲学など――が深く関わっています。第一回の連載で紹介したドイチュの小説『ツウェック』で「ニーチェについて、形而上学については言うまでもあるまい、とても真剣に研究していた」と語られていたのは、あながち的はずれではないのです。スクリャービンは決してひとりで突然こうした考えに至ったわけではなく、同時代のロシア文化のただ中で思考を深めていた人物だったと考えられるわけです。
ところが、バワーズはこうした文化史的な背景をほとんど掘り下げることなく、スクリャービンの手記の言葉のみを切り取ってことさらに強調しながら、個人の精神病理として提示しています。「精神病理学的」「誇大妄想」といった断定的な語彙の選択は、読者に対して、これは文化的な文脈で理解すべき思想ではなく、ひとりの異常者の妄言である、という印象を強く与えてしまうものです。
バラードとベングストンは、バワーズのこうした傾向について、「精神医学的な用語(「神経的 neurotic」「強迫的 compulsive」「偏執的 obsessive」など)を頻繁に使い、文化史的な文脈を欠いた伝記的心理主義に陥っている」(Ballard et al. 2017, xii–xiii)と厳しく批判しています。
以上のように、バワーズ伝が描くスクリャービン像には、大きく三つの方向から「神秘」の強調がなされています。第一に潔癖症的な習慣の誇張、第二にセクシュアリティの過剰解釈、第三に神秘主義思想の脱文脈化です。いずれの場合も、バワーズは元の資料に手を加えたり、文脈を省いたり、当時の精神分析的な流行や自身の視点を持ち込んだりすることで、スクリャービンを「変人」「異常者」「狂気の天才」として際立たせることに成功しました――そしてその鮮やかな筆致ゆえに、このイメージは今日に至るまで根強く残っているのです。
すでに本連載の最初のほうでも触れたように、こうしたスクリャービンの「神話」や「狂気」のエピソードは、CDのブックレットやコンサートのプログラムノートなどを通じて広く流通してしまっています。ではバワーズ以後、こうした「神秘」のベールを剥いでスクリャービンの実像に迫ろうとする動きはなかったのでしょうか? 次回は伝記篇の締めくくりとして、バワーズ以降の伝記的研究の展開と、いま我々がスクリャービンの伝記をどう読むべきかについて考えてみたいと思います。
- Ballard, Lincoln, and Matthew Bengtson, eds. 2017. The Alexander Scriabin Companion: History, Performance, and Lore. Lanham, MD: Rowman and Littlefield Publishers.
- Bowers, Faubion. 1969. Scriabin: A Biography. 2 vols. Tokyo and Palo Alto: Kodansha International.
- Энгель, Юлий Дмитриевич. 1916. А. Н. Скрябин: Биографический очерк. Петроград: тип. «Сириус».

