ピティナ調査・研究

第14回 彫像と真珠

旅するピアニスト サン=サーンス
第14回 彫像と真珠
1.王者の演奏

第1回目に登場した、カルクブレンナーのギド・マン(手導器)によるスタマティのメソッドに関しては、器具の画像を見れば腕の脱力を意図したことがある程度想像できます。しかし、この器具はあくまでも目的達成のための手段ですから、最終的にはどのような演奏スタイル、身体全体の使い方を目指したのでしょうか。上田泰史氏によると、19世紀前半のフランスにおいては「彫像のような」身体の動きの少ない演奏スタイルを、合理的かつ効率的な方法ととらえており、また感情に身を任せるのではなく、制御された「知的な情熱」が推奨されていました※1。プルーストはサン=サーンスの演奏を「王者の演奏」と評しましたが、サン=サーンスに対するお世辞というよりも、素直に字義通りに捉えて良いと思われます。というのも、当時の宮廷や社交界でのスマートでエレガントな身のこなしが、宮殿やサロンに出入りする音楽家にも求められ、空間を演出する要素の一つであったからです。「スタイルは会話術だけではなく、ふるまい全般に関係してくる。というのも、優雅さとは何よりもまず礼儀作法の感覚が身についているかどうかにかかっているからだ。それは、あらゆる人に、各人が置かれている環境や立場に応じて、自然と自分の言葉使いや態度を一致させるよう仕向ける一種の本能なのだ※2」という考え方がありました。
この「彫像」や「感情の制御」といったキーワードはまた「高踏派」の美学と相通じるものがあり、サン=サーンスの美学は幼少のピアノ教育により、文字通り「体に染みついた」ものであったことが分かります。また、これはスタマティから受け継いだモーツァルトなどのウィーン古典派のレパートリーと結びつき、確固たるものとなりました。前述のプルーストの評論にあったように、60歳になってもそのスタイルを守り通していたことは大変興味深いです。
そしてタッチに関して、サン=サーンスは「ジュ・ペルレ」の体現者の一人でありました。「ジュ・ペルレ」とは「真珠飾りのような演奏」ということで、粒のそろった丸い真珠がコロコロとつながっていく様を表しています。ギド・マンを使ったメソッドでは、指の力だけで打鍵することで上記の表現が可能になりますが、それを実現するためにはタッチが軽くキーの浅い19世紀前半のフランス製ピアノが必要になるのは言うまでもありません。ここは言葉での説明よりも実際に演奏を見聞きして頂くのが良いかと思いますので、レミ・カンポス氏監修のパリ国立高等音楽院(CNSMDP)の公式アカウントから公開されている動画をご覧ください※3英語字幕版もあります。上田氏の研究によると「ジュ・ペルレ」という言葉自体は、当時のピアノ教本における用例は実際それほど多くないのですが、ただ、フランス文化の特質として「明晰さ」が称揚され、その象徴として「ジュ・ペルレ」というキーワードが用いられたとされています※4
前回ご紹介した、サーシャ・ギトリの撮影したサン=サーンスのピア演奏の映像が上記の動画で引用されています。この映像を見ると、背筋がまっすぐ伸び、腕も大げさには動かされず、指の力で弾いているように見え、上記の「彫像」そして「真珠」のスタイルが一目瞭然となっています。そして体がふくよかで貫禄があるため、プルーストの「王者」の形容も、さもありなんと言えるでしょう。

2.サーンス自身のピアノ演奏論

以上、考察してまいりましたが、これは果たしてサン=サーンス自身意図して行っていたものなのでしょうか。彼は多くの音楽評論を残しましたが、その中にはピアノ演奏に関するものも残っています。その中から、まずスタマティのメソッドについて触れた「子どもの頃の思い出」の抜粋を読んでみることにいたしましょう。

スタマティはカルクブレンナーの優秀な弟子で、そのメソッドの普及に尽力しましたが、そのメソッドはカルクブレンナーが発明したギド・マン(手導器)を用いたものでした。私もまたギド・マンによるトレーニングを受けました。カルクブレンナーが自身の教則本の序文で語っている、ギド・マン発明の由来の話ほど興味深いものはありません。これは鍵盤の前に固定されたバーなのですが、その上に前腕を乗せることで手以外の部分の筋肉を動かさなくても済むようにさせるものです。これは、チェンバロやタッチが軽くて楽に鳴らせる初期のピアノのために書かれた作品の演奏に取り組む若いピアノ学習者を指導するのに素晴らしいシステムです。しかし、現代の作品や現代の楽器には不十分なものとなりました。とはいえ、このように指を強くしながら手首を柔軟にすることから始めて、徐々に前腕、そして腕全体に重みをかけていくようにしなければなりません※5
3.「ピアノ練習についての助言」

また、サン=サーンスは1899年2月に「ピアノ練習についての助言」という記事を発表します。

作曲家が書いた指示を一つももらすことなく、できるだけ正確に音楽を演奏しようと練習しなければなりません。
休符の長さを正確に観察する必要があります。特に、休符が指示された時間より短くなってはいけません。この観察は、一般的なリズムの正確さや倍全音符と全音符の長さにも当てはまります。したがって、付点8分音符の後に16分音符が続く場合、二つ合わせて4分音符の長さになりますが、16分音符を短くしてでも付点8分音符を長めに取った方がよく、その逆はありません。
アルペジオでない和音を構成する異なる音は、同時に耳に聞こえるべきです。
二つの手は同時に動くべきであり、片方がもう片方を追いかけるようではいけません。というのも、このような演奏が良くあり、一つには単なる注意不足からですが、もう一つにはこのような演奏によって優雅で魅力的になると思っている人がいるからなのですが、これは大きな間違いです。このような方法ではもったいぶって、わざとらしい演奏にしかなりません。
場合によっては、バスや伴奏音型が一定のテンポを保った状態で、旋律をある程度自由に歌わせることが良いこともあり得ます。しかし、この「テンポ・ルバート」は卓越したピアニストが行うレベルの話です。このような演奏ができない場合、バスや伴奏音型をずらして旋律より前に鳴らすようにしてルバートのように錯覚させる人がいますが、これは全くもって、テンポを乱さずにその範囲内で旋律を揺らしながら遅らせるのとは別物です。[そのようなことをするぐらいなら]自然にテンポ通りに演奏した方がまだましです。
鍵盤のタッチには様々な方法があります。それは研究しなくてはなりません。注意深く自分の音に耳を傾け、非常に繊細なタッチができるように努力しなくてはなりません。このようにして楽器を歌わせるのですが、鍵盤のせいでヴァイオリンや管楽器のような表現力を持たないにもかかわらず、ピアノには見過ごすことのできない特別な魅力がいくつもあるのです。
ペダルを濫用することは聴くに堪えないものです。しかし、濫用しない限りにおいてはペダルを多めに用いても構いません。
最初はできるだけペダル無しで練習してから、ペダルを楽器のように練習しなければなりません。そうすることで、混乱をきたすことなく様々な演奏効果をペダルから引き出すことができるようになるでしょう。
手や腕の無駄な動きや体の大げさな身振りは滑稽な印象しか与えません。とはいえ、優美な表現に豊かな響きを兼ね備えさせたい場合、時には手は十分に高く上げ、しなやかに下ろす必要があります。もっとも、柔軟性は演奏に当たって常に必要不可欠なものであり、最大のエネルギーを要するパッセージを弾く時であってもそうなのです。
中には、体重を利用してさらに力をかけるために、重心を上げて座って前かがみになる人がいます。このような人は見た目が猫背になり、全くもって無駄なことです。自然な演奏姿勢を保つほうが断然良いのです。音楽を演奏する際、骨の折れる、つらい仕事に携わっているように思われることは、残念なことです。これはあらゆる美的な印象を損ない、遠ざけることですらあります※6

このように、サン=サーンス自身、大げさな身振りを敬遠したことが分かります。また、腕を上げることも音量や響きが必要な時に限っており、柔軟性を重視したことから、ジュ・ペルレの演奏を実践していたと考えられます。実際、前回ご紹介した映画『祖国の人々』を見ると、その様子を確認することができます。

映画『祖国の人々』のサン=サーンス(1915年)
映画『祖国の人々』のサン=サーンス(1915年)
4.「ショパンの作品の演奏に関して一言」
ヘンリク・シェミラツキ(1843-1902)作『ショパンの演奏会』(1887)サロンの雰囲気が良く分かります
ヘンリク・シェミラツキ(1843-1902)作『ショパンの演奏会』(1887)サロンの雰囲気が良く分かります

先ほどの「助言」において、テンポ・ルバートの話が出てまいりました。ここでピアニストの方が気になるのは、ショパンについてサン=サーンスが何か語っていないか、ということでしょう。実際、彼は「ショパンの作品の演奏に関して一言」という記事を1910年5月に残しております。

私はショパンの演奏を聴いたことがありません、そしてそのことをずっとあきらめきれません、というのも、聴こうと思えば聴けたからなのです。私のピアノの師匠であったスタマティが、もし私がこの偉大な芸術家の演奏を聴いたことが彼の耳に入ったならば、破門すると脅して邪魔をしたからなのです。もちろん、彼はショパンと比較されることを恐れていたのでした。
当時私は10歳でしたが、巷で言うような神童では決してありませんでした。私はとても聞き分けの無い生徒であり、芸術家でありました。師匠の私に対する指導の内容が、私の考えに合致しない時、というのがあまりにも頻繁に起こりました。というのも、スタマティは絶えず抑揚を付けたモルト・エスプレッシーヴォの演奏を要求したのですが、私はそのような演奏をすると見せかけて、実際には行いませんでした。私の性格からいって反抗的で、彼は私を従わせることができませんでした。レッスンでは、ぞっとするような情景が繰り広げられました。「僕は音楽的センスが全く無いんだ、僕は何もしないぞ、僕にレッスンを付けようとしたって時間の無駄だい……。」できることなら、彼は私の心をくじけさせたかったでしょうが、失敗に終わりました。とはいえ、彼の教えには良いことも、さらには素晴らしいとさえ言っていい点もありました。
当時18歳だったグランヴァル子爵夫人の演奏を初めて聴いた時、私は12歳でした。それはヴァイオリニストのキュヴィヨンの家でのマチネの音楽会のことでした。彼女は美しい自作歌曲《泉》を自身の伴奏で歌いました。私は彼女の無用な抑揚を付けない、純粋な演奏の静けさと流麗さに衝撃を受け、魅了されましたが、それは私の考え方と見事に一致していたのです。
この起伏の少ない静かなスタイルは、彼女が師事していたショパンから受け継いだものです。
またヴィアルド夫人、彼女は望むなら声楽家として得た名声と同じくらい、ピアニストとしても成功しえたほどの人物ですが、彼女のおかげで、私はショパンとその演奏についての大変貴重な情報を得ることができました。彼の演奏スタイルは、一般に想像されるものよりも、ずっと単純なものであったことを知りました。
とても長いスラーが楽節全体に掛かっている場合、これはスピアナートの演奏の指示であり、リズムが途切れることなく、抑揚を付けずに演奏することを表しており、手の完全な柔軟性を身に着けていない奏者では演奏するのが不可能なものです。
私は本当のテンポ・ルバートの秘密を知りました。これは既にモーツァルトによって推奨され、J.S.バッハの演奏においてさえ必要なものであり、ショパンの音楽には欠かすことのできないものです。
ああ、このテンポ・ルバート、この名目のもとに何と多くの誤りを犯していることか。というのも、玉石混淆のように真偽が入り混じっているからなのです。
真実のところ、伴奏はテンポを崩さず、それに対し旋律は気まぐれにたゆたいます。早くなったり遅くなったりしますが、いずれは伴奏と合います。この種の演奏は非常に難しく、完全に二つの手が独立している必要があります。このような演奏ができない場合、旋律をテンポ通りに弾いて伴奏をずらすという間違ったやり方に陥り、テンポ・ルバートをしているかのような錯覚を聴いている人だけでなく演奏者自身も覚えます。あるいは最もひどい時には、両手を交互に演奏することで間に合わせようとします。そんなことをするぐらいなら、一定のテンポで両手を同時に演奏した方が100倍ましです。しかし、それでは「芸術家らしく」ありませんね。みっともない奇妙な格好をしているのに、貴婦人のように上品な身なりをしたつもりになっているセンスのない成金趣味の娘と同じことです。
この種のルバートで一番難しいものは、嬰ハ短調の《エチュード [Op.25 No.7]》です。このエチュードは、元々チェロのために構想されたと言われているためか、旋律が左手に来ます。よって左手を自由に歌わせ、右手の伴奏は一定のリズムを刻まねばなりません。ここではいつもと逆の効果が起きます。
ショパンの演奏においては「ペダル」が非常に重要です。多くの人は、作曲家があまりに頻繁にペダルの指示を書いているのを見て、絶え間なくペダルを使わねばならないと考えがちです。しかし、これは大きな誤りです。ショパンが頻繁にペダルを指定している場合は、記号のある所だけペダルを踏み、指示の無いところでは一切使わないでほしい、ということなのです。
このように、ショパンは細心の注意を払ってペダルの指定をしたので、その指示をあえて修正した現代の出版社を非難してもしすぎることはないでしょう。例えば、《子守歌》では主和音(トニック)と属和音(ドミナント)の響きが混ざるのを避けるために、ショパンは各小節の頭にペダルの指示を書いて、2拍目で解除していますが、現代の出版社の中には、その心配は無用とみなし、二つの和音が自由に混ざり合って響いているのは、ひどい話です。
ショパンはトリルを上の音からかけなければならないと考えていたことにも、また注意しなくてはなりません。同度の前打音がある場合は、同じ音を連打する必要はありません。書かれた音からトリルを始めるというだけで、通常のように上の音からかけるのではないと示したかっただけなのです。
ショパンの作品に見いだされる一般的な性格に関しては、その鍵を見つけるのは難しいことではありません。作曲者がどのような印象を聴衆に与えたかったかにせよ、あるいは彼が遭遇した情景をどのように我々に描きたかったかにせよ、常に女性の姿があります。「女性の薫り」が全てを覆いつくし、満たしているのです。ショパンは音楽における[アルフレッド・ド・]ミュッセなのです※7

サン=サーンスはショパンに関して、評伝出版の際に序文を寄せたり※8、《バラード 第2番 Op.38》の自筆手稿譜をオークションで競り落としてパリ音楽院(コンセルヴァトワール)の図書館に寄贈したりするなど※9、敬愛する特別な作曲家、ピアニストの一人であったことが分かります※10

5.同時代人の証言

それでは、まとめの代わりに、サン=サーンスの友人として間近で演奏を聴いてきた人々、出版者のジャック・デュラン(1865-1928)とピアニストのイジドール・フィリップ(1863-1958)の回想を引用することにいたしましょう。

イジドール・フィリップ
イジドール・フィリップ
ジャック・デュランの回想
この章ではピアニストについて話しているので、ヴィルトゥオーゾとしてのサン=サーンスについて話したいと思います。それは非の打ち所がない演奏で、傷一つない真珠であり、目を見張る超絶技巧でしたが、ロマン的な解釈はしませんでした。皆さんは、彼がモーツァルトやバッハ、ラモーのチェンバロ作品を演奏するのを聴けたらよかったのに。それは他の人には真似できないものでした。私は、彼がリストの作品、特に《メフィスト・ワルツ》、そしてバラキレフの《イスラメイ》を演奏するのを聴く機会がありました。それこそ、彼の技術のおかげで、テンポは一定で崩れることがありませんでした。彼はめったにペダルを使用しませんでした。というのも、ペダルによって響きにヴェールをかけてしまうことは、凡庸な演奏家が間に合わせですることだと考えていたからなのです。彼がペダルを使う時は、ショパンとともに現代ピアノ奏法の創造者の一人であった、リストから借用した非常に特別な効果を引き出すために、意識的に使用しました※11
イジドール・フィリップの回想
こうして、サン=サーンスの[ピアノ演奏の]長所が顕著になってきました。すなわち、比類のないスタイルの純粋性、ヴィルチュオジテ(超絶技巧)と常に両輪を成す解釈の正確さ、表現の的確さ、最も困難なパッセージであっても容易く弾きこなす印象を与える柔軟性と確実性、といったものをサン=サーンスは身に着けました。
サン=サーンスは若い頃からそうでしたし、そして今でも変わりません。
彼のテクニックは古典派の偉大な伝統に由来します。確かにリストの熱心な信奉者ではありますが、サン=サーンスは彼を真似しようとはしません。彼は演奏する作品の性格に合わせて自分の演奏を修正しようと極力努めてはいますが、明晰さと正確さの原則から逸脱することは決してなく、いかなる意味においても誇張に陥ることは全くありません。彼の演奏の特色について言及せよと言われたら、真っ先に挙げられるのが、旋律線の比類のない透明性、リズム感覚、フォルテの輝かしさ、音色を際限なく変化させ抑揚付けられる技術です。そして、アーティキュレーションがシンプルなだけにいっそう、様々な音調の違いが引き立つのであり、これは腕ではなく指の訓練のたまものだ、ということを付け加えなければなりません。サン=サーンスは事実、打鍵の技術が並外れていたため、衝撃音を全く出さないようにし、現在の名演奏家の多くがないがしろにしている美しいレガートを作り出すことに長けていました。また、彼はピアノからオーケストラの響きを生み出し、時には声楽のように説得力のある調子で魅力あふれる演奏をするレベルに到達することもありました※12

「彫像」という単語こそ出てこないものの、その端正な弾きぶりは伝わってきますし、まさに「真珠」という言葉でサン=サーンスのピアノ演奏スタイルが形容されました。そして、サン=サーンスは1907年に「明晰さ」というタイトルの記事を発表することになりますが※13、「明晰さ」が彼の美学、音楽の本質であったことが、彼のピアノ演奏からも分かります。

参考文献
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  • SAINT-SAËNS, Camille, « Préface », Frédéric Chopin ; sa vie et ses œuvres 1810-1849, Paris, Mercure de France, 1921 (1913), p. 9-11.
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    (ジャン=ミシェル・ネクトゥー編『サン=サーンスとフォーレ 往復書簡集1862-1920』大谷千正他訳、東京:新評論、1993年。)
  • SAINT-SAËNS, Camille, SORET, Marie-Gabrielle (éd.), Écrits sur la musique et les musiciens 1870-1921, Paris, Vrin, 2012, 1160 p.
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  • (ミヒャエル・シュテーゲマン『大作曲家 サン=サーンス』西原稔訳、東京:音楽之友社、1999年。)
    上田泰史「フランスにおけるピアノ演奏表現と身体の理想-18世紀末から19世紀前半のピアノ教本を中心に」、『日本チェンバロ協会年報』第3号、2019年、97-119頁。
  • 上田泰史「真珠の比喩と『フランス的な』ピアノ演奏様式の成立に関する試論」、『音楽を通して世界を考える』、東京:東京藝術大学出版会、2020年、540-554頁。
注釈
  • 上田泰史「フランスにおけるピアノ演奏表現と身体の理想-18世紀末から19世紀前半のピアノ教本を中心に」、『日本チェンバロ協会年報』第3号、2019年、101-109頁。
  • Anne MARTIN-FUGIER, La vie élégante, ou la formation du Tous Paris, 1815-1848, Paris, Perrin, 2011 (1990), p. 378. (訳は筆者による。)
  • こちらの動画では、同校で音楽史の教授を務めたサン=サーンス研究の権威、故イヴ・ジェラール氏がディエップ市立博物館のサン=サーンスの部屋をバックにコメントを寄せており、大変興味深いです。
  • 上田泰史「真珠の比喩と『フランス的な』ピアノ演奏様式の成立に関する試論」、『音楽を通して世界を考える』、東京:東京藝術大学出版会、2020年、541、552頁。
  • Camille SAINT-SAËNS, École buissonnière, Paris, Pierre Lafitte, 1913, p. 6.
  • Camille SAINT-SAËNS, « Conseils pour l'étude du piano », El Museo Canario, Las Palmas, Année IV, N° 60, 7 février 1899, p. 65-67. (全文。訳は筆者による。)
  • Camille SAINT-SAËNS, Marie-Gabrielle SORET (éd.), Écrits sur la musique et les musiciens 1870-1921, Paris, Vrin, 2012, p. 667-669. (全文。訳は筆者による。)
  • Camille SAINT-SAËNS, « Préface », Frédéric Chopin ; sa vie et ses œuvres 1810-1849, Paris, Mercure de France, 1921 (1913), p. 9-11.
  • Camille SAINT-SAËNS, et Gabriel FAURÉ, Jean-Michel NECTOUX, (éd.), Correspondance (1862-1920), Paris, Publications de la Société Française de Musicologie (Éditions Klincksieck), 1994 (1973), p. 87.
  • Camille SAINT-SAËNS, « Le manuscrit de la Ballade en fa majeur de Chopin », Le Monde musical, n° 13 & 14, 15 & 30 juillet 1920, p.212-216.
    ショパンに関する「序文」とこのバラードに関する記事は、英語からの重訳で、しかも旧漢字旧仮名遣いによる表記ですが、馬場二郎訳の『音楽の十字街に立つ』で読むことができます。
  • DURAND, Jacques, Quelques souvenirs d'un éditeur de musique, (1ère série), Paris, Durand, 1924, p. 75-76. (訳は筆者による。)
  • PHILIPP, Isidore, « Saint-Saëns pianiste et compositeur pour le piano », Guide de Concert, numéro hors-série consacré à Saint-Saëns, 1922, p. 40.
  • Camille SAINT-SAËNS, « La Clarté », Le Ménéstrel, LXXIII, n° 40, 5 octobre 1907, p. 315.
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