ピティナ調査・研究

2.スクリャービンについて知りたいとき

スクリャービン:「神秘」の向こう側へ
スクリャービンについて知りたいとき:伝記資料の問題点と学術的資料について

専門家でない誰かが作曲家や音楽家について知りたいとき、まずまっさきに当たる書籍は伝記なのではないかと思います。日本語で読めるスクリャービン伝は何冊かありますので、ほとんどが絶版になってしまっているとはいえ、図書館や古書店などでお手に取られて読まれた方もいらっしゃるのではないでしょうか※1。著名な作曲家のなかでも単著として読める伝記がほとんどない人々がまだいる中で、スクリャービンの状況はよほど恵まれています※2
しかし、このような伝記にこそ、スクリャービンの「神秘」の重大な問題が横たわっています。なぜなら、主として地の文の中に書かれている彼の人生のいろいろなエピソード――それらが確かな事実なのか、それとも誰かによって創造された架空のものなのかを読者の立ち位置から判断するのは非常に困難だからです。この真偽のフィルターになってくれるのは、学者にとっては一次資料や、脚注がしっかりしたある程度確からしい二次資料なわけですが、スクリャービンにこれから触れたい、という人々にとっては、そのようなものを手に入れたり読んだりすることは難しいことです。したがって、このような逸話は真偽ないまぜのままに孫引きが繰り返され、楽譜のコメンタリーやCDのライナーノーツやウィキペディアの記事などに混ぜ込まれて世の中に広まってしまうことになりました。
確かに、伝記に描かれている興味深いエピソードがスクリャービンの音楽を広めたことは間違いありません。それは、伝記のはっきりした功績です。スクリャービンを研究する者としても、彼の音楽が広まってくれる事自体は喜ばしいことです。しかし、やはり真偽不明の逸話――有り体に言ってしまえば事実誤認――が広まってしまっている現状は、伝記の大きなマイナス面です。「日本語で確からしいスクリャービン像にアクセスできる伝記資料は存在しない」、残念ながら、それが彼についての伝記記述の現状の総括となります。

図1: 『ロシアのプロピュライア』第6巻(1919)扉

1965年初版の『書簡集 Письма』(Скрябин 2019 [1965])には、友人、同僚の作曲家、妻に宛てたスクリャービンによる手紙が746通収録されており、スクリャービンの生涯をたどるための古典的資料となっています。ただし、この書簡集にも少し注意が必要です。というのも、「スクリャービン宛の手紙が収録されておらず」、おそらくソヴィエト期の音楽学研究にしばしばみられるように、「イデオロギー上の理由から省略された箇所がある」からです(Скрябин, Скрябина, Шлёцер-Скрябина 2022: 3)。この点を指摘した二人の音楽学者、ポプコーフとドゥブローヴィナは、改めてスクリャービンと最初の妻、それから彼と内縁の妻との往復書簡集『文字通りに Дословно』(2022)を編集・出版し、スクリャービンの家族のやり取りを完全な形で初めて明るみに出しました。このような点に鑑みれば、スクリャービンの一次資料研究はまだ進展中だと言えるでしょう。古典的な資料としては、ソ連期に出版されたスクリャービンの生涯をまとめた年表『スクリャービンの生涯と創作の年代記Летопись жизни и творчества А. Н. Скрябина』(Пряшникова, Томпакова 1985)もあるのですが、そちらもアップデートが待たれるところです。

図2: 『書簡集』表紙

そんな日進月歩の研究の進展の中で、論文や資料集も次々と出版されています。ニージニイ・ノヴゴロドに拠点を置くスクリャービンの権威タマーラ・レーヴァヤによる『スクリャービンと20世紀の芸術における探求 Скрябин и художественные искания XX века』(2007)、『ロシア音楽史 10В』(2011)中の「スクリャービンに関する資料」一覧、モスクワのスクリャービン博物館から2022年現在第10号まで出版されている『研究紀要 Ученые записки』、リンカーン・バラードらによって示された新機軸『スクリャービン・コンパニオン The Alexander Scriabin Companion』(2017)、そして直近に出版された『スクリャービンを脱神秘化するDemystifying Scriabin』(2022)が、その主要な例として挙げられるでしょう。

図3: 『スクリャービンを脱神話化する』表紙

スクリャービン作品を理論的に楽曲分析した研究も多く存在し、それらのなかにも重要な資料があります。ただし、このあたりの研究史やその内容については、専門的になりすぎるきらいがあるので、後にスクリャービンがどのように受容されたのか、それから彼の創作そのものを語る際に取り上げようと思います。

最後に楽譜について。日本でおそらく最も手に入れやすい楽譜に、岡田敦子・伊達純編集による7巻本の『スクリャービン全集』(1986〜2015年、春秋社)があります。収録されているのはピアノ曲だけですが、スクリャービン作品に触れてみたい方に是非おすすめしたい楽譜集です。より深堀りしたい方には、最新の研究を取り入れた楽譜集を参照してみることをおすすめします。モスクワの「ユルゲンソーン」と「ムズィカ」社の合同で出版されている12巻本の『作品集』は、おそらくスクリャービンの収録しうる全作品(ピアノ作品、ピアノ協奏曲、管弦楽曲、未出版・未完の作品)が収録されており、校訂報告もしっかりとしています。この『作品集』が、スクリャービンの楽譜としては現状決定版と言えるものです。ロシアの出版社からどのように手に入れるかという問題はあります※3が、ぜひ参照していただきたい楽譜集です。

図3: 『スクリャービンを脱神話化する』表紙

さて、今回の冒頭では、スクリャービンの伝記類について概説的にその問題点について指摘しました。しかし、彼についてこれまでどのようなことが書かれていたのか、それが彼に対する理解にどのように寄与してきたのか(あるいは正確な理解を損なってきたのか)、それについての具体的な事情は、あえて語らないままにしておきました。この点については、次回以降に触れていきたいと思います。スクリャービンの没後すぐに出たものから近年のものまで、彼に関する伝記にはどのようなものがあるのか、主要なものを取り上げた上で、具体的な内容とその面白さ、問題点について考えていきます。

参考文献
  • Двоскина Е. М. 2011. "Дополнительная литература о А. Н. Скрябине." История русской музыки: В десяти томах. Т. 10В: 1890-1917. Хронограф. Кн. 2. / Под общ. науч. ред. Е. М. Левашева. М.: Языки славянских культур: 958–968
  • Левая Т. 2007. Скрябин и художественные искания XX века. СПб.: Композитор.
  • Скрябин А. Н. 1919. "Записи Александра Николаевича Скрябина." Русские пропилеи: Том 6. Материалы по истории русской мысли и литературы. / Сост., подготовка к печати М. Гершензон. М.: Издание М. и С. Сабашниковых.
  • Скрябин А. Н. 2019 [1965]. Письма. / Сост. и ред. А. В. Кашперова. М.: Музыка.
  • Скрябин А. Н., В. И. Скрябина, Т. Ф. Шлёцер-Скрябина. 2022. Дословно. / сост. В. Попков, О. Дубровина. М.: Музыка.
  • Прянишникова М. П., О. М. Томпакова. 1985. Летопись жизни и творчества А. Н. Скрябина. М.: Музыка.
  • Ballard, Lincoln, Matthew Bengtson. 2017. The Scriabin Companion: History, Performance, and Lore. Lanham, MD: Rowman and Littlefield Publishers.
  • Kallis, Vasilis ed. 2022. Demystifying Scriabin. Woodbridge: Boydell & Brewer.
    サバネーエフ、レオニード 2014『スクリャービン:晩年に明かされた創作秘話』東京:音楽之友社[Сабанеев, Леонид Леонидович. 2000 [1925]. Воспоминания о Скрябине. М.: Классика-XXI]。
  • バウワーズ、フォービオン 1995 『アレクサンドル・スクリャービン:生涯と作品』佐藤泰一訳、泰流社[Bowers, Faubion. 1974. The New Scriabin: Enigma and Answers. Newton Abbot: David & Charles.]。
  • 藤野幸雄 1996『モスクワの憂鬱:スクリャービンとラフマニノフ』東京:彩流社。
注釈
  • バウワーズ、フォービオン 1995 『アレクサンドル・スクリャービン:生涯と作品』佐藤泰一訳、泰流社[Bowers, Faubion. 1974. The New Scriabin: Enigma and Answers. Newton Abbot: David & Charles.];藤野幸雄 1996『モスクワの憂鬱:スクリャービンとラフマニノフ』東京:彩流社;サバネーエフ、レオニード 2014『スクリャービン:晩年に明かされた創作秘話』東京:音楽之友社[Сабанеев, Леонид Леонидович. 1925. Воспоминания о Скрябине. М.]。ただし、このなかで現在少なくとも日本Amazonで簡易に入手できるのは藤野 1996のみです。
  • 例えば、ロシア音楽で言うならば、リムスキー=コルサコフの伝記は、「自伝」が一冊出ただけで、その他もっと詳しいことを知りたいならば、英語やロシア語の書籍をたどるほかありません。
  • もちろん、アカデミア・ミュージックなどの輸入楽譜店で手に入れることは可能です。
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