11「スクリャービンの伝記」という神秘:3

しばらく連載の掲載が止まってしまい、申し訳ありませんでした。博論の執筆とディフェンスと、バタバタの間に始まったポスドク生活に追われて、資料を読み込んだり執筆したりする時間がうまくとれずにおりました。ここからはしっかり定期的に更新してまいりたく存じます。
さて、今回から数回にわたって取り上げるのは、1923年に刊行されたボリース・シリョーツェル(Борис Федорович Шлецер, 1881〜1969※1)の『スクリャービン 第一巻 個人・神秘劇 А. Скрябин. Том 1. Личность. Мистерия』なる書物です。
実を申しますと、連載が長期にわたって執筆できなかった原因には、スクリャービンの死後しばらく経って刊行される伝記を取り上げる前にどうしても論じたかったこの本に関する事情も、少しばかり関わってきます。と言いますのも、このシリョーツェル『スクリャービン』がとんでもない稀覯書で、私が本書を手に入れられたのも、ロシアのインターネットの古本屋さん※2を年単位にわたって探し回ってようやくのことだったのです。しかしその購入できた一冊も保存状態が最悪で、表紙はコーティングの蝋が日に焼けたせいなのかぐにゃぐにゃになってしまっていますし、内部のページもかなり劣化が進んでおり、読み進めていくうちにページがぼろぼろと崩れていってしまうような酷い有様でした。モスクワでの研究を終えて、1月末に日本に帰って全ページいそいそとスキャンしたことで、ようやく心安らかにページを繰れるようになりました(とはいえPDFですが)。シリョーツェル本に関する記述はこうした労苦の成果ということで、是非お読みいただけますと嬉しいです。

ボリース・フョードロヴィチ・シリョーツェルは、スクリャービンの内縁の妻(事実上の後妻)タチヤーナ・シリョーツェル(1883~1922)の兄で、この点からスクリャービンに非常に近しい人間の一人と考えられてきました。しかしこの点を除いても、シリョーツェルは帝政ロシア〜亡命ロシア人の知識人社会の中で一定の地位を持つ人物でした。ですので本の内容に立ち入る前に少しばかり、彼の伝記的情報を記しておきたいと思います。
ボリースは、ベルギー人でピアニストの母と、ドイツ系で官吏の父との間に、現ベラルーシのヴィテプスクで生まれました。母以外にもおじにモスクワ音楽院の教授がおり、文化と音楽に満ちた家庭で育った彼は、当時のロシア貴族の習わしどおり一通りの音楽教育も受けることとなります。しかし最終的に専業の音楽家の道は選ばず、ブリュッセル大学で社会学を専門として1901年に卒業します。その後彼はロシアに戻り、哲学者・美学者・社会学者・翻訳家・批評家としての非常に多面的な文筆活動に勤しみました。
革命までに彼が論文を発表した主たる場所は、『金羊毛 Золотое руно』(1906~1909年刊行)と『アポローン Аполлон』(同1909~1917)でした。この二つの雑誌は当時ロシアで最先端の文学上の潮流として勃興していた象徴主義の代表者の主要な拠点として今日でも名を残す重要な雑誌でした。また、彼が音楽論を掲載していた『音楽的同時代人』(1915〜1917)も、その誌名からわかるように、同時代の最先端の音楽的潮流が論じられた場としてよく知られています※3。こうしたことからわかるように、シリョーツェルの活動拠点は、ロシア最先端の前衛芸術の本丸だったというわけです。
1917年にロシア革命が勃発すると、多くの知識人のふるまいと同じく、シリョーツェルは1920年に祖国を去り、コンスタンチノープル、ブリュッセルを経て1921年にパリに落ち着きます。そこでも彼は文筆活動を続け、バラーキレフ、ムーソルグスキイ、ロシアバレエ団などに関する音楽論をフランス語で著して祖国ロシアの文化普及に努めたほか、J.S.バッハの伝記を書いたことでも知られています。
しかし、パリ期のシリョーツェルの活動の中で何よりも特筆すべきは、ロシア文学のフランス語翻訳とロシア文学のプロパガンダでしょう。翻訳家として彼は八面六臂の活躍を見せ、ゴーゴリ『肖像画』、『狂人日記』、『鼻』、『死せる魂』、レールモントフ『現代の英雄』、ドストエフスキーの『白痴』、『悪魔』、『カラマーゾフの兄弟』、トルストイの『戦争と平和』などのロシア文学の古典をフランス語に翻訳したほか、今日まで続く文芸雑誌『新フランス評論 La Nouvelle Revue Française』でロシアの文学を人々に紹介しました。
1950年に健康を損なってからは、かつての活発さこそなくなりますが、それでも文筆活動は続けられ、1969年には自作小説『私は誰でもない Mon nom est personne』(1969)を発表し、その年に亡くなりました。
話をスクリャービンに戻しましょう。ボリースがスクリャービンに出会ったのは、彼の筆によれば1896年、ブリュッセルへと移住する以前の15歳のときだったといいます。その後、1902年11月にモスクワで家族とともにスクリャービンと再会したボリースは、彼と親交を深めていきます。その後スクリャービンは妹タチヤーナと愛慕を寄せ合い、半ば公然に不倫関係に陥ることとなるわけですが、そんなことがあろうと、1904年にスクリャービンがロシアを出国して西欧諸国を巡りはじめようと、その友好関係は変わりませんでした※4。ただし、ボリースはスクリャービンに関する論文を執筆することに関しては、サバネーエフと比較してやや控えめでした。とはいえこれは、スクリャービンの生前からすでにロシア国内外で多くのスクリャービン論を発表していたサバネーエフを比較対象とする方がおかしいのかもしれませんが。
このようにして知り合い交友を深めたボリースとスクリャービンの関係を一言で言い表すのは難しいのですが、スクリャービンはおそらく自身とその音楽・思想を愛してくれる知識豊かなボリースのことを大事に思い、一方でシリョーツェルも彼の才能を崇拝していました。ボリースは先に述べたとおり、前衛芸術の中心点で文筆活動を行っていたわけで、このような場にいた人物とスクリャービンが緊密に進行していたことに鑑みると、スクリャービンとボリース・シリョーツェル、二人の思想的な相性の良さが覗えるというものでしょう。さらにシリョーツェルの哲学に関する知識は、スクリャービンの思考にも影響を与えるようなものだったと考えられます。サバネーエフは『スクリャービン回想』で、スクリャービンの哲学的思惟にボリースの「奇妙な混合物」めいた視座が与えた影響が大きいのではないかと、批判的に指摘しています。
スクリャービンの崇拝者達による「インナー・サークル」の一員として、しかし彼の生前には公的には言葉少なな親友として時を過ごしたシリョーツェルですが、スクリャービンが1916年に亡くなると、スクリャービンに関する論文を著すようになります。特に、スクリャービンの生前未発表の手記や詩が収められた『ロシアのプロピュライア』第6巻(1919)の前文の《序儀》に関する論述は、生前スクリャービンの近くにおり、その思想を分かち合った人物にしか著すことのできないような光を放つ文章です。しかし彼の最終的に目指す場所は、小規模の論文やエッセーではなく、全二巻・三部にわたる大部の伝記的論考でした。次回は、その成果である『スクリャービン 第一巻 個人・神秘劇』の出版の経緯と、それが人々にどのように受け取られたのかを示したいと思います。
- Биссон, Б. Ж. 2022. “Борис Фёдорович Шлёцер (1881–1969) как переводчик и посредник в русско-французских литературных контактах.” дисс… канд. фил. наук. М.
- Сабанеев, Л. Л. 2022. Воспоминания о Скрябине. М.: Классика-XXI [サバネーエフ、レオニード 2014『スクリャービン:晩年に明かされた創作秘話』東京:音楽之友社]
- Свиридовская, Н. Д. 2010. “Борис Шлёцер: введение в творчество.” Вестник Московской консерватории. Т. 1. Вып. 1: 137–153.
- Скрябин А. Н. 1919. "Записи Александра Николаевича Скрябина." Русские пропилеи: Том 6. Материалы по истории русской мысли и литературы. / Сост., подготовка к печати М. Гершензон. М.: Издание М. и С. Сабашниковых.
- Шлецер, Б. Ф. 1908. “А. Н. Скрябин.” Русская музыкальная газета. № 5: 113–120; № 6: 145–157; № 177–187.
- ————. 1909. “Скрябин и его музыка.” Русские ведомости. 21 февраля.
- ————. 1916a. “А. Н. Скрябин, его творческий пуить и принципы художественного воплощения” Музыкальный современник. № 4/5: 119–144.
- ————. 1916b. “Об экстазе и действенном искусстве” Музыкальный современник. № 4/5: 145–156.
- ————. 1916c. “От индивидуальности — к всеединству” Аполлон. № 4/5: 48–63.
- ————. 1923. А. Скрябин. Том 1. Личность. Мистерия. Берлин: Грани.