13.「スクリャービンの伝記」という神秘:3-③

一言で言うと、初期ソ連で出版された『スクリャービン回想』で、サバネーエフはスクリャービンを奇矯な人物として描きたがった節があります。スクリャービンがしていたのは、一貫した美学を持つ思索というよりも気まぐれな夢想であり、その周りにいた、やはりおかしなひとびと(詩人、思想家、音楽家)もそれを助長した——このようなニュアンスが、彼の記述の各所に見られます。これはすでに述べたとおり、さらには拙訳のサバネーエフ本の序文から見て取れるように、彼にはある目的があったからです。すなわち、スクリャービンの(あくまでカッコ付きの)「客観的な像」を描き、神秘主義的な思想と、それに関連して作曲家の死後に奇妙な形で彼に対する崇拝を保ち続けた人々から離れた場所でスクリャービンを描きたかった、というものです。
では、シリョーツェルがサバネーエフからやや遅れて1923年に出版した『スクリャービン 第一巻』で描いたスクリャービンはどうでしょう。
今回は、第一部「個人 личность」の記述を参照しながら、シリョーツェルがスクリャービンをいかなる人物であるか、(また翻っていかなる人物ではないのか)を主張したがっていたのかを把握したいと思います。
シリョーツェルは第1章「思想家」を、彼が15歳の時、スクリャービンと1895年に自身の伯父の家で初対面したときの強烈な印象から始めます。「繊細で病的な外見、異常な神経質さに驚き、さらにはそれまで私が聴いてきたあらゆるものとはまったく異なる、普通でない[ピアノの]演奏ぶりに驚き動揺した」(Шлецер 1923: 1)というのが彼がスクリャービンに抱いた印象でした。その後二人が再会するのは1902年。スクリャービンが音楽院の教授となり、さらに家庭を持つようになった後のことでした。無難な時候の挨拶を交わした後、情熱的な哲学論争を交わしたことで、スクリャービンとシリョーツェルの本格的な交友が始まるのでした。
こうして13年ほどの間、シリョーツェルが観察した思想家としてのスクリャービンの特質は、「思索が決して途切れることなく続いていくことにあった」ということでした。また、その哲学的思索は、(よく勘違いされるように)神秘的で私たちの現実世界と全くかけ離れた理論や心理を発見するためのものではなく、「この世界で何かをなさなければならない」という信念のもと、現実世界で何か——特に芸術的な創造——を実践するためのものだった、という点も特徴的でした(Шлецер 1923: 2–4; 8–9)。そしてそうした「何か」は、現在や過去のものではなく、未来の、当時彼らが過ごした世界とは全く違う未来の世界へとつながるものではなくてはならない、とスクリャービンは考えていました(Шлецер 1923: 6)。
スクリャービンの持っていたイデオロギーが長い間をかけて何度も変わっていったことを踏まえながら、常にその根本にあった特質としてシリョーツェルが第一に挙げているのが、「全人類、宇宙の全一性 целое」なるものをスクリャービンが望んでいたことです(Шлецер 1923: 15)。モスクワ哲学協会に所属し、セルゲーイ・トルベツコーイとロパーチンの影響を受けながら、経験学的視座から「私が作るもののみがあり、他には何もない」というエゴセントリズムと形而上学的ニヒリズムの考えを抱いていたところに始まり(1902年の会話の時点)、その後国外でプレハーノフと出会ったことでマルクス主義の本を読むようになり(ただしスクリャービンがマルクス主義に宗教的・神秘主義的な内容を読み解いていたことはプレハーノフ主義と全く異なる)、さらにその後パリで神智主義に出会い、神智主義のプリズムを通してインド哲学を知る——という経過のなかで、その考えは磨き上げられていきました(Шлецер 1923: 17–24)。
スクリャービンと神智主義との関係は——「スクリャービン伝」でしばしば語られることですが——シリョーツェルは曖昧な態度を取りつつも、やや疑念をもって接しています。あくまでスクリャービンは神智主義や特にブラヴァツカヤの『シークレット・ドクトリン』を部分的に自身の哲学の構築に利用していただけで、スクリャービン自身の思想は神智主義から独立した存在だった、というのが彼の意見です。特に神智主義者たちが有していた芸術に対する趣味や、自身の作品を神智主義的に解釈し、神智学プロパガンダに利用しようとする人々に対して、スクリャービンは否定的に接していたことを彼は回想しています(Шлецер 1923: 23)。
第二章「芸術家」での主張は、常に思考していたスクリャービンは(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ベートーヴェン、ゲーテ、ヴァーグナーのように)「自身、自身の活動、自身が活動している世界を理解したいと欲し、隅から隅まで自らを透明で、極めて明白で、理解しうるものになろうとする」(Шлецер 1923: 28)芸術家に数えられる、というものです。こうしてスクリャービンを称揚した上で、具体的に彼が芸術家としてどのような存在だったのかを、シリョーツェルは詳しく述べていきます。曰く、スクリャービンにとって芸術は単に美しいものを作るものではなく、精神的に、宗教的に、学術的に自らの創作を規定したいと望んでいた、というわけです(Шлецер 1923: 32)。ここには理論や理屈といったものが存在します。一方で哲学的な習練の不足により、そうした概念的な言葉はときにナイーヴに、逆説的に見えてしまうということを付言しています。畢竟、彼の芸術的創作と哲学的探求の根源は同じものなのです。
第三章「神秘主義者」でシリョーツェルが主張するのは、そうした創作と思想の根底にあるのは本質的な神秘主義である、ということです。スクリャービンの行動・願望・思考は経験論的な神秘主義によって規定されており、これは「世界に対する特別な感覚、世界を観照し希求すること」であると定義します(Шлецер 1923: 81)。つまり、スクリャービンは何か通常と異なることを体験しており、それが彼の思考と創作をドライヴしていたわけです。
とりわけスクリャービンの神秘主義の独自性となっているのが、自身の内面へと強く希求する「主観性」、見たものを実現したいと欲する「能動性」、その衝動の中で「私」が世界に溶け合う時に生まれる「エロティシズム」、さらには個人を単なる手段としてみる姿勢などです(Шлецер 1923: 96–125)。これらの特徴は、シリョーツェル自身によって1919年に編纂されたスクリャービンのノートという一次資料を典拠としている点で新しいものです(Шлецер 1923: 92)。さらにこれらの観念は、スクリャービンが志していた「全芸術」という概念と強く結びついています。
この全芸術という観念については、第2部「ミステリヤ」で詳述されますが、その記述を先取りしておきましょう。曰く、「スクリャービン個人にとっては、音はそれ自体で、色彩、イメージ、想像と独立して存在するわけではなかった。これが彼の全芸術に関する学説の心理的根本であった。[彼によれば]そのような全芸術から、次第に音楽、舞踊、絵画、彫刻、建築が分かれて分離していったのだという。ヴァーグナーによる理論はあったが、スクリャービンはそれを知ることで、この意識をより強めたに過ぎない」(Шлецер 1923: 277)。第一章で述べられていたように、未来に向けた「何か」を絶えず志向したスクリャービンは過去の状態ではなく、未来の芸術としての新しい全芸術を目指した芸術家だったのです。
- Шлецер Б. Ф. 1923. А. Скрябин. Том 1. Личность. Мистерия. Берлин: Грани.