15.「スクリャービンの伝記」という神秘:4

さて、前項までで、スクリャービンの生前から死後直後にかけて、様々な伝記や論述がなされていたこと、またそれにより今日にも通ずる「神話」がすでに作られつつあったことが確認できたと思います。
しかし、そんな神話が作られたのは、スクリャービンがある意味で国内外の楽壇の話題になっていたからこそ。スクリャービンが世を去ってしばらく経つと、彼が称揚された時代は去り、「時代遅れ」になる時期が訪れます。具体的に言うならば、1920年代半ばから1950年代半ばがそれにあたるでしょう。シリョーツェルはパリの音楽界を冷静に観察し、スクリャービンの音楽が「時代遅れなアナキストに見える。彼の思考の情熱は、今日の西欧では季節外れで、スクリャービンの絶えず動き続ける様、度を超した欲望、法悦主義〈エクスタティシズム〉は無益な扇動であり、弱さであり、規律のなさであると感じられているのだ」(Schloezer 1924: 15)と報告しています。またサバネーエフも1927年の著書『現代ロシアの作曲家』で「[第一世界大]戦後、社会学的な状況が変化したのか、人々の政治が異なる物になったのか、いずれにせよ、現在、スクリャービンから明らかに遠ざかっていることに気づかなければならない。彼は死後まもなく、ロシアでは『音楽聖人の列』に入れられ、カノン扱いされるようになったが、西側では未だに正当な評価を得られていないのだ」(Sabaneev 1927: 52)と冷静に観察しています。またソ連国内でも、例えば作曲家・批評家のジリャーエフは初期ソ連の音楽雑誌『新しい岸へ』で、「堅牢と健全」の形式を持つプロコーフィエフを論ずる際にスクリャービンの和音や音色の「腐敗」の要素を引き合いに出し、「国内でのスクリャービンの影響力が徐々にプロコーフィエフへと移っている」(Жиляев 1923: 19)と述べています。
このいわば「脱スクリャービン」――バラードはこれを「誤解と無視の時代」と表現しています――の傾向が起こった要因は様々にありますが、大きく三つの要因が考えられます。
1917年の革命後、ソ連初期にはスクリャービンは革命的な作曲家であり、実際の社会で起こった革命を自身の音楽で予見し広めようとした存在として受け入れられていました。しかし1920年代半ばまでにシンプルで民衆によりわかりやすい「プロレタリア音楽」を志向する人々がソ連楽壇の中で台頭し、音楽院や音楽行政のトップの座につくようになると、スクリャービンの音楽は困難な立場に置かれるようになりました。なにせ、スクリャービンは貴族の出身でしたし、先に引いた批評でジリャーエフが言うような「腐敗」といった、大衆を堕落させる要素がその音楽に含まれていると見なされていたわけです。ショスタコーヴィチのような主導的な作曲家もスクリャービンの音楽が「不健康なエロティシズム」や「現実からの逃避」であるとして「音楽上の最も激烈な敵」と断じていますし、ストラヴィンスキーも1939〜40年の講義の中でスクリャービンを「イデオロギー的・心理的・社会学的無秩序」と非難めいた言葉を残しています(Ballard 2010: 90)。スクリャービンはソ連の人々にとって、いわば「階級敵」として扱うのが自然な人物だったと言えるでしょう。
本連載でこれまで詳しく見てきたように、当時のスクリャービン論者を代表するサバネーエフとシリョーツェルの主張は、それぞれ大きく食い違っていました。サバネーエフは「ありのままに」スクリャービンを描こうとした『回想』において、道徳的・性的に退廃し、誇大妄想的であるという作曲家像を形成しました。その一方でシリョーツェルは、スクリャービンを音楽家としても哲学者としても輝かしい存在として称揚し、彼とその創作を神聖化しようとしていた節があります。
この対立は単なる好き嫌いの問題ではなく、スクリャービンの音楽と思想の関係をめぐる根本的な見解の相違でした。サバネーエフは哲学と音楽は一体であるという前提に立ち、一方でシリョーツェルは哲学があくまで霊感の源にすぎず、音楽は自立した存在であると考えていました。真っ向から対立するこれら二つの立場は、どちらもそれぞれに説得力を持って書かれていたがために、同時代の読者たちにとっては困ったことになりました。なにしろ、スクリャービンとその音楽に対してどのように接したら良いのか、何が正確な情報なのかがわからないのです。このことも、次第にスクリャービンの理解から人々を遠ざけた一因と考えられます。
最後に、音楽そのものの趨勢もスクリャービンには不利に働きました。スクリャービンの音楽が持つ「洗練され退廃的な官能性」は、新しい時代の美学とは相容れないものになりつつあったのです。西欧では新古典主義といった明晰な語法や、表現主義、さらにはシステマチックな無調が台頭し、情熱よりも理論と冷静さが求められるようになっていました。いっぽうソ連では少し時代は後になりますが、先に述べたプロレタリア音楽の要請や、「形式においては民族的、内容においては社会主義的」というスターリンの言葉に象徴される「社会主義リアリズム」の路線によって、民族的要素や「写実的」な要素がなかなか見出しづらいスクリャービン的な音楽は、ますます評価されにくい土壌ができあがっていきました。
このように、政治的にも、言説的にも、そして音楽の趨勢としても大きな変革を迎えた1920年代以降、死したスクリャービンは文字通りそこから取り残されていったわけです。
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スクリャービンの評価がその後一気に変わったのは、1970年前後のことでした。生誕100周年記念を前後に、ソ連と欧米で再評価が進むことになったのです。この傾向は主として演奏家の側から起こりました。ソヴィエトと西欧のヴィルトゥオーゾたち――リヒテル、ソフロニツキー、ホロヴィッツ、オグドンら――は演奏会や録音を通じてスクリャービンを盛んに取り上げ、彼の再評価を演奏でも言説でも力強く後押ししたのです。
そんな中で、スクリャービンの生涯やその作品を語る動きもまた再び活発化してきました。次回は、この再評価の潮流の中で英語圏において出版された、フォービオン・バワーズによる特異な伝記を取り上げてみたいと思います。
- Ballard, L. M. 2010. "Defining Moments: Vicissitudes in Alexander Scriabin's Twentieth-Century Reception." Ph.D. diss., University of Washington.
- Sabaneev, L. 1927. Modern Russian Composers. New York: International Publishers.
- Schloezer, B. 1924. "Scriabine." Modern Music: League of Composers' Review. 1/3 (November 1924): 14–18.
- Жиляев, Н. С. 1923. «Сергей Прокофьев.» К новым берегам. No. 2: 18–20.

