ピティナ調査・研究

第6回 レクイエム

旅するピアニスト サン=サーンス
第6回 レクイエム
1.大叔母の死
大叔母シャルロット・マソン

前回取り上げたオペラ=コミック《黄色い姫君》の初演と同じ1872年の1月18日、「二人目の母」のような存在であった大叔母、シャルロット・マソンが亡くなります※1。91歳でしたから、サン=サーンスも哀しかったとはいえ、心の準備はできていたことでしょう。問題はその後のサン=サーンス家でした。残されたサン=サーンスと母の二人きりの生活が始まります。一人息子のサン=サーンスが生まれて間もなく父親が結核で亡くなり、サン=サーンスも虚弱体質でしたから、母親の心配と愛情を一身に受け育ちました。それは過保護であり、過干渉となって現れます。子ども時代から学校に通うことなく個人教授をあてがわれ、当然のことながら、同年代の友達との交流もなく、社会から遮断されて育ちました※2

母クレマンス・コラン

過干渉に関しては、ちょうど1872年に興味深い例があります。月曜会で招待客を前に作曲したばかりの《チェロ・ソナタ 第1番 op.32》を試演した時のこと、聴衆の喝采を受け客人を見送った後、母親と二人きりになったサン=サーンスは彼女からコメントがないことに動揺します。お気に召さなかったのかと尋ねるサン=サーンスに母親は答えました。「最初の2つの楽章は良かった。しかし最終楽章に関しては、全然だめ。」この言葉に打ちひしがれたサン=サーンスは、それから一週間ソナタとその試演のことはおくびにも出しませんでした。そして十日後、サン=サーンスは恐る恐る母親に「新しいフィナーレ楽章を書いたのですが、聴いていただけますか」と切り出しました。これが現行の最終楽章です。このエピソードを伝えたシャルル=マリー・ヴィドール(1844-1937)はサン=サーンス家の雰囲気を「[家長を敬う]質朴な家庭、素朴さが重視され、嘘をつくことを知らない家庭」と回想しています※3。家父長的な文化は当時強かったでしょうし、これは何もフランスに限ったことではありません。ナディア・ブーランジェも50歳のイゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)に関して、母親を前にして彼女が座るよう勧めない限りは立っていた、と証言しています※4。とはいえ、サン=サーンスの境遇から考えて、母親の影響、もう少し踏み込んで言うと、束縛が強いものであったことは想像に難くありません。

2.初めてのオリエント

前回あれほどオリエンタリスムやジャポニスムについてお話いたしましたが、実はサン=サーンスはまだ一度も東洋の地を踏んだことがありませんでした。しかし、彼の体調は不安定でパリの冬の寒さと湿気には耐えられず、医師の勧めに従い、1873年10月に初めてアルジェリアに旅行します。サン=サーンスは頻繁に詩作を行うのですが、アレクサンドラン(12音綴)で次のように書き記したほどでした。「この地では何人も来ることはなく、敵意のある声も届かない/静寂とそれを讃える崇高な歌をかき乱す声は※5。」健康問題が大きな理由とはいえ、母親の束縛、パリでの敵対的な批評家やライヴァルの攻撃など、煩わしい人間関係を一時的にでも断ち切ることのできる遠方への旅行は精神的にもサン=サーンスを癒しました。また旅による高揚感と冒険心の刺激も影響を与えたでしょうが、さらに重要なのは太陽の光を浴びることでした。オリエンタリスム、ジャポニスムの動機に関しては、まず異国・異文化への憧れが挙げられますが、その他にも切実な生理的欲求がありました。現在では季節性情動障害、あるいは冬季うつ病と呼ばれるものですが、端的に言うと日照時間が少なくなることにより気分が落ち込むのです。「パリの冬は灰色の毎日、陰鬱な灰色で、際限がなく、絶望的だ。[中略]そして日本の図像が描かれた挿絵本から彼[=コリオリス]に対して、夢のように美しい国の一日が、影がなく光しかない一日が出現した※6。」1867年発表のこの小説『マネット・サロモン』の作者であるゴンクール兄弟も日本美術収集家として有名ですが、光を求めて東洋、特に光あふれる国日本に憧れる、というのはサン=サーンスを含めて当時のジャポニザンの共通項であったと考えられます※7

サムソンの髪を切り落とすダリラ(デュラン版楽譜の口絵)

こうして気力体力共に回復すると、当然作曲意欲が湧いてきます。この旅行で書かれたのは、オペラ《サムソンとダリラ op.47》の第3幕のスケッチでした※8。舞台はイスラエルですから厳密には違うとはいえ、実際に中近東に滞在し、町の喧騒や現地の音楽を生で聞くことは大きな刺激となったことでしょう。第3幕には有名なバレエの場面〈バッカナール〉が含まれますので、創作のヒントになった可能性もあります。

3.サン=サーンスの結婚
1875年頃のサン=サーンス

1875年、サン=サーンスは結婚します。唐突に書きましたが、彼の人生において本当に突然訪れます。ちなみに、没後100年たった現在でも、サン=サーンスに関して基本的文献となる伝記は、彼の秘書を務めたジャン・ボヌロ(1882-1964)によるものです。初版はサン=サーンスの存命中の1914年に出版され、没後1922年に増補改訂されました。実はこの初版にはサン=サーンスの結婚の記述がなく、増補版にわずか6行書き足されただけなのです※9。つまり、晩年のサン=サーンスにとっては「思い出したくない話」なのでした。
そもそも、母親たちの束縛が強かったため、サン=サーンスに関して女性関係の噂が少ないのです。サン=サーンスが熱を上げた女性として知られる一人は、作曲家のオーギュスタ・オルメス(1847-1903)でした。ジャポニスムに関連して、サン=サーンスがオルメスの前でリボンの美術収集品を称賛して、一緒に見に行こうと気を引いていることが窺える手紙も残っています※10。しかし、この恋は実りませんでした。とはいえ、サン=サーンスの私生活と個人的な感情に関する痕跡はほとんど残っていません。一つは、サン=サーンスが神童としてもてはやされた時代から母親に他人のお世辞に気を付けるよう躾けられ※11、先述のような子ども時代の対人コミュニケーションの少なさから、感情の表出が苦手だったのかもしれません※12。もう一つ考えられる理由は、几帳面なボヌロがサン=サーンスの遺言執行者となり、書簡の管理を任されたので※13、あまりに私的な内容の手紙を破棄した可能性があるということです※14
とにかく1875年2月3日結婚するのですが、相手は友人ジャン・トリュフォの妹、マリー=ロール・トリュフォでした。しかも、結婚式は新婦の父親の地元の町、フランス北部のカトーにて執り行われました。なぜパリではないのでしょうか。さらに1月24日には交響詩《死の舞踏 op.40》の初演、2月7日にはその再演があり※15、新婚旅行に行く時間もありませんでした※16。このように、結婚に至る経緯も不明な点が多く不可解なものでありましたから、サン=サーンス夫婦の結婚生活に関する話もほとんど伝わっていません。母親から自立するための結婚かと思いきや、結局は同居をしていました。またサン=サーンス夫人は芸術音楽に興味を示さず、不仲の原因の一つであったとも言われています※17

4.息子の誕生

はたから見るとサン=サーンス家はいびつな家庭生活を送っていましたが、サン=サーンスの唯一の希望は自分の子供を授かることだったのかもしれません。1875年12月、第一子アンドレと、1877年12月には第二子ジャン=フランソワが生まれます。父親となったサン=サーンスは40代、脂がのった働き盛りで、1875年頃から1886年の《交響曲 第3番 op.78》(オルガン付き)までの約10年間が彼の創作人生における豊穣の期間となり、充実した作品を矢継ぎ早に発表します。

1875年にはカンタータ《ノアの洪水 op.45》、《ピアノ協奏曲 第4番 op.44》、《ピアノ四重奏曲 op.41》、1876年は特筆すべき作品がない代わりに、年始のロシア(モスクワ、サンクトペテルブルク)に始まり、ウィーン、ロンドンへの演奏旅行がありました。1877年にはオペラ《エティエンヌ・マルセル》の作曲を開始し、交響詩《ヘラクレスの青年時代 op.50》、《6つの練習曲(第1集)op.52》、またサン=サーンスの悲願であったオペラの初演が《銀のベル》、《サムソンとダリラ op.47》と実現します。《銀のベル》の献呈先で、前回言及したアルベール・リボンは、サン=サーンス一家がそれまで住んでいたフォーブール=サン=トノレ通りのアパルトマンの契約更新に合わせて、リボンの甥でサン=サーンスの友人であったアルマン・ルソー(1835-1896)と同じアパルトマンに引っ越すように勧め、空き部屋が出たのに合わせてムッシュ=ル=プランス通りに移りました。続いて、4月にはマドレーヌ教会のオルガニストの職を辞します。先述の通り、外国を含む演奏旅行が立て込むようになり、フォーレに代役を頼むことが多く、サン=サーンス自身は大きな礼拝の時にしかコンソールに向かわなくなっていたのです。お勤めから解放されたサン=サーンスは、ゆっくりできるどころかスケジュールが詰まって忙しく、リヨンから南仏へ、そしてスイスからベルギーのアントウェルペンへと旅を続け、5月末にはロンドンへ渡ります。この間、5月20日にリボンが亡くなりました※18

5.レクイエム
レクイエムの楽譜表紙(部分)

リボンがサン=サーンスに遺言で財産の遺贈の代わりにレクイエムの作曲を依頼したことは前回お話しした通りですが、10万フランもの大金でした。遺言によると、「マドレーヌ教会でのオルガニストの義務から解放し、作曲活動に専念できるようにするため※19」とあります。リボンは12歳年上の先輩でしたが、友人であると同時に芸術家にとっての支援者でもありました。そしてレクイエム作曲の義務は撤回されたものの、律義に約束を守ったことも前回ご紹介いたしました。このレクイエムはオーケストレーションが特徴的で、木管楽器ではクラリネットが使用されず、ダブルリード属がサウンドの主体となるのは、オーボエ系の哀切な音色により聴衆の心に訴えかけようという意図が考えられます。金管楽器は原則ホルンのみで、〈奇しきラッパの響き〉としてトロンボーンが特別に登場し、その存在が際立ちます。トロンボーンが使用されるのは、モーツァルトの《レクイエム K.626》に倣い、また教会で使用されてきた神聖な楽器という歴史的な経緯があるからでしょう。ハープが4台必要とされ甘美なアルペジオを奏でるのは、後年のフォーレの《レクイエム op.48》にも見られる、19世紀フランス音楽における宗教的キッチュの傾向が認められます※20。宗教音楽なのに敬虔というよりむしろ甘美で、ともすれば官能的でさえあるというのは、現在の保守的なサン=サーンスのイメージとは異なるものでしょう。それではサン=サーンスの信仰心とはどれほどのものであったのでしょうか。これはもちろん非常に個人的な内面の問題であり、また当時のフランス社会ではカトリックの影響力が大きく、サン=サーンス自身もオルガニストとして教会から禄を食んでいた立場上、はっきりと本人から公的に表明されたことはありませんが、前回までに述べた東洋文化への関心や、天文学等で培われた科学的合理精神、さらに彼の哲学的な著作におけるキリスト教国家による戦争への悲観的な筆致※21から類推するに、無神論者とは言わないまでも、懐疑論者であったとは言えるでしょう。
リボンの一周忌に約束通り《レクイエム》を作曲して初演した、というエピソードだけでは美談で終わるのですが、この後、衝撃の事件がサン=サーンスを襲います。1878年5月21日の《レクイエム》初演の一週間後、28日に長男アンドレが自宅の窓から転落死したのです。さらに7月7日、次男ジャン=フランソワが肺炎で亡くなってしまいました。自分の息子達のためのレクイエムを前もって準備したかのような展開となり、これを人生の皮肉と言わずして何と言えましょうか。あまりにも深い悲しみにサン=サーンスは自分の殻に閉じこもってしまったかのようです。つまり、彼の心の内を吐露し、反映した音楽作品が全く見当たらないのです。サン=サーンスは決して冷徹な人間ではなかったと筆者は考えますが、先述したように感情の表出が苦手で、内向的な部分が他人には理解してもらえず、近寄りがたくしていたのかもしれません。

参考文献
  • AGUÉTANT, Pierre, Saint-Saëns par lui-même, Paris, Alsatia, 1938, 183 p.
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  • BONNEROT, Jean, Camille Saint-Saëns ; Sa vie et son œuvre, Paris, Durand, 1922, 241 p.
  • CHANTAVOINE, Jean, Camille Saint-Saëns, Paris, Richard-Masse, 1947, 117 p.
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  • GALLOIS, Jean, Camille Saint-Saëns, Sprimont, Pierre Mardaga, 2004, 382 p.
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    (ブルノー・モンサンジャン『ナディア・ブーランジェとの対話』佐藤祐子訳、東京:音楽之友社、1992年。)
  • RATNER, Sabina Teller, Camille Saint-Saëns (1835-1921) / a thematic catalogue of his complete works, vol. 1, New York, Oxford University Press, 2002, 628 p.
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  • SERVIÈRES, Georges, Saint-Saëns, Paris, Félix Alcan, 1930, 219 p.
  • STEGEMANN, Michael, Camille Saint-Saëns, Hamburg, Rowohlt Taschenbuch, 1988, 156 p.
    (ミヒャエル・シュテーゲマン『大作曲家 サン=サーンス』西原稔訳、東京:音楽之友社、1999年。)
  • WIDOR, Charles-Marie, « Saint-Saëns », Le Gaulois, 56e année, 3e série, N° 16151, 23 décembre 1921, p. 1.
  • 馬渕明子『ジャポニスム―幻想の日本』、東京:ブリュッケ、1997年。
注釈
  • Michael STEGEMANN, Camille Saint-Saëns, Hamburg, Rowohlt Taschenbuch, 1988, p. 36.
  • Lucien AUGÉ DE LASSUS, Saint-Saëns, Paris, Librairie Ch. Delagrave, 1914, p. 36-37.
  • Charles-Marie WIDOR, « Saint-Saëns », Le Gaulois, 56e année, 3e série, N° 16151, 23 décembre 1921, p. 1.
  • Bruno MONSAINGEON, Mademoiselle : Entretiens avec Nadia Boulanger, Luynes, Éditions Van de Velde, 1981, p. 86.
  • Jean BONNEROT, Camille Saint-Saëns ; Sa vie et son œuvre, Paris, Durand, 1922, p. 70.
  • Edmond et Jules de GONCOURT, Manette Salomon, Paris, G. Charpentier, 1889 (1867), p. 171-172.
  • 馬渕明子『ジャポニスム―幻想の日本』、東京:ブリュッケ、1997年、156頁。
    フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)もその一人でした。
  • Jean BONNEROT, op cit., p. 70.
  • Ibid., p. 73.
  • 1872年10月12日付のリボンよりサン=サーンス宛の手紙。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
  • Pierre AGUÉTANT, Saint-Saëns par lui-même, Paris, Alsatia, 1938, p. 61.
  • Ibid., p. 100.
    同書によれば「感受性がどんどん枯渇した」という証言もあります。
  • Jean BONNEROT, op cit., p. 221.
  • Jean GALLOIS, Camille Saint-Saëns, Sprimont, Pierre Mardaga, 2004, p. 321.
    サン=サーンスの同性愛に関する噂が存在するのは確かですが、実証主義の立場から言えば、同書でガロワの言う通り、「公的な証拠は何もない」のです。アンドレ・ジッド(1869-1951)が『一粒の麦もし死なずば』(1926)において告白したように、アルジェリア等の当時フランス支配の北アフリカ地域が、フランス本土での宗教的・伝統的な道徳観に抑圧された性の解放の場所であったことは事実で、サン=サーンスが後年頻繁にこの地域を訪れたことも事実ですが、それ以上の証拠は残っていません。妻と別居後、身の回りの世話をするためにガブリエル・ジェスラン(没1917)が15年間使用人として雇われていたことは、マルセル・プルーストの秘書を務めたアルフレッド・アゴスチネリを想起させますが、決定的な書簡等がない限り、やはり二人の関係は想像の域を出ません。現在セクシュアリティのありようは0か1かのデジタルなものではなく、グラデーションであるという認識が深まってきており、第三者が状況証拠だけで線引きできるものではないので、ゴシップとしては興味を惹かれる話題ですが、本人に直接尋ねることができない以上、研究者としては「分かりません」と申し上げる他ありません。
  • Sabina Teller RATNER, Camille Saint-Saëns (1835-1921) / a thematic catalogue of his complete works, vol. 1, New York, Oxford University Press, 2002, p. 294.
  • Michael STEGEMANN, op cit., p. 38.
  • Arthur DANDELOT, La vie et l’œuvre de Saint-Saëns, Paris, Dandelot, 1930, p. 86.
  • Jean BONNEROT, op cit., p. 86-87.
  • フランス国立公文書館所蔵(MC/ET/CXVII/1383)のリボンの遺言書。
  • Michael STEGEMANN, op cit., p. 91-92.
  • Camille SAINT-SAËNS, Divagations sérieuses, Paris, Ernest Flammarion, 1922, p. 52.

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