ピティナ調査・研究

第12回 サイゴンへ(サン=サーンスと日本6)

旅するピアニスト サン=サーンス
第12回 サイゴンへ(サン=サーンスと日本6)
1.旅への誘い

元吉清蔵との出会いは、サン=サーンスの日本への憧れを直接かき立てたことは想像に難くありませんが、そんな中、彼は以前から温めていた計画を実行に移します。前回登場したルイ・ジャケからかねてより誘われていたフランス領インドシナ、現在のベトナムへの旅行です。当時フランス領のため言葉や手続きのハードルは低かったとはいえ、極東への長旅の不安を払拭し、決定の後押しをしたのが友人の存在でした。また、フランスから遠いところで仕事をしている友人を励ましたかったのかもしれません。1893年12月2日にハノイの劇場でサン=サーンスの合唱曲《ケルモールの水夫 op.71-1》が演奏されたことを知らせるプログラムを別の友人エミール・シエフェールより受け取ったサン=サーンスは、お礼に同年5月初演の新作オペラ《フリネ》の楽譜を送るようデュラン出版社に手配しており、その手紙の中で「この遠い町では気晴らしが必要だろうから」と述べています※1
1894年9月3日にはジャケより手紙を受け取りますが、その冒頭で「あなたが快復し、心ゆくまで旅行を楽しめるようになったと伺い、うれしく思います。私の思いのままに、あなたを少しお連れ申し上げたいのですが、サノワ氏と甥のド・プロ氏がホテルに到着するのを想像すると、面白くありませんか」と述べています。この手紙はジャケのフランス帰省中に投函されたものですが、驚くべきことに、便箋は梅に鶯、封筒は竹に雀の意匠で「谷川製」と印刷されているレターセットなのです※2。ベトナム製ではなく日本製のレターセットでサン=サーンスを喜ばせ、旅への憧れをかき立てようとしているところが大変興味深いです。すなわち、ベトナムまで来れば日本は目と鼻の先だよ、と暗に伝えようとしていたのかもしれません。

2.出航
サガリアン号

そうしてサン=サーンスは実際にサイゴンに向けて旅立ちます。11月30日までに南仏のトゥールーズを発ちます※3。12月21日の手紙はエジプトのアレクサンドリアで書かれていますが、それによるとトゥールーズ出発時点では熱があり、足の調子もよくなく、長旅ができるかどうか懸念がありました※4。そこでいったんスペインに立ち寄り、英気を養ってから、マルセイユから客船サガリアン(サハリン)号で極東へ旅立ちました。年が明けて1895年1月7日の手紙はスエズ運河中間地点のイスマイリアで書かれています※5。この街は運河建設の際にフェルディナン・ド・レセップス(1805-1894)によって建設され、本人も現地に住んで指揮を執ったことから、一種の高級別荘地で上流階級の人々が集いました。サン=サーンス自身も街の文化レベルの高さに感銘し※6、ピアノ独奏曲《イスマイリアの思い出 op.100》を同年書き残しています。

1月8日の手紙では一旦ポートサイドに戻ります。同行するはずだったルイ・ジャケが体調不良のため実家のリヨン近郊に留まっているのですが、すでに運賃を支払って船室が用意されているサン=サーンスは旅行を続行することを決断しました。というのもエジプト滞在中に、1877年にムッシュー・ル・プランス通り14番地に引っ越した際、同じアパルトマンに住んでいたアルマン・ルソー(1835-1896)がインドシナ総督に任命されたとの知らせを受け取ったからでした※7。ルソーはサン=サーンスの友人であり支援者であったアルベール・リボンの甥であり、サン=サーンスの引っ越しもリボンによる斡旋でした。よって、古くからの友人が赴任するとあっては、当面ジャケがいなくてもサン=サーンスも安心だったのでしょう。

1月14日の手紙はサガリアン号の船内郵便局から出されていますが、その中ではピアノを積み込む話が出てきます。遠洋航路の豪華客船ですので、それ自体は驚くほどのことでもありませんが、ピアノを積み込んだ女性が意気揚々とサン=サーンスが「知っているト短調の協奏曲」を弾いたとあり、「彼女が自分のことを少しでも知らなかったら」と書き綴っているところをみると、サン=サーンスの第2番の協奏曲を演奏したのかもしれません。13日より紅海を航行していますが、「まだトビウオを見ていない」と残念がっています※8

1月30日の手紙では、前日の29日よりマラッカ海峡を航行しているとあり、カラフルなウミヘビをみて「ウミヘビは神話上の動物ではありません。この目で見ました」と興奮気味に書いており、サン=サーンスの生物学への関心の高さが窺われます。また、フランスではカトリックの影響が強く、キリストが十字架にかけられた金曜日に魚を食べることが多いですが、これは精進料理のようなもので肉食が一般的です。それに対しサン=サーンスは魚料理を好み、この手紙の中でも「私は野菜、果物、魚、あればパン、米に卵を食べますが、他の人は無益にも肉をむさぼっており、私には有害です」とまで述べています※9

3.ベトナム滞在

サイゴンには2月13日から3月20日まで滞在します※10。2月19日にはサイゴンにいるサン=サーンス宛にフランスからの便りが届きますが、一番最初に開いたのはガレからの手紙であり、彼がサン=サーンスにとっての一番の親友であったことが分かります※11。同じ日にサン=サーンスはデュラン出版社宛てに手紙を書きます。

私が日本と北アメリカに立ち寄ることを思いついたと、あなたなら考えるでしょう。しかし今の時期、日本は寒いのです。行くとしたら4月になり、5月に太平洋を渡ったら、パリに帰ってくるのは6月になってしまいます。そうするとローマ賞の予備試験には間に合わず、《ブリュンヒルダ》の2つの場のオーケストレーションをする時間がありません。こういった理由でこの美しい夢を断念せざるを得ませんでした。時間にせかされずに、もと来た行程を戻ってくることでしょう。それにしても本当に残念です、というのもこれが日本を訪れる良い機会だったのですし、今後そんな機会があるかどうか分かりませんので※12

3月5日の手紙ではまだサイゴンに居り、「プロコンドール島の王」と冗談めかして書いていますが、ルイ・ジャケが到着したと伝えています。プロコンドール島とは現在ではコンソン島と呼ばれ、「山、原生林、サル、インコ、空飛ぶトカゲに素晴らしい花々がある」とサン=サーンスは自然あふれる島への訪問を楽しみにしていました※13。しかしその裏では、この島を含むコンダオ諸島は絶海の島々であり、刑務所のある島流しの場所であったため、手つかずの自然が残ったというのは皮肉な話です。結局サン=サーンスはルソーの到着までサイゴンに足止めされます。

コンソン島

3月20日、ルソーが到着しますが、総督なので深紅の地に青と金の龍が描かれた壮麗なジャンク船から下船します。再会を祝して庁舎で晩餐を取りますが、「本物のおとぎの国の宮殿だ」とサン=サーンスは伝えています。翌日からサン=サーンスとジャケは船をチャーターして文字通りの「自然探検」に出かけます。その詳細な記述を引用するスペースは残念ながらありませんが、「楽園」とサン=サーンスが書き記したのは、さもありなん、と思われます。例えば「この可愛い動物[=コウモリ]は我々の西洋では吸血鬼に見なされますが、果物をエサにしており、さらには人間の食用にされ、とても吸血鬼の迷信とは程遠いです」と報告するなど、童心に返ったかのような純粋なサン=サーンスの私的な側面を垣間見ることができます。そして、サン=サーンスにとっての天国が監獄の島であることに驚いています。気温は室内にいると28度でしたが、それでも当時のフランス人には慣れない暑さです。しかし、サン=サーンスは「私は水を得た魚のようです。私は熱帯地方に適応して体ができているのに、この地に生まれそこなった」とまで述べています※14

3月28日のデュラン出版社宛ての手紙には蓮の花の絵が描かれますが※15、より詳しい内容は同日のガレ宛の手紙に書かれています※16。「一週間こちらにいますが、何もしていません。飛び回るトカゲをじっと眺めては、その習性を真似していました」とか「とうとう素晴らしい蓮の花に見とれて、その類の無い香りを嗅ぎました。これはまさに神聖な花で、ブッダの玉座となるにふさわしい」と動植物の観察に余念がなく、長い尾の青黒い美しい鳥、おそらくクロエリヒタキにトッケイヤモリやイランイランなど詳細な描写が続きます。「後に、コーチシナにて、巨大な甲虫が飛んだ際には、風を通すために開け放たれた広く反響する部屋の中で力強い和音が鳴り響いていました。このような昆虫はこれらの素晴らしい国々でしか見かけないものです。ああ、熱帯地方とは何という夢幻の国、何と魅力的なことでしょうか※17」とも回想しています。

クロエリヒタキ
トッケイヤモリ
イランイラン

また、サン=サーンスはグルメでしたが、彼の食べ物の描写も非常に興味深いものがあります。「豊富な新鮮な魚に、一流の料理人、あなたは想像もできないようなバナナ、漢字で飾られたオレンジ、私も名前を知らない風変わりなフルーツ。箸を持って、様々な色彩で幻かと思うほどだが洗練された小さな陶器の茶碗の中から、香りづけられて唐辛子のきいた食べ物をつまむ、安南のディナーであなたと食卓を囲みたいものです。あなたは指をなめることでしょう」と綴っています。このベトナムでの食事は当然サン=サーンスにとって非常に印象深いものとなり、後にアメリカのニューヨークの中華街で料理を食べた際、「サイゴンで知った本当の中華料理に似ている※18」と引き合いに出すほどです。

しかし全く仕事をしなかったのではないと弁明し、「明朝こそは『必ず』《ブリュンヒルダ》のオーケストレーションに取り掛かるでしょう」とあります。このように、彼はこの地上の楽園でヴァカンスを満喫していたのかというと、必ずしもそうではなく、いつものように仕事にも追われていました。この滞在における主要な仕事が、先ほどのデュラン宛の手紙の中で言及されている歌劇《ブリュンヒルダ》の補筆作業でした※19。《ブリュンヒルダ》はエルネスト・ギローの遺作で、サン=サーンスの補筆と、ベトナム旅行による遅れを取り戻すために、ギローの弟子であったポール・デュカス(1865-1935)がオーケストレーションを手伝い完成し、《フレデゴンド》と改名して発表されました※20。台本をガレが担当しており、未完成のままお蔵入りさせるのが惜しかったのでしょう。

4月3日のガレ宛の手紙では、「この上なく心地よいこの国から、しぶしぶ離れます。ここに戻りたいという気持ちを押さえるのは難しいでしょうね※21」と述べ、プロコンドール島からサイゴンに戻りました。フランスからベトナムへ、当時一般的に難しかった世界旅行を行ったのですから、そう思うのも無理はありません。もちろん、お金の方も安くはありません、すでに先ほど取り上げた3月20日のガレ宛の手紙において、「狂気の浪費」と表現しておりますので、推して知るべし、といったところでしょう。

4.ベトナムの日本人

さて、サン=サーンスがサイゴンからフランスへ出発した翌日の4月21日、ジャケは彼に宛てて手紙を出しますが、追伸にこのような記述があります。「日本女性と彼女たちに訪ねてきてもらった楽しい出来事について話していただけませんか※22。」また1897年の手紙でも、ジャケは「[サイゴンの近くに住んでいて]街では夜はカフェに劇場、そしてもちろん、あなたが最初に滞在した際に高く評価した日本女性といった気晴らしがあります※23」と述べています。ベトナムに日本人がいたのかといえば、明治に入って開国しておりますので、ブヒクロサンの一座の日本人や元吉清蔵のように海外へ行く人々はいました。しかしこの文章の印象では、かしこまった内容ではなく、少し親密な話題です。ここで一つ考えられるのが、「からゆきさん」に会ったのではないか、という可能性です。「日本は19世紀なかばから『からゆきさん』を多く世界に送り出」し、また彼女たちは「あらかじめ承知して、長崎港などから合法に出かけていった」との研究があり、東南アジアも「からゆきさん」が多くいた地域の一つでした※24。1896年から行われたマニラの日本領事館のフィリピン在住日本人職業別人口調査でも、初期の主な職業の一つが「からゆきさん」でした※25。そして当時のベトナムにおいても「からゆきさん」の存在が知られています※26。以前にサン=サーンスが世界史の生き証人であるとの論を述べましたが、これは歴史の大事件ではないとはいえ、当時の日本の社会事情をサン=サーンスが垣間見た興味深い例と言えるでしょう。

ゴッホ『ラ・ムスメ』

ゴッホはロティの『お菊さん』を読んで「ムスメ」という言葉を知り、アルルの少女の中に日本の「ムスメ」を投影して絵を描きました※27。浮世絵等に描かれた日本女性は「ムスメ」として熱狂的な支持を受けましたが、現在で言うなら、二次元のキャラクターといったところでしょうか。そもそもサン=サーンスの《黄色い姫君》のコルネリスも二次元の恋をする若者でありましたし、サン=サーンスも同様に日本女性には憧れと興味を抱いていたことでしょう。現在のフランスにおいてジャパン・エキスポが開催され、日本の漫画、アニメが多くの人々の関心を集めていますが、浮世絵版画も大量印刷によるポップ・カルチャーであったことを考えると、歴史は繰り返すのかもしれません。

参考文献
  • BONNEROT, Jean, Camille Saint-Saëns ; Sa vie et son œuvre, Paris, Durand, 1922, 241 p.
  • BONNEROT, Jean, « Saint-Saëns Voyageur », Guide de Concert, numéro hors-série consacré à Saint-Saëns, 1922, p. 20-24.
  • CHANTAVOINE, Jean, Camille Saint-Saëns, Paris, Richard-Masse, 1947, 117 p.
  • DANDELOT, Arthur, La vie et l’œuvre de Saint-Saëns, Paris, Dandelot, 1930, 297 p.
  • GALLOIS, Jean, Camille Saint-Saëns, Sprimont, Pierre Mardaga, 2004, 382 p.
  • PASLER, Jann, « Friendship and Music in Indochina », Camille Saint-Saëns and His World, Princeton, Princeton University Press, 2012, p. 184-190.
  • SAINT-SAËNS, Camille, Au courant de la vie, Paris, Drobon-Ainé, 1916, 115 p.
  • SAINT-SAËNS, Camille, Les idées de M. Vincent d’Indy, Paris, Pierre Lafitte, 1919, 41 p.
    (カミーユ・サン=サーンス『音楽の十字街に立つ』馬場二郎訳、東京:新潮社、1925年。)
  • SERVIÈRES, Georges, Saint-Saëns, Paris, Félix Alcan, 1930, 219 p.
  • STEGEMANN, Michael, Camille Saint-Saëns, Hamburg, Rowohlt Taschenbuch, 1988, 156 p.
    (ミヒャエル・シュテーゲマン『大作曲家 サン=サーンス』西原稔訳、東京:音楽之友社、1999年。)
  • TRACOL-HUYNH, Isabelle, « Encadrer la sexualité au Viêt-Nam colonial : police des mœurs et réglementation de la prostitution (des années 1870 à la fin des années 1930) », Genèses : Ordre colonial, N° 86, Belin, 2012, p. 55-77.
  • 吉原和男(編者代表)『人の移動事典:日本からアジアへ、アジアから日本へ』、東京:丸善出版、2013年。
注釈
  • 1894年3月4日付のサン=サーンスよりデュラン出版社宛の手紙。パリ、マーラー音楽メディアテック所蔵。プログラムが同封されており、仏像、寺院、香炉、提灯など東洋風のモチーフがちりばめられたデザインとなっていますが、何故か鳥居らしきものも描かれています。
  • 1894年9月3日付のルイ・ジャケよりサン=サーンス宛の手紙。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1894年11月30日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1894年12月21日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1895年1月7日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • Camille SAINT-SAËNS, Au courant de la vie, Paris, Drobon-Ainé, 1916, p. 74.
  • 1895年1月8日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
    サン=サーンスは手紙の中では「コーチシナ(インドシナ南部)」の知事に任命されたと勘違いしています。
  • 1895年1月14日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1895年1月30日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • Jann PASLER, « Friendship and Music in Indochina », Camille Saint-Saëns and His World, Princeton, Princeton University Press, 2012, p. 184.
  • 1895年2月19日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1895年2月19日付のサン=サーンスよりデュラン出版社宛の手紙。パリ、マーラー音楽メディアテック所蔵。
  • 1895年3月5日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1895年3月20日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1895年3月28日付のサン=サーンスよりデュラン出版社宛の手紙。パリ、マーラー音楽メディアテック所蔵。
  • 1895年3月28日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • Camille SAINT-SAËNS, Les idées de M. Vincent d’Indy, Paris, Pierre Lafitte, 1919, p. 17.
  • Camille SAINT-SAËNS, Au courant de la vie, Paris, Drobon-Ainé, 1916, p. 110-111.
  • Jean BONNEROT, « Saint-Saëns Voyageur », Guide de Concert, numéro hors-série consacré à Saint-Saëns, 1922, p. 23.
  • 2017年にベトナムのサイゴン歌劇場(ホーチミン市民劇場)において復活上演され、仏越交流の象徴となったことは感慨深いです。またサン=サーンスの没後100周年を記念して、延期にはなりましたが、2022年ドルトムント歌劇場で上演されました。サン=サーンス協会会長のミヒャエル・シュテーゲマン先生はドルトムント工科大学の教授を務めています。
  • 1895年4月3日付のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1895年4月21日付のルイ・ジャケよりサン=サーンス宛の手紙。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 1897年3月1日付のルイ・ジャケよりサン=サーンス宛の手紙。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • 倉橋正直「からゆきさん」、『人の移動事典:日本からアジアへ、アジアから日本へ』、東京:丸善出版、2013年、28-29頁。
  • 早瀬晋三「東南アジアへの日本人の移動」、『人の移動事典:日本からアジアへ、アジアから日本へ』、東京:丸善出版、2013年、30頁。
  • Isabelle TRACOL-HUYNH, « Encadrer la sexualité au Viêt-Nam colonial : police des mœurs et réglementation de la prostitution (des années 1870 à la fin des années 1930) », Genèses : Ordre colonial, N° 86, Belin, 2012, p. 69-70.
  • 1888年7月29日付のゴッホより弟テオ宛の手紙。アムステルダム、ゴッホ美術館所蔵。
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