ピティナ調査・研究

4.「スクリャービンの伝記」という神秘:1. 初期の伝記②

スクリャービン:「神秘」の向こう側へ
「スクリャービンの伝記」という神秘:1. 初期の伝記②
カラトゥィーギン『スクリャービン:概論』(1915)

今回取り上げる音楽評論家・作曲家・音楽活動家ヴャチェスラーフ・カラトゥィーギン(1875〜1925)の『スクリャービン:概論 Скрябин. Очерк』も、前回取り上げたグーンストの著作と同じように、スクリャービンが死去した1915年に出版されたものです。

表紙を開き、目次からさらにページをめくってみると、見開きいっぱいに刷られた詩が目に飛び込んできます。

『彼の死』

《天才》の肉体が死ぬのが早いほど、彼の《精神》が究極の《自由》を見出すのも早くなる。

我々の体は牢獄だ。

我々の体は棺だ。

実際のところ、我々は死ぬとき復活するのだ。

しかし「最後の日」を前に身を震わせるものもいる。

《天才》はその日を祭日のように待つものなのだ。

この世にとらわれていたスクリャービンの精神にとって 死は聖なる祭日として映っていた。

死とともに、悲劇的な矛盾にも終わりが訪れるのだった!

考えるのも恐ろしい、彼の精神をとらえていた肉体の牢獄が、いかほどのこうした矛盾を――この世のものならぬスクリャービンの《ロゴス》にとっての矛盾を――伴っていただろうかと。

彼が聴いていたのは、炎の旋風の音楽、宇宙の究極的変容の和声(ガルモニヤ)、至福の天啓の音の織物を通して光を生み出す歌!――いっぽう、伝達手段としてこの世で彼に仕え得たのは、ただ五線譜、音階【ルビ:ガンマ】の七音、オーケストラ、それもオクターヴで調律すれば偽物の五度を、五度で調律すれば偽物のオクターヴを鳴らすオーケストラだ。

神の美しさ、王の力、英雄の魅力をもつ彼の精神は、この世では、全く普通の人の見栄えのしない殻をまとって存在していた ――抑えがたい大胆さ、スクリャービン、その像(すがた)も 玉座も 玉座の脇の馬車もふさわしい 大胆さが人の形をとったもの――彼がきしむ舞台の上 我々の前に現れたのは「皆と同じ」顔で、おとなしくまとっていたのは「理知に反して 自然に逆らう」燕尾服、そして平凡なピアノ奏者としてピアノを奏したのだった。

彼には課題があった、その解決には、宇宙の課題のように、何百万年もの電光石火の作業を強いられるのだった! いっぽう彼がいたのはこの世 そこでは生涯が数十年程度で測られるのだ。

不死のものが死すべきものの枷をかけられ!

果てなきものが果てのある形で!

この世ならざるものがこの世に!

宇宙規模の小話【ルビ:アネクドート】は然るべき結末が必要だった! ――天才解放の偉大なる出来事【ルビ:アクト】は、なんでもない吹き出物と関係するのであった。

スクリャービンは死んだ。

彼にとってどんなに良いことか!

偉大なる誘惑となった彼の才のしるしの前で立たされ続ける我々の、どんなに恐ろしいことか!

我々のこの世のとらわれの身はいっそうつらいものになっていく! 生の謎はいっそう謎めいていく!

H.H.エヴレーイノフ※1

この詩の作者、ニコラーイ・エヴレーイノフ(1879~1953)は、劇作家、劇場監督、演劇理論家として知られる人物で、プロフェッショナルな詩人ではありませんでした。スクリャービンの死という現象は、そんな彼を(散文詩ではありますが)詩作に走らせたということになるでしょう。さて、エヴレーイノフの詩からもう1ページめくると、次のような絵画が目に飛び込んできます。

21人の羽の生えた人物像に囲まれて体を攀じる黒いシルエットたち。その背景で白い人物像が高らかに奏でているラッパの上空には、炎が人々をなめながら灼光を放っています。いかにも「神秘的」に見えるこの絵画《スクリャービンの思い出に》は、ニコラーイ・カルマーコフ(1873〜1955)によるものです。彼は神秘主義、あるいはオカルト的な作風で知られた独学の画家でした。実際、上の絵画からも彼の作風を知ることができるでしょう※2

エヴレーイノフとカルマーコフは、20世紀初頭の劇場で協働関係にありました。エヴレーイノフは1907年に発足した古劇場 Старинный театр の発起人として同時代の芸術家たちと盛んに協働し、カルマーコフもそのような芸術家の一人として同劇場で舞台装飾・舞台衣装を務めていました。二人は古劇場以外にも協働の場を求め、1908年にはヴェーラ・コミサルジェーフスカヤ劇場 Театр В. Ф. Комиссаржевской でオスカー・ワイルドの『サロメ』の全編上演を試みました(検閲のため、結局実現せず)。

このコミサルジェーフスカヤ劇場の『サロメ』で劇音楽を作曲したのが、何を隠そう『概論』の著者、ヴャチェスラーフ・カラトゥィーギンだったのです(Свиридовская 2019a; 2019b 参照)。このような協働やその後の交流を通して、エヴレーイノフ、カルマーコフ両者のスクリャービンへの愛を知っていたからこそ、彼は二人に自著のスクリャービン論の巻頭を飾ってほしいと依頼したのかもしれません。

音楽評論家としてのカラトゥィーギンは、ペテルブルクで『金羊毛』『アポローン』『北方雑記』等の同時代の象徴主義、アクメイズムの潮流に属した雑誌や、現代音楽をプロパガンダする『音楽的現代人』で活動していました。また、彼の活動の中で今日特によく知られているのは20世紀初頭の現代音楽の支持者としてのものでしょう。その中でも、設立・運営に携わった演奏会・評論会「現代音楽の夕べ Вечеа современной музыки」(1901〜12)は、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ミャスコフスキーが楽壇デビューを果たした場、さらにはラヴェル、ドビュッシー、シェーンベルク、レーガーらの作品がロシア初演された場として歴史に名を残していました。彼は自身の活動を通して、国内外の同時代音楽の普及に尽力した人物だったのです。もちろん彼が支持する現代音楽の中に、スクリャービンとその作品も入っていたことは言うまでもないでしょう。

(カラトゥィーギンの肖像写真。bigenc.ru/music/text/2045035より引用)

そんなカラトゥィーギンが、死したばかりのスクリャービンについてどのように書いているのかを、ざっと見てみましょう。『概論』には章立てはありませんが、全体的には総論、ロシア音楽史における位置と過去の作曲家との比較、スクリャービンの短い伝記的記述、最後にスクリャービンの作品の概観、という流れで書かれています。

まず冒頭で彼はこのように述べます。「スクリャービン……。ロシア音楽は今まで、スクリャービンの名ほど情熱と関心を引き起こした名を知らなかった」(Каратыгин 1915: 1)。ここからすでにわかるとおりに、カラトゥィーギンの筆致にみられる熱意は概して、全面的にスクリャービンを賛美することに注がれています。総論の「まばゆいばかりの明るさ、情熱、断固として表現された個性は、どんなに手厳しいスクリャービンの敵であっても否定することができない……スクリャービンはロシア音楽史のページをめくり、我が国の音楽史の新しい時代を切り開いたのである」(Каратыгин 1915: 2)という発言は、すでに本書全体の結論めいて響きを持っています。
その次に続くのは、ロシア音楽の作曲家としての先達、モーデスト・ムーソルグスキイ(1839〜1881)との比較です。私たちにとっては随分唐突に響きますが、この比較は筆者にとっては恣意的なものではありません。というのも、カラトゥィーギンにとってムーソルグスキイは、自身の創作において「新しい岸辺へ」※3向かう――という、スクリャービンと同じ目標を有していたからです。著者によれば、二人の「新しさ」への方向性は、ムーソルグスキイは「現実主義者」である一方、スクリャービンは「自己中心的な世界観を持つ理想主義者」だったという違いはありつつも、二人の同一性は「創作に真に熱中した(гореть)人間である」ことだ、といいます。「彼らの芸術的個性の太陽は、まばゆいばかりの光で照らし、生命をもたらす暖かさで、人類の芸術的感受性の高い代表者たちの魂を温めたのみならず、その昂揚がもたらすここのものではない熱によって、彼らを焼き、焦がし、襲いかかったのである」(Каратыгин 1915: 5-6)――ここでは、二人の芸術的革新性と同時に、42歳と43歳でそれぞれ世を去った、二人の短命も重ね合わせられています。

続いて、カラトゥィーギンは、ロシア音楽史の流れを語り、その中でスクリャービンがどの位置を占めるかについて語ります。民謡が主要な位置を占めていたピョートル大抵以前の第一期、作曲家で言えばグリーンカまで、ロシアで西欧音楽的な音楽が形成されつつ、民謡様式と「擬ロシア的様式」との間の妥協に落ち着いた第二期。それに続く第三期は、グリーンカの事業を継承し、音楽における国民様式をより純化・強化していったとされる、ダルゴムィーシスキイ、セローフ、それから我が国では「五人組」として知られる「新ロシア楽派」の時代です。この第三期の中で例外的な存在なのがチャイコーフスキイです。第一期の民謡から徐々に発展していったロシア音楽の歴史の流れに鑑みれば、彼はそれに「調和しない現象」なのです。ここでカラトゥィーギンはチャイコーフスキイを「凄まじい才能を持つ作曲家」だが、「甘やかでサロン的な感傷主義に陥っており、その創作は今や廃れつつある」という今日の目からすると驚くべき評価を下していつつも、歴史上極めて重要な存在だとみなしています。なぜなら、チャイコーフスキイは当時楽壇においてロシア様式になびかず、「作曲家の創作における個性」をもって活動していたからです。筆者は、この傾向をもってして、先輩作曲家と(強烈な個性を持つ)スクリャービンを結びつけています。
さて、満を持して第4期、20世紀に入ります。この時代、堂々と登った新星が、スクリャービンでした。チャイコーフスキイと同じく「非国民主義的諸傾向 денационализационные тенденции」をもつ西欧主義者で、「五人組」とあまり関係を持たなかった彼は、今や楽派が存在しないロシア音楽史を自らの手で切り拓いていく存在でした※4
このような歴史的概観の次に筆者はスクリャービンの生涯を概略※5し、その後スクリャービンの作品を成立順に並べ、その発展史を分析していきます。ここで興味深いのは、初期スクリャービンにみられるショパンの影響は、スクリャービンに特異なものではなく、当時ロシアに普遍的にみられたものであるという指摘や、中期のリストの影響はスクリャービンが持っていた「情緒(アフェクト)」への関心の高まりからくる、などという指摘でしょうか。最後期のいわゆる「神秘和音」(ここではそのようには呼ばれていません)の説明は、「全音音階の変形」であり、また倍音列から導出されたものでもある――と、わりあい理論的な主張をしています。その一方でカラトゥィーギンの後期作品に関する議論は、作曲家が晩年に魅了されていた宗教的・汎神論的神秘主義へと至っている点で興味深いものです。この段で、スクリャービンはチャイコーフスキイ的な「個人主義」から脱し、何かしらの「未来」へとつながる存在となったのです。

スクリャービンは音楽史にはおそらく、純粋に個人主義的な時代の代表者として、またそのような存在としてのみ刻まれるだろう。しかし、彼の死の直前の構想、はっきりと明らかになることが叶わなかったとは言え、自己中心主義から宗教的神秘主義への最後に疑いなく転向したことは、スクリャービンが単なる個人主義者ではなく、宗教的芸術の未来の聖職者、ある種の音楽の教会の主教として世を去ったのだということを我々に語りかけている。(Каратыгин 1915: 68)

我々は、この「未来」が訪れなかったという事実を知っています。宗教的芸術は、この本が上梓された二年後の革命によって歴史の表舞台から姿を消すことになります。なので、カラトゥィーギンのこの発想は、残念ながら現実とは結びつかなかったわけですが、ここでスクリャービンの悲劇的な死を宗教的な観点から未来に接続する態度は、それ自体非常に興味深いものです。

スクリャービンの死の直後という興味深いタイミングで発表された本書は、スクリャービンと象徴主義者とのつながりを感じさせ、スクリャービンが音楽史上どのような(肯定的な)存在であるかを固定化させる試みでもあり、さらにはスクリャービン理解に宗教的観点を積極的に投げかける一冊でもあったと言えるでしょう。

参考文献
  • Балыбина Ю. В. 2007. "Творчество Н. К. Калмакова в свете традиций петербургского символизма." Автореферат дис … кандидата искусствоведения. СПб ГАИ живописи, скульптуры и архитектуры имени И. Е. Репина РАХ. СПб.
  • Евреинов Н. Н. 2005. Оригинал о портретистах. Сост., подгот. текстов и комм. Т. С. Джуровой, А. Ю. Зубкова и В. И. Максимова. М.: Совпадение.
  • Каратыгин В. Г. 1915. Скрябин. Очерк. Пг.: Издание Н. И. Бутковской.
  • Мусоргский М. П. 1971. Письма, биографические материалы и документы. Сост. А. А. Орловой и М. С. Пекелиса. М.: Музыка.
  • Свиридовская Н. Д. 2019a. "«Казус Саломеи»: о музыке В. Г. Каратыгина к спектаклю Н. Н. Евреинова."Музыковедение. № 3: 33–43.
  • Свиридовская Н. Д. 2019b. "«Претворить жизнь в искусство!» Музыка театра Н. Евреинова 1900–1920‑х годов." Научный вестник Московской консерватории. Том. 9. Выпуск 4 (декабрь 2019): 98–127.
注釈
  • この詩の翻訳の際、「ぐらごおる」のみなさまの助言をいただきました。この場を借りて感謝申し上げます。
  • ところでこの絵画は、神秘主義を基調としていた思想家ニコラーイ・ベルジャーエフの小冊子『ロシア革命の精神』(1918)の表紙にも使われています。その本自体はスクリャービンにも、そもそも音楽にも全く関係ないように思われる本ですし、この絵画が転用(?)された経緯もよくわかりません。ただし、スクリャービンが後々革命家たちによって「音楽における革命」と褒めそやされるようになることを考えると、この出来事は全くの偶然というわけではなさそうに思われてなりません。
  • この言葉自体はムーソルグスキイが手紙で書いたものです。例えば1872年10月18日付スターソフ宛の手紙には次のような記述があります。「物質的な意味での美をそれのみで芸術的に描写することはひどく幼稚なこと――芸術の幼年期だ。人間や大衆の微妙な性質、このような未踏の地を執拗に採掘し、それを獲得することが芸術家の本分なのだ。『新しい岸辺へ』! 恐れず、嵐も浅瀬も水中の石も乗り越え、「新しい岸辺へ」!」(Мусоргский 1971: 141)
  • 「スクリャービン、ストラヴィーンスキイ、プロコーフィエフ、メートネル、スタンチーンスキイ、彼らは無政府主義者ではない。最新のロシアの作曲家たちは結局のところ、何らかの『傾向』のようなものを見出すことはできる[……]しかし、『楽派』といった言葉ではくくることができない」(Каратыгин 1915: 11-12)という記述も今考えれば興味深いものです。
  • スクリャービンの誕生日を12月29日としているなどの誤りはありますが、ペトログラードの読者に向けた基礎情報はしっかり押さえられています。