ピティナ調査・研究

10. 「スクリャービンの伝記」という神秘:2. サバネーエフ『スクリャービン回想』(1925)②(内容とその弱点、評価、どのように理解すべきか)

スクリャービン:「神秘」の向こう側へ
「スクリャービンの伝記」という神秘:2. サバネーエフ『スクリャービン回想』(1925)②(内容とその弱点、評価、どのように理解すべきか)

前回確認したように、サバネーエフが自身の『回想』で心がけていたことに、客観的に物事を記述するという態度がありました。彼は、スクリャービンにあまり肩入れすることなく、冷静にその言説・態度・思想を分析できる「観察者的友人」であると自認していました。だからこそ、「修正や歪曲」なしにスクリャービンに関する正確な情報を読者に伝えられる、そしてその後の伝記記述の参考になる資料を作ることができると自負していたのです。

しかし、彼が自信を持っていたこの「客観性」には疑念があります。まずそれは、ところどころの情報が不正確であるという点に見て取れます。例えば、スクリャービンの死後の次のような記述は、明らかに正しくない記述です。

空からは春の日差しが降り注ぎ、典礼の葬儀のモチーフが、復活大祭の喜ばしい聖歌と、なんだか気まぐれで意味深に混ざり合っていた――光明週間 Пасхальная неделя だった……。私はスクリャービンが降誕祭の日に生まれたのだという迷信を思い出した。そして復活大祭に死んだとは……。実際、奇妙な偶然もあるものだ……。(Сабанеев 2022: 360)

スクリャービンが「スクリャービンは復活大祭に死んだ」というのは誤りです。復活大祭(パスハ)は毎年日付の変わる移動祭日ですが、1915年は4月4日(3月22日)がその日に当たっていました。一方で実際のスクリャービンの没日は4月27日(4月14日)と、3週間以上も後ろにズレていて、これは復活祭から第4週にあたります。おそらく「復活大祭の喜ばしい聖歌」だと思われる《パスハのトロパリ》(「Христос воскресе из мертвых, смертию смерть поправ, и сущим во гробех живот даровав. ハリストス死より復活し、死をもって死を滅ぼし墓に在る者に生命を賜えり。」)は癰者の週でもまだ歌われていますので、サバネーエフが聖歌を聴いたのはおそらく正しい記憶でしょうが、だとしても、彼の記述は不正確なのです。ちなみに、リンカーン・バラードはこの誤解を、サバネーエフが自身の主張をセンセーショナルに伝えるために行った意図的なものとしていますが、真相はわかりません。

スクリャービンの神秘のなかには、サバネーエフの麗文で引き立てられたものもあります。たとえば、スクリャービンが借りていた部屋の契約が、彼が死んだ日で切れることになっていた、というエピソードは、スクリャービンの「神秘」ぶりを引き立てるエピソードです。

医者がそのとき耳元で囁いた。「サバネーエフさん、ご存知ですか、なんということでしょう!スクリャービンさんの部屋の契約は、彼が死んだ日までになっていたのです。どうにかして再契約しなければなりませんから、みんな愕然としているのです」(Ibid.: 360)

サバネーエフはこれ以上のことを書いていませんから、この「医者」――彼は第7回の付録で彼の著書を批判したボゴローツキイでしょう――の発言を、彼がどのように解釈したのかを理解するには、彼の態度や『回想』が成立した経緯や行間を読み取るしかありません。そしてそれこそが、サバネーエフの記述を読み解く際の重要な鍵なのです。

サバネーエフは、『スクリャービン』(1916)の論争やサバネーエフ自身の「スクリャービン主義者」への嫌悪感から、ボゴローツキイにいい感情を抱いていなかったと思われます。そんな彼のスクリャービンの「神秘」を強調するような発言を、読者にありのままに受け止めてほしいと思うでしょうか。それとも「こんな馬鹿なことを言ってやがるぞ」という気持ちから医者の「囁き」を本で取り上げたのでしょうか。私はどうも後者のような気がするのです。

この種の態度は、サバネーエフが本文でもあからさまに表現している「スクリャービン主義者たち」への戯画的な描写や露悪的記述からも読み取れます。

半宗教的セクトとしての「スクリャービン主義者」はスクリャービンの死後になってから現れたものであり、そこには誠心誠意というものがあまりなく、それよりも死者を利用して出世したいという気持ちのほうが大きいように思われた。(Ibid.: 112)
神秘主義の友人たちが彼女[未亡人タチヤーナ]を取り囲んだ。どうやら、彼女は私のような「実証主義者」と一緒よりも、彼らと話していたほうが喜ばしく感じるようだった。彼らのうちの一人が、真剣で道理にかなったような顔をして話すところによると、司祭であり神秘主義兼数学者である[パーヴェル・]フロレーンスキイが、今から33年後に《ミステリヤ》が完成するであろう、スクリャービンがその中で何だかで出現するだとか。「どうやって出現するのかを説明するのは、もちろんできません。でも、フロレーンスキイはこれを正確に計算したんですよ、数学的に」。(Ibid.: 361)
[スクリャービン協会には]より一層、不健全な雰囲気を感じられるようになった。それは神秘主義的偽善のようなもので、非常に際立った「貴族主義」と「官僚主義」の傾向と混じり合っていった。[……]私は、スクリャービンの生前には、非常によく見て取れる彼の才能の魅力のなかにいた人間で、天才的な友人[スクリャービン]の思想に興味を持ち、彼を侮辱したくなかったので、《ミステリヤ》については非常にデリケートな形で関わっていた。なので、この魅力がすでになくなってしまい、私が自らの実証主義的的傾向をよりはっきりとした形で提示するようになってから、「スクリャービン主義者」たちはこのことを非難するようになった。[……]天才からは全く程遠いガガーリナたち、レールモントヴァたち、ボゴローツキイ、ポドガエーツキイたちの言うことは、全く認め難く、また興味もなく、実につまらないことであった。ようやくわかった。スクリャービン自身に大いに価値があっただけなのだ、彼の光が全く面白くない人々を照らしていたのだと。そしてそのおかげで彼らが「あたかも」面白い人間のように見えていただけなのだと……。(Ibid.: 367)

さて、ここまで読んできて、サバネーエフの記述が彼の主張する通りに「客観的」かどうか、私にはわからなくなってきました。彼の文章は、もちろん(彼の主張を信じるならば)人々の発言をそのまま写し取ったものになっているはずです。その一方で、それらの発言をどのように抜粋し、どのように読者に提示するかという流れの中には、サバネーエフの個人的感情が大いに詰まっています。

上で取り上げた賃貸契約とスクリャービンの死の不思議な一致についてのエピソードについて、サバネーエフがそのエピソードについてどのような態度・感情を持っていたかは「彼の態度や『回想』が成立した経緯や行間を読み取るしかない」と書きました。『回想』には、このような箇所があまりにも多く、それが本書の読解を難しくし、サバネーエフの意図から逸れたものにする原因になっています。リンカーン・バラードは2017年の論集で、『回想』やその他のサバネーエフの筆致で、スクリャービンの「狂気」のイメージが補強されてしまっている、と書いています(Ballard 2017: 118)。これは奇妙なことです。というのも、前回概略したように、サバネーエフの目的の一つが「スクリャービンの創作から神秘主義的思想や神智学的解釈をなるべく排する」ことだったはずだからです。これもまた、筆者の文脈をぼやかした微妙な書きぶりにあると思われます。

さらには、スクリャービンの創作と神秘主義思想や神智学的解釈が関係ないと描くために、スクリャービンの言動や思想の荒唐無稽さを誇張しながら神秘主義思想を描いたこと――おそらくここに、サバネーエフの態度のもう一つの欠点があります。『回想』でありのままに引用したスクリャービンの発言の一部だけが利用されることで、「実証主義者」サバネーエフの意図とは逆のことが起きてしまったわけです。彼はスクリャービンの「神秘」にまつわるエピソードをあまりに大量に書きすぎたようです。それらの記述から、「なるほど、スクリャービンは多分に狂気を孕んだおかしな人間なのだ」、と思われても仕方のないほどに。

『回想』の評価

前著『スクリャービン』でも、サバネーエフの書きぶりは音楽家たちの間で論争を巻き起こしましたが、本書も同様に、内容に同意しない人々の間からの反発を生みました。例えばタチヤーナ・スクリャービナ(シリョーツェル)は、元々の姿を認識できないほどに歪められたスクリャービン像に激怒したといいます(Ключникова 2010)。とはいえ、スクリャービン像のことを差し引いたとしても、タチヤーナの怒りはもっともです。おそらくさしたる同意もないままに、彼女の内面や行動がサバネーエフによって「実証主義的に」解釈されたわけですから。

1925年という微妙な時期の出版も、本書の微妙な評価に寄与しました。サバネーエフが音楽批評家として十月革命以後に出版した書籍の姿勢は、一見マルクス主義的に見えるが、その実著者がマルクス主義を曲解した「偽り」だと、当時のソヴィエトで盛んに主張されたのです。この姿勢はサバネーエフ本を取り上げたソ連下のスクリャービン伝にもそのまま引き継がれています。(例えばゲンリフ・ネイガウスは「サバネーエフやシリョーツェルのような神秘主義者、反啓蒙主義者たちがスクリャービンに非常に悪い影響を与えた」(Бэлза 1983: 161)と言い放っています。)

概してサバネーエフの本は、ソ連ではその存在が認められつつも、「スクリャービンのイメージを損なった」として非難され、また欧米では(前回、バワーズの本に関して指摘したように)、スクリャービンの「神秘性」の貴重な参照源として、その記述はありのままに受け止められたと言えるでしょう。そしてこのような姿勢は二つとも、皮肉なことに、「客観的」「神秘主義と創作の分別」という著者の意図とは真逆なものになっています。※1

筆者がサバネーエフの著作を扱う際にどのような態度を取るか、という態度を最後に述べておきましょう。個人的にはサバネーエフの業績や分厚い記述は評価しつつも、やはりその『回想』はあくまで個人的な回想であって、そのままそれを事実として受け止めてはいけないように思われます。

今回述べたこと以外にも留意しなければならないのは、(改めて当たり前のことを言いますが)サバネーエフの『回想』は、いかにそれが客観的に書こうと苦慮されたものだとはいえ、あくまで「サバネーエフの目から見たスクリャービンの最後の5年間の回想録」以上のものではない、ということです。自身の「実証主義的」スクリャービン観や、戯画的にスクリャービン主義者を自著の中で提示することでサバネーエフは、いみじくも彼自身が指摘していた同時代の「スクリャービンを虚飾して描こうと考え、彼が有していなかった様々な特徴をいくつも彼に当てはめてしまっている」人々と同じような袋小路に陥ってしまっているのです。そしてその袋小路は、種々の記述に孫引きされることで、後世の人々を大いに迷わせるものでもあったのです。

参考文献
  • Ballard, Lincoln, Matthew Bengtson. 2017. The Scriabin Companion: History, Performance, and Lore. Lanham, MD: Rowman and Littlefield Publishers.
  • Бэлза, Игорь Федорович. 1983. Александр Николаевич Скрябин. М.: Музыка.
  • Диспут. 1926. "Диспут о концертной практике и концертной политике. 25-го марта в мал. зале консерватории." Музыка и Октябрь. No. 3: 13–14.
  • Ключникова, Екатерина Владимировна. 2010. "Рецепции творчества А. Н. Скрябина после 1917 года." Обсерватория культуры. No. 4.
  • Сабанеев, Леонид Леонидович. 2022. Воспоминания о Скрябине. М.: Классика-XXI [サバネーエフ、レオニード 2014『スクリャービン:晩年に明かされた創作秘話』東京:音楽之友社]
注釈
  • 『回想』の邦訳には「スクリャービン的神智学が決して過激な狂信[カルト]ではなくて、過去の科学、哲学、宗教すべてを統合した思索だったと言ってもおかしくありません」(サバネーエフ 2014: viii)とありますが、この主張もスクリャービンの受容史やサバネーエフの意図を加味したうえで捉え直されなければならないと感じます。