8.「スクリャービンの伝記」という神秘:1. 初期の伝記⑥(まとめ)
これまで、スクリャービンの死後2年間に出版されたスクリャービンの評伝を見てきました。雑誌『音楽的同時代人』の特集号や、その他雑誌に掲載されたものなど、小規模な回想録や論考はたどることは出来ませんでした※1が、当時の人々の反応はある程度辿れたのではないかと思います。今回はそのまとめとして、これまでに参照したスクリャービン伝で見た語りの特徴、そして今日の我々がそれを改めてどのように理解すればいいのかを総括してみたいと思います。
そもそもとしてまず確認しておきたいのは、1915年に死んだ人物に関する本が1916年までにすでに数冊発表されていたという事実それ自体の興味深さです。この事実からは、スクリャービンの死没直後からすでに、彼の生涯と創作にはそれを総括したいと文筆家に思わせるだけの「ヒキ」があったことがわかります。そうでもなければ、スクリャービンの生涯・創作・思想といった広い範囲をカヴァーするその種の本が何冊も書かれ、続々と出版されるようなことはなかったでしょう。
そのような文章は、死の直後ということもあり、ときに悲劇的な色彩を纏うこともありました。友人たちと盛んに議論を交わしていた《ミステリヤ》という未完の大プロジェクトと、作品番号76以降の来たるべき新作の期待感の中でスクリャービンが世を去ったことも、そのトーンを強めたと言えるでしょう。指摘したとおり、この年代に出たスクリャービン本は、既に生前から準備されていたものが多く、おそらく「悲劇」という観点は出版直前に書き足されたものなのでしょう。例えばグーンストは序文でこのことに直截に言及しています。
まさしくこの点が、彼と、我々残された者にととっての偉大なる悲劇だ。(Гунст 1915: 7)
カラトゥィーギンの著作でも、「2つ目のあとがき」として書かれた結尾部分が、スクリャービンを失ったことを嘆く弔辞で閉じられていることにも注目しましょう。
このように、おそらく加筆箇所であろうと思われる部分から浮かび上がる「未完の作品を残して世を去ったことの悲劇性」は、スクリャービンと親しかった象徴主義の詩人たちによっても世に広められました。例えば小説『炎の天使』(1908)などで名高いヴァレーリイ・ブリューソフ(1873〜1924)は「スクリャービンの死に寄す」と題してソネットを書き上げています。
彼が求めてゐなかつたのは――ほんの束の間楽しませること
調べで慰め 虜にすること。
夢見てゐたのは無上のこと 神への礼賛
響きの内なる 霊魂の底知れなさを照らし出すこと。
そうして新たな鋳型へ 注がんとした。
彼が倦まず渇望したのは 生きること ただ生きること
まつたき姿で記念碑を建てるべく
けれども 定めるのは《宿命》なのだ。仕事はもはや果たされない!
熔かされた金属は虚しく冷えて
誰もそれを 誰も あるべき場所へと流し入れない……。
戦火は自前の裁きを行ひ
考へはなきがらを刈り入れるのにも慣れてしまつた 時代にあつても――
ああ この死には 心は耐えられない!
さて、上に引いた断片ではカラトゥィーギンが「天才的芸術家」と書いてスクリャービンを讃えていました。この時代の伝記作家の書きぶりからは、スクリャービンが「偉大な天才」であるというこの種の前提が共有されているように見えます。コプチャーエフは経験豊かな評論家だったということもあり、スクリャービンの残した作品について比較的冷静に分析していますが、スクリャービンが形式、和声などによる音楽表現の豊かさを有しているという点で、「個性と天賦の才が結合して持っていたという事実」(Коптяев 1916: 36)を認めています。
この「偉大なるスクリャービン」という前提は、おそらくスクリャービンの生前には彼の周りにいたスクリャービン家に足繁く通った人々や作曲家を信奉する人々だけに共有されていたものでしょう。それが、スクリャービンの死という特殊なきっかけによって、本や論文の形をとって世界に噴出したわけです。スクリャービンの偉大さの文脈は書籍以外によって以外、追悼演奏会や講演会などの盛大なイベントによっても作り出されたということには留意しなければいけませんが、スクリャービンの偉大さをある程度世間に定着させたきっかけとして、死後直後のスクリャービン伝が担った役割は、ある程度認められたのではないかと思います。
スクリャービンは今日、多大な影響を後世の作曲家に与えたのではないかと考えられています。偉大さの証明の一端でもあり、また同時に偉大さを担保する要素でもある後世への影響に対する理解の一端には、スクリャービンの偉大さ、天才さについてのイメージが彼の死後にある程度固定化されていたことも要因となっているでしょう※2。
しかし、我々が考えなければいけないのは、「偉大だ」と褒めそやすこともまたスクリャービンの実像を隠すことだった、ということです。1916年の『スクリャービン』の著者で、のちスクリャービンの「神秘」を作り出した重要なファクターとなる『スクリャービン回想』(1922)を執筆したサバネーエフは、同時代人から「スクリャービンの実像を歪めている」と大いに批難を浴びていたわけですが、彼の(乱暴な言葉を使えば)「逆張り」的な筆致は、あまりにも褒めちぎられ、人々の中で偉大な存在と化していくかつての親友についてのイメージを否定したいという思いがあったのかもしれません……と言っては穿ち過ぎでしょうか。
ともあれ、おそらくスクリャービンの「神秘」がより深みを増していくのは、ロシア革命が巻き起こって以降のことになるでしょうか。スクリャービン自身の創作と伝記作家の風説によって立ち現れたそれらの神秘はときに人々を惑わせ幻滅させ、ときに人々を熱狂させたのです。次回以降、サバネーエフの『回想』(1925)、ボリース・シリョーツェルの『スクリャービン:個人と創作に関するモノグラフィー』(1923)、そして時代は飛びますがバワーズの『スクリャービン伝』(1970, 1996)、『新しいスクリャービン:謎と答え』(1974)をそれぞれ詳覧し、スクリャービンに彼らがかぶせた「神秘」のベールについて検討していきたいと思います。
- «Агнец пламенный». А. Н. Скрябин в зеркале русской музыкальной прессе начала XX века.
- Гунст Е. 1915. А. Н. Скрябин и его творчества. М.: Юргенсон.
- Двоскина Е. М. 2011. "Дополнительная литература о А. Н. Скрябине." История русской музыки: В десяти томах. Т. 10В: 1890-1917. Хронограф. Кн. 2. / Под общ. науч. ред. Е. М. Левашева. М.: Языки славянских культур: 958–968
- Каратыгин В. Г. 1915. Скрябин. Очерк. Пг.: Издание Н. И. Бутковской.
- Коптяев, А. П. 1916. А. Н. Скрябин. Характеристика. М.: Юргенсон.
- Сабанеев Л. Л. 1916. Скрябин. М.: Скорпион.
- ちなみに、手元の資料によれば、1915〜17年のスクリャービンに関する出版物・論文はあわせて200本程度あるようです(Двоскина 2011参照)。
- スクリャービンが後世の人々に与えた影響については後に詳しく論じたいと思います。