ピティナ調査・研究

16.「スクリャービンの伝記」という神秘:4. フォービオン・バワーズのスクリャービン伝の出版(『スクリャービン:伝記』)①

スクリャービン:「神秘」の向こう側へ
「スクリャービンの伝記」という神秘:4. フォービオン・バワーズのスクリャービン伝の出版(『スクリャービン:伝記』)①

1969年に、上下巻からなる分厚い伝記が出版されました。フォービオン・バワーズによる『スクリャービン:伝記』です。本連載ではこれまで取り上げてきませんでしたが、英語圏ではそれ以前にもいくつかスクリャービン伝が出版されていました。ただしそれらは、作曲家がロンドンやアメリカに渡って活動し注目を集めていた時期、あるいはスクリャービンが突然死去し、信奉者たちが彼の業績を音楽史に刻もうと尽力していた時期——すなわち1910年代前後に限られます(Hull [1916] 1970; Swan [1923] 1969)。

加えて、参照できる資料が限られていたため、その内容は生涯よりも作品に比重が置かれていたり、きわめて簡潔に書かれていたりと、現代の水準からすると物足りないものでした。したがって、バワーズがこの時期に改めて大部の伝記を刊行したのは、一見すると唐突に思えるかもしれません。

しかし、その背景には北米で高まっていたスクリャービンへの関心がありました。では、なぜ没後すでに半世紀を経た作曲家が急に注目を浴びたのでしょうか。その理由の一端は、1960年代後半から1970年代にかけて花開いたヒッピー文化やニューエイジ・ムーブメントといったポピュラー・カルチャーにあります。近代合理主義よりも意識の変革や個人の自由を重視するこの風潮の中で、スクリャービンの音楽と美学は再発見されたのです。

スクリャービンの音楽から感じられる「法悦(エクスタシー)」は、しばしばドラッグのトリップ体験にもなぞらえられました。1959年に刊行されたヘンリー・ミラーの小説『ネクサス Nexus』(『薔薇色の十字架』三部作の第三部)では、《法悦の詩》の聴取体験を「氷、コカイン、虹の浴槽のようだった。何週間もトランス状態で過ごした。何かが起こったんだ」と登場人物に語らせています(Miller [1959] 1993, 306)。

さらに、スクリャービン解釈の第一人者として知られるホロヴィッツがカーネギーホールで繰り返し演奏を披露したこと、またソ連から渡米したリヒテルやアシュケナージが優れた演奏を聴かせたことも、アメリカでのブームを後押ししました。

こうしたスクリャービン再評価の潮流の中で、バワーズはこれまでロシア語でしか読めなかったスクリャービンの手記や手紙を初めて英訳し、広く一般読者に紹介しました。その文章は今読んでも華やかで魅力的であり、専門家だけでなく一般の音楽愛好家にもスクリャービンの生涯と思想をわかりやすく伝えることで、ブームをさらに加速させました。

インタビューによると、バワーズ自身はピアノを弾き、ジュリアード音楽院大学院を修了した経歴を持ちます。同時にコロンビア大学でロシア語を学んでおり、そうした経緯からスクリャービンへの強い関心が芽生え、自らを「スクリャービニスト」と呼ぶほどになりました。それが大著執筆の大きな動機となったのです。

このようにして誕生したバワーズ伝は、著者自身の愛情と社会的潮流によって広く読まれ(そして今日なお読み継がれ)ています。ただし同時に、この本はスクリャービンを「神秘的で奇矯な存在」として強調し、そのイメージを固定化してしまった側面も否定できません。わたしとしては「スクリャービンの魅力を広めてくれてありがとう」という思いと、「よくもこんな誇張を広めたものだ」という甘苦入り交じる感情があります。ともあれ次回は、バワーズの記述の細部を追いながら、その「神秘」の実像を見ていきたいと思います。

参考文献
  • Bowers, Faubion. 1969. Scriabin: A Biography.
  • ――――. 1973. The New Scriabin: Enigma and Answers.
  • Hull, A. Eaglefield. [1916] 1970. A Great Russian Tone-Poet: Scriabin. New York: AMS Press, Inc.
  • Interview to Faubion Bowers, July 22, 1980. By Marlene Mayo. (University of Maryland, Oral History Project on the Allied Occupation of Japan). https://prangecollection.wordpress.com/wp-content/uploads/2016/10/bowersfaubion.pdf
  • Miller, Henry. [1959] 1993. Nexus. London: Flamingo.
  • Swan, Alfread J. [1923] 1969. Scriabin. New York: Da Capo Press
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