ピティナ調査・研究

14.「スクリャービンの伝記」という神秘:3-④

スクリャービン:「神秘」の向こう側へ
「スクリャービンの伝記」という神秘:3. ボリース・シリョーツェル『スクリャービン 第一巻 個人・神秘劇』(1923)④(第二部:ミステリヤ)

スクリャービンについてよく知りたいと願うならば、彼の晩年の《ミステリヤ Мистерия》(《神秘劇》とも)の構想を避けて通ることはできません。このことについて、スクリャービン自身も1905年にはすでに「何よりもまず、私の最重要作品を完成させなければなりません」(Скрябин 1965: 422–423)と語っており、再三再四近しい友人や妻への手紙で《ミステリヤ》構想について述べていました。
音楽劇的要素のみならず、詩・舞踊・光・香りなどを組み合わせた「全芸術」作品で、あるいは将来的にはインドの寺院でこの作品の演奏を遂行する——このあまりに壮大な計画を、さすがにスクリャービンも二、三年で達成できるとは思っていなかったようで、晩年には実現可能にするために縮小版の《序儀 Предварительное действо》を計画するようになります。しかしこの《序儀》すらも、42頁の断片的素描を残したままスクリャービン自身が1915年に亡くなってしまい、完成には至りませんでした。
このような未完のプロジェクトに終わった《ミステリヤ》ではありますが、後期のソナタや小品がこの大規模作品の素描であり、その一部をなすもののはずだったということが様々な証言から示されています。そのような考えに従って、ソ連の作曲家アレクサーンドル・ネムチーン(1936–99)はスクリャービンの後期の書法をトレースした上で、後期の様々な作品を引用しながら《序儀》の補筆完成を目指し、足かけ26年かけてその第1部を1973年に、そのまた23年後の1996年に第2・3部を発表しました。※1

そんな《ミステリヤ》について、おそらく初めて詳細に論じたのがシリョーツェルの本著だったと言えるでしょう。シリョーツェルは、前回までに触れたように第一部でスクリャービンの人間としての個性について触れた後、第二部では畢竟の大作となるはずだった《ミステリヤ》の創作経緯とその特色についての詳細に立ち入っていきます(Шлецер 1923: 149ff.)。
彼がここで情報元にしているのは、スクリャービンから直接聞き取った証言と草稿で、生前の義兄・親友で死後『ロシアのプロピュライア』(1919年)刊行の際にスクリャービンの直筆のメモを編纂した立場を存分に活用していると言えるでしょう。
彼は本書で、《ミステリヤ》構想の発展段階を「前《ミステリヤ》期」(1890年代)、「オペラ期」(1900〜04年)、「最後の成就行為期」(1903〜07年)、「《序儀》期」(1908〜15年)という四期に整理します(Шлецер 1923: 151–155)。第一期の「前《ミステリヤ》期」でも、スクリャービンは芸術全体が人類を変容へ導くとの信念を抱き、個々の作品(ソナタや小品)を通じて「救済の力」を伝播させることを試みていたとされます。このような思考は、「オペラ期」には一個の作品として具体化させようとする計画にたどり着きます。一つの巨大なオペラに、スクリャービンの理念をすべて詰め込もうとしたわけです。しかしここでアイデアが膨張し、オペラ形式では収まらなくなります。なお、未完に終わったオペラ台本の断片には、主人公「哲学者 / 音楽家 / 詩人」が民衆を自由に導くという筋書きが残っています。なお、シリョーツェルの言によれば、このオペラは台詞過多・抽象的観念の羅列に陥り、ドラマ的推進力を欠いているものでした。結果として構想は放棄され、素材は後の《法悦の詩》や小品へ転用されることになりました。

スクリャービンが妻子の元から去り、タチヤーナと国外を転々としていた時期が「最後の成就の行為期」にあたります。ここで彼は《ミステリヤ》という言葉を初めて用いるとともに「最後の成就行為 Акт последнего свершения」を執筆すると宣言し、あくまでスケールとしてはおとぎ話のそれにとどまっていたオペラの構想が世界終末的スケールへと一挙に拡大し、宇宙終末と人類変容を結びつけながら舞台化するという巨大な計画が明確になります。ここでシリョーツェルは、ニーチェ『ツァラトゥストラ』『権力への意志』、バイロン的個人主義など、西欧哲学・美学との接触による影響を示唆しています(Шлецер 1923: 160–161)。
しかしそうした莫大な規模を持つ作品にはそうそう着手できず、早期実現もまた不可能だと悟ったスクリャービンは、縮小版《序儀》を計画することとなります。本来の内容を大幅に簡約して「直ちに実現するため」の妥協案ではありましたが、音楽・合唱・色光・舞踊が多層的に絡み合う設計図はそれ自体革新的でした。さらには、その作品を「演奏」(あるいは「上演」)する際には観客/演者の区別は撤廃され、「ヒエラルキーを持つ同心円状の参加者層」が作品に参与するものだとスクリャービンは考えていました。想定されていた「同心円状」の参加者の中心には高位の「先導的アデプト」、つまりはスクリャービンの考えに共鳴しそれをよく理解する人々がおり、外輪に向かえば向かうほど、理解度の高くない人々、という構図をスクリャービンは構想していました(Шлецер 1923: 342)。
こうした演奏の中では、演劇における「出来事」のようなものはありません。ただシンボルや表現的な身振り手振り、そして合唱があるだけです。こうした意味で、シリョーツェルは「《序儀》は、ヴァーグナー的な楽劇というよりむしろカンタータやオラトリオに近い」(Шлецер 1923: 343)と指摘しています。シリョーツェルが記述する《序儀》の性格は、「ソボール的」という言葉で表現されていますが、これはロシア思想の中でも重要なキーワードである「精神的一体感」を示す「ソボールノスチ」と強く関連する言葉です。フョードロフやベルジャーエフといったロシアの重要な思想家とスクリャービンとの類似性を示すシリョーツェルは、《ミステリヤ》の創作者としてのスクリャービンをここで、ロシア独特の精神性や思想的伝統の中に位置づけているように思われます。
さて、こうして駆け足で《ミステリヤ》に関するシリョーツェルの記述を概観しても、その記述が今理解されているものと齟齬がなく、《ミステリヤ》の構想を理解する上で未だに第一級の史料であることがわかります。サバネーエフと比較しても、様々な哲学的類推がありながらもシリョーツェルの記述の意義は勝るとも劣らないものがあります。サバネーエフの「仮想敵」だった著者による本書は、すでに述べたようにロシアにおいても稀覯書になってしまっているわけですが、何らかの形で再注目されることがあれば、スクリャービンのイメージを改めるきっかけになるやもしれません。

参考文献
  • Шлецер Б. Ф. 1923. А. Скрябин. Том 1. Личность. Мистерия. Берлин: Грани.
注釈
  • ソ連のメロディヤ社やドイツ・グラモフォンから録音がリリースされています。また、あまり知られていませんが、セルゲーイ・プロトポーポフ(1893–1954)もまた、スクリャービンの《序儀》の補筆完成を目指し、二台ピアノ版を完成させました。
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