ピティナ調査・研究

第3回 成功と挫折

旅するピアニスト サン=サーンス
第3回 成功と挫折
1.おもてなし

マドレーヌ教会のオルガニストに就任したサン=サーンスは、その即興演奏で評判を呼び、多くの偉大な音楽家たちが挨拶に訪れたと前回お伝えいたしました。もちろん、その場で言葉を交わして「はい、さようなら」で済ませることも可能なのですが、そこは真面目なサン=サーンス、彼は人付き合いに関してもまめでした。それが「サロン」で、毎週月曜日に開かれたので「レ・ランディ(月曜会)」と呼ばれました。それまでの家が手狭になったので、教会近くのフォーブール・サン=トノレ通り168番地のアパルトマンに引っ越したほどです。19世紀のサロンと言えば、マルセル・プルースト(1871-1922)の長編小説『失われた時を求めて』において描かれたような、華やかな社交界のサロンを思い浮かべられるでしょう。サン=サーンスのサロンもその一端ではありますが、彼は(元)貴族でもブルジョワでもありませんので大々的なものではなく、音楽家仲間と音楽愛好家の友人・客人のために開かれた親密な音楽サロンでした。このような音楽家が主催するサロンというのはサン=サーンス以前から存在し、代表的なものはパリ音楽院ピアノ科教授を務めたジョゼフ・ヅィメルマン(1785-1853)によるサロンでしょう。音楽サロンにおいてはもちろん演奏が行われるのですが、上田泰史氏が指摘しているように「演奏会というよりも、むしろ芸術同好会といった雰囲気が感じられ※1」るものでした。パリの音楽家仲間と情報交換をし、遠くからやって来た音楽家をパリの楽壇に紹介し、音楽好きの上流紳士淑女との付き合いを通して社会的なコネクションを構築することが、サン=サーンスのキャリアにおいて大変プラスになりました。というのも、時流に乗り遅れないための情報収集は重要で、サン=サーンスが外国へ演奏旅行する際には逆に便宜を図ってもらえ、芸術アカデミーの会員の選挙など政治的な場面では社交界における人脈が大きな力を持ったからです。サン=サーンスの死後「サン=サーンスは性格が悪く嫌われ者」といった言説が流布し、現在の彼の評価においてもなお尾を引いています。しかし本当に嫌われ者であったなら、自宅のサロンを開放しても客人が来ず、閑古鳥が鳴いたことでしょう。またある程度の人望が無ければ、後に芸術アカデミーの会員に選出され、院長まで務めることはなかったでしょう。つまり「男は敷居を跨げば七人の敵あり」という諺があるように、サン=サーンスには友人もいたでしょうが、彼のことを快く思わない人も当然いました。そしてサン=サーンスの死後は、彼の敵だった人とその支持者たちの声が大きくなったというのが真相だったと考えられます。

2.アルモニウム
ドゥバン製のアルモニウム(19世紀半ば)
サン=サーンスとフランマリオン(1921年)

 サロンにおける鍵盤楽器はもちろんピアノが代表的です。ナディア・ブーランジェ(1887-1979)の家のサロンにはパイプオルガンがありました。もちろん小型のものですが、引越しをする際には大家が怖気づいて部屋探しに難航した※2、というのはさもありなんというエピソードです。そこで、パイプオルガンの代用品、といっては少々可哀想ですが、そのような楽器が19世紀のフランスで普及しました。それがアルモニウム(ハーモニウム)で、「時代の感性を特徴付ける音色」を奏で、時代とともに廃れていった「サロンの楽器」でした※3。英語圏ではリード・オルガンと呼ばれるように、ハーモニカやアコーディオンと同じ発音原理の楽器です。よって歴史自体は古いのですが、「アルモニウム」という名が冠された楽器が登場するのが1842年、アレクサンドル=フランソワ・ドゥバン(1809-1877)により、ヴィクトル・ミュステル(1815-1890)創業のミュステル社が代表的なメーカーです※4。連載初回にサン=サーンスの日付が特定できる最初の作品を紹介し、前回作品番号2の作品が交響曲だったことをお伝えしましたが、それでは記念すべき作品番号1の作品はというと、1852年作曲のアルモニウムのための《3つの小品》でした。1858年にはアルモニウムとピアノのための《6つの二重奏曲 op.8》を作曲しています。「サロンのオーケストラ」と呼ぶにふさわしい充実した響きの作品ですが、これは先述のドゥバンがアルモニウムの普及のためにピアノとの二重奏曲を誰かに委嘱しようとしている、という話をサン=サーンスが聞きつけて実現したものです※5。このデュオにはさらにサン=サーンスらしいエピソードがあり、この曲の作曲料で彼は大きな買い物をしました。それは何と「望遠鏡」だったのです※6。サン=サーンスは天文学、哲学、考古学など自然科学から人文科学に至るまで幅広い物事に関心を寄せましたが※7、天文学に関しては後にフランス天文学会の会員となり※8、初代会長の天文学者カミーユ・フランマリオン(1842-1925)とも親しくしていました。

3.サン=サーンス「先生」
ニデルメイエール学校第3代校長ギュスターヴ・ルフェーヴルと教師・生徒たち(サン=サーンスは退職しているが、フォーレ、メサジェ、ジグの姿が見える)

すでに名前が挙がっているニデルメイエール学校(古典宗教音楽学校)は、1853年にスイス人作曲家ルイ・ニデルメイエール(1802-1861)によって1853年に創立された学校です※9。1861年、当時マドレーヌ教会の楽長を務めていたルイ・ディーチ(1808‐1865)が、ニデルメイエールの死に伴い学校の校長を引き継ぎましたが※10、ニデルメイエールが教えていたピアノのクラスを引き継ぐ教師として、同じマドレーヌ教会のオルガニストであったサン=サーンスに声がかかりました。これがサン=サーンスの人生における最初で最後の「教職」になります。期間は1865年までの短い間で、おそらくディーチの死により義理立てする必要が無くなったこと、同年の初めての外国への演奏旅行など、演奏活動に専念するためだったと思われます。

フォーレによるサン=サーンスの似顔絵

ニデルメイエール学校での在職期間は短くとも、内容は大変濃いものでした。というのも、サン=サーンスの人生で重要な出会いがあったからです。先生と言ってもまだ25歳の青年ですから、生徒たちとそれほど年が離れているわけでもなく、友人のような関係を結びます。アンドレ・メサジェ(1853-1929)、ウジェーヌ・ジグ(1844-1925)、そして生涯の親友の一人となったのがフォーレでした。サン=サーンスは、生徒がきちんと勉強してきて機嫌が良いと、彼らを夕食に招き、天気の良い夜には例の望遠鏡で天体観測を行うなど※11、気さくな人柄がうかがえます。

4.ニデルメイエール学校のクラス

サン=サーンスのピアノのレッスンはどのようなものであったのでしょうか。ジグは「テクニックの問題を除いては、演奏の真の純粋さについて、ソノリテ(響き)の探求について、音の質について、ピアニスティックな色彩について、フレージングについて、アクセントの正確さについて、そして各巨匠の固有のスタイルについて教えてくれましたが、彼が頻繁にピアノに向かって模範演奏するのは、もうそれは夢のようでした※12」と回想しています。

ニデルメイエールは当時の現代音楽、シューマンやショパン等の音楽は若者にはふさわしくないと判断し、生徒に弾かせませんでした※13。それに対し、青年サン=サーンスは柔軟な態度で「授業時間を延長し、ピアノに向かっては、厳格な古典主義※14に則った学習指導要領から外され、そのうえ当時は限られた愛好家しかほとんど知らなかった大家の作品に[生徒の]目を開かせ」、すなわち「シューマン、リスト、ワーグナーを紹介し、[生徒に]新しい地平を開いた※15」のでした。サン=サーンスは後に反ワーグナーの立場を取りますが、1859年9月から1861年8月までリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)がパリに滞在した際は「水曜会」に出席するなど※16、頻繁に接触を取っていたのです※17。新人作曲家が自分の創作スタイルを模索する中で、最新の時代の潮流に関心を持つのは、ごく自然なことでしょう。もちろん、これら外国のロマン派の音楽を受け入れることができたのは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン等の「古典」を学習して下地ができていたからです。現在の我々の目には当たり前のように見えますが、グランド・オペラ(グラントペラ)全盛の当時のフランス楽壇において、ドイツ楽派に倣って純音楽(器楽)に興味を持つこと自体が不審がられ、サン=サーンスは異端児、革命家とみなされたのでした。

もう一つ、ニデルメイエール学校での重要なエピソードを挙げると、生徒の多くはまだ10代のいたずら盛り、サン=サーンスが彼らのために思いついた「音楽の冗談」が《動物の謝肉祭》の起源でした※18。音楽学校と行っても私立の小さな学校では予算がなく、現代の音楽大学のように防音完備の練習室にピアノが一台ずつ備えられているわけではありませんでした。なんと、長方形の大きな部屋に15台のアップライトピアノが壁に向かって一台ずつ並べられ、全台同時に様々な曲が演奏されていたのです。まさに「恐るべき騒音」で、校長先生の指示で練習が中断されても、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトの音楽が騒々しく混ざり合った「超多調的な」シンフォニーの残響がしばらく漂っていたのでした※19。この練習室の様子を活写したのが、《動物の謝肉祭》中の〈ピアニスト〉や〈らば(アジアノウマ)〉だったと考えられます※20

5.ローマ賞
後年、芸術アカデミー院長となり、ローマ賞を選考する立場となったサン=サーンスが、1909年、受験会場の視察のために駅に降り立つ様子(手を引くのはテオドール・デュボワ)

1864年5月、サン=サーンスは再びローマ賞に挑戦します。ローマ賞とは、字の如くローマ留学の褒賞付き作曲コンクールで、フランスの若手作曲家の登竜門であり、その受賞は無名の作曲家にとって楽壇へのパスポートとなるものでした。

前回の挑戦の1852年から実に12年ぶりです。その間ももちろん受けようと思えば受けられたので、何故そうしなかったのか、本人の証言が無い今となっては推測するしかありません。1853年からオルガニストとしての勤めがあり、マドレーヌ教会への転任、ニデルメイエール学校での教職等、生活が忙しくなっていったせいかもしれません。また挫折経験の少ない神童にとって失敗のショックが大きく、慎重に準備を進めていたせいかもしれません。結末を先に言うと、当時サン=サーンスは28歳で、制度上は30歳の年齢制限を満たしていましたが、慣例により25歳で足切りをされ、いかなる賞も取ることができませんでした。サン=サーンスは当時既に交響曲4曲やピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲2曲に室内楽作品も複数発表しており、作曲家としても名が知られてしまっていたのが、かえって徒となり、審査員の政治的な配慮から後輩に花を持たせる結果となってしまったのでした。モーリス・ラヴェル(1875-1937)の時にはローマ大賞を取れずにスキャンダルとなり、「ラヴェル事件」となったことは有名ですが、サン=サーンスの場合はなぜそうならなかったのでしょうか。それは、ラヴェルの場合はほぼ毎年挑戦し、年齢制限最後の年には予選すら通過せず、世間一般の評価との乖離が問題になったのに対し、サン=サーンスは初回から2回目まで10年以上の開きがあり、2回目で潔く身を引いてしまったのが原因でしょう。とはいえ、サン=サーンス自身の中ではやはりわだかまるものがあり、妻に対しても初回のことは話しても、2回目のことは決して口にすることがありませんでした※21。このコンクールでローマ大賞を受賞したのはヴィクトル・シーグ(1837-1899)でしたが、彼は結局作曲家としては作品をほとんど残さず※22、オルガニストとして一生を終えました。伸び代を期待して賞を与えたにもかかわらず、花が開かなかったことに対して、当時の審査員の判断を批判することもできるでしょうが、今更仕方ありません。審査員の一人であったエクトル・ベルリオーズ(1803-1869)は、サン=サーンスに対し投票しなかったことに葛藤したのを認めたうえで、こう述べました。「彼は何でも知っているが、『未熟さ』に欠ける※23。」作曲家としてのサン=サーンスの「アール(芸術性)とメチエ(技術面)」がすでに完成されていたことは、提出された課題作品の録音を聴いても良く分かります※24。逆にコンクールで賞を取れなかったことが、彼の創作人生における発奮材料となり、数々の名作を生み出すモチベーションとなって良かったとも言えますが、それは後世の我々から見て言えるのであって、当事者の本人にとっては辛い人生の戦いであったことでしょう。

参考文献
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注釈
  • 上田泰史『パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い』、東京:カワイ出版、2018年、119頁。
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  • Eugène GIGOUT, « Saint-Saëns à l’École Niedermeyer », Guide de Concert, numéro hors-série consacré à Saint-Saëns, 1922, p. 8.
  • Ibid., p. 7.
  • Roger VALBELLE, « Une Gloire de la France : Entretien avec M. Gabriel Fauré », Excelsior, 13e Année, N° 4.200, 12 juin 1922, p. 2.
  • ここでいう「古典」とはニデルメイエールにとっての古典ですので、モーツァルトやベートーヴェンではなく、パレストリーナやバッハの宗教音楽を指します。
  • Gabriel FAURÉ, Jean-Michel NECTOUX (éd.), « Saint-Saëns », Correspondance (1862-1920), Paris, Publications de la Société Française de Musicologie (Éditions Klincksieck), 1994, p. 142 (La Revue musicale, 1er février 1922).
  • Eurydice JOUSSE et Yve GÉRARD (éd.), Lettres de compositeurs à Camille Saint-Saëns, Lyon, Symétrie, 2009, p. 590.
  • Michael STEGEMANN, op cit., p. 29.
  • Jean BONNEROT, op cit., p. 123.
  • Henri BÜSSER, De Pelléas aux Indes Galantes …de la flûte au tambour, Paris, Librairie Arthème Fayard, 1955, p. 27.
    (訳は筆者による。)
  • 《動物の謝肉祭》の詳細に関しては、拙稿をご参照ください。
  • Yves GÉRARD, « Saint-Saëns et le prix de Rome : scandale(s) ? », Camille Saint-Saëns et le prix de Rome, Musique du prix de Rome, vol. 2, San Lorenzo de El Escorial, Glossa Music, 2010, p. 32.
  • François-Joseph FÉTIS, Biographie universelle des musiciens et Bibliographie générale de la musique, supplément et complément, Tome II, Paris, Librairie de Firmin-Didot, 1880, p. 518.
    Joël-Marie FAUQUET監修の『19世紀フランス音楽事典』には彼の項目すらありません。
  • Jean GALLOIS, Camille Saint-Saëns, Sprimont, Pierre Mardaga, 2004, p. 96.
  • Camille Saint-Saëns et le prix de Rome, Musique du prix de Rome, vol. 2, San Lorenzo de El Escorial, Glossa Music, 2010, GES922210-F.

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