第2回 コンソールへ
前回はサン=サーンスの公的デビュー・コンサートまでのお話しをしました。彼の母親は、もちろん教育ママ、ステージ・ママとして我が子を支えた訳ですが、デビューの成功後も目先のことにとらわれず、サン=サーンスの将来を見据えたうえで、さらなる教育の必要性を認識する、冷静で見識のある人物でした。そこで、それまではスタマティのプライヴェート・レッスンを受けていましたが、音楽学校に入学することになります。パリ音楽院(コンセルヴァトワール)ですが、フランス関連の音楽家の伝記ではお馴染みの、同国におけるトップの高等音楽教育機関です。しかし、サン=サーンスはピアノ科には入りませんでした。というのも、その必要がないからです。入学並びに卒業が難しいこの学校において、卒業試験(コンクール)でプルミエ・プリ(一等賞)を取ることは、無名の新人音楽家にとって楽壇へのパスポート、日本風に言うと免許皆伝に当たります。サン=サーンスは既にデビュー・コンサートで成功を収め、ピアニストとして社会から認知され、演奏の仕事もこなしておりますから、ピアノの練習は個人的に続けて、残りの時間を他の勉学のために充てることができたのです。
それでは、作曲科に入ったのかと思いきや、実は最初に入ったのはオルガン科でした。なぜ、オルガンなのでしょうか。それはフランスの社会と大きな関わりがあります。フランスは歴史的にキリスト教国で、中でもカトリックの勢力が強く、2020年1月の報告書でも47パーセントの国民がその信者※1ですが、19世紀はもっと割合が大きく、王政下はもとより、共和制下でも政教分離とは言え、伝統的に人々の生活と宗教が密接に関わっていました。つまり、大きな都市であれば地区ごとに、そして町や村ごとに少なくとも一つは教会があり、オルガンが据え付けられ、音楽家のポストがあったのです。分かりやすい例がガブリエル・フォーレ(1845-1924)で、南仏の片田舎に生まれた彼は、音楽の天分を見出されて、古典宗教音楽学校(ニデルメイエール学校)に入学しますが、この学校は名前の通り宗教音楽家、つまり教会の楽長やオルガニストの養成を目的にしていました※2。というのも、田舎でのびのび育った少年フォーレは、音楽の才能があると言っても首都パリの激しい競争社会のレヴェルには及ばず、地方でもいいから教会での職に就けば、音楽に携わりながら安定した収入が得られ生活に困らないだろう、との考えで、フォーレの父親は彼をニデルメイエール学校へ送り出したのでした※3。サン=サーンスの場合はパリ音楽院のオルガン科ですから、こちらはパリの主要教会のオルガニストを養成する機関ですが、やはり作曲の仕事の依頼が増え、生活が安定するまでの保険としてオルガニストの職に就こうとしたわけです※4。これはサン=サーンスに限ったことではなく、19世紀のオルガン科の受賞者リストを眺めると、シャルル=ヴァランタン・アルカン(1834年一等)、セザール・フランク(1841年二等)、ジョルジュ・ビゼー(1855年一等)、テオドール・デュボワ(1859年一等)、ガブリエル・ピエルネ(1882年一等)といった作曲家の名前が見出されます※5。ビゼーなどは、オルガニストとして教会のポストを得ることはありませんでしたが、やはり将来の選択肢を狭めないように、タイトルを取っておいたのでしょう。パリ音楽院出身でない作曲家=オルガニストを挙げると、シャルル=マリー・ヴィドール、フォーレなど。20世紀を代表するのはオリヴィエ・メシアン、現在活躍中の人物であればティエリー・エスケシュなど、この伝統は21世紀まで連綿と続いています※6。しかし、この伝統をもたらしたのは上述のような経済的な理由だけではなく、音楽的な理由も大きな割合を占めていました。というのも、キリスト教(カトリック)の典礼の式次第においてオルガンでの即興演奏が重視されるのですが、即興をするためには作曲に関する深い知識が必要とされるからなのです※7。例えば1896年、パリ音楽院の作曲科教授とオルガン科教授のポストが同時に空席となった時、サン=サーンスがフォーレにオルガン科の教授に立候補するようアドヴァイスしたのに対し、フォーレは「そもそも、どんなことがあっても私はオルガン科には志願しません。和声も知らないような生徒にフーガの即興を教えるなんて、引き受けることは決してないでしょう※8。」と答え、作曲科教授に立候補したところ、選出され就任しました。
前置きが長くなりましたが、1848年11月、スタマティはサン=サーンスにフランソワ・ブノワ(1794-1878)を紹介しました。彼はローマ大賞を1815年に受賞し、イタリア留学から帰国した1819年にオルガンとその即興技術を買われて王室礼拝堂のオルガニスト、パリ音楽院初代オルガン科教授に就任しています。1872年に退職するまで多くの弟子を育て、ドイツ楽派、とくにバッハの紹介に努めました※9。「ペール(パパ/父)・ブノワ」という愛称が彼の人柄と、いかに生徒から慕われていたかを物語ります。最初の授業の時、ブノワはサン=サーンスをコンソール(演奏台)に向かわせましたが、初めてのことにどぎまぎしてしまい、演奏はひどいもので、クラスの生徒たちが一斉にどっと笑ってしまいました。そこで、とりあえず聴講生としてスタートしましたが、最初の洗礼で発奮したのか、非常に勤勉な態度で、授業中は先生の一音、一語も聴き洩らさないようにし、家ではバッハの《フーガの技法 BWV1080》を熱心に研究してめきめきと上達しました。ある日、生徒の出席が少なかったので、ブノワは再びサン=サーンスに演奏させてみましたが、今度は笑うものなど誰もいませんでした※10。こうして1849年1月16日には正規生として入学が許されます。そして同年夏のコンクールでは二等賞を取りました。実は、クラス内の実力では一番だったのですが、授業を受け始めてから一年もたたず、まだ年も若いため、このまま卒業させると不都合なこともあろうかと考え、ブノワはあえてもうしばらくクラスに留めて勉学を完璧なものにさせようとしたのです。そして1851年7月28日のコンクールで見事プルミエ・プリ(一等賞)を取って卒業しました※11。
パリ音楽院は日本の学校制度と異なり、学校に入学するというより、クラスに入るため、様々なクラスを同時履修したり、順に渡り歩いたりして長期間在籍することが可能でした。そこでオルガン科を卒業すると、同年のヴァカンス明けの10月に今度はフロマンタル・アレヴィ(1799-1862)の作曲科に入学します。ところが実は、アレヴィは自分の創作活動を優先するあまり、授業を休むことが多々ありました。彼は1835年初演の歌劇《ユダヤの女》で世界的名声を得たオペラ作曲家ですが、以後はそれを上回る成功に恵まれず、焦りがあったのかもしれません。前もって休講が知らされた時は、真面目で熱心なサン=サーンスは決まって図書館へ行き、古今の音楽の楽譜を貪るように読み、自分で授業の補完を行っていたのでした※12。博覧強記のサン=サーンスのことですから、これが後の音楽活動の血や肉となるのです。モーツァルトやベートーヴェンをスタマティから、そしてバッハをブノワから伝えられたサン=サーンスは、古典音楽への愛着を図書館での自習でさらに深めていきました※13。例えば、彼のピアノのための《練習曲集》には必ずといってフーガが登場しますが、20世紀初頭のストラヴィンスキー等の新古典主義を先取りしており、擬古典主義と呼べるのではないでしょうか。そして1852年には、フランスの若手作曲家の登竜門であるローマ賞に挑みますが、残念ながら落選してしまいます。これが神童サン=サーンスにとって人生最初の大きな挫折でした。次に雪辱を期して挑戦するのが1864年ですから、相当ショックで慎重になったのでしょう。ローマ賞はフランスの作曲家にとって大変重要な意味を持ちますので、次回詳しくご紹介いたします。
1853年、サン=サーンスはサン=メリ教会のオルガニストに任命されます。やはり安定した仕事は彼に生活の余裕を与え、同年作品番号2の《交響曲 第1番》が発表されるなど、職業作曲家として本格的な活動が始まりました※14。ちょうど彼の在任中、1855年から1857年の間に、オルガンがアリスティド・カヴァイエ=コル(1811-1899)によって改修されています。カヴァイエ=コルは19世紀フランスのオルガン史を代表する楽器製作家です。彼の活動について詳しくご紹介すると長くなりますので、その業績を一言でいうならば「カヴァイエ=コルはロマンティック・オルガンを生み出し※15」たことにあります。サン=サーンスも彼を大変に評価しており、「カヴァイエ=コルこそが全てを変え、オルガンに無限の地平を切り開いた※16」と述べているほどです。1857年12月3日の改修お披露目の際には、同年5月に作曲した《幻想曲 変ホ長調》を自身で演奏しています※17。ここで経験を積んだサン=サーンスは、同年12月7日、カヴァイエ=コルの1846年製の名器が据え付けられているマドレーヌ教会のオルガニストに任命され、サン=メリ教会を辞しました。この人事はマドレーヌ教会の教区主任司祭によるヘッド・ハンティングで※18、それだけ評価されていたことが分かります。マドレーヌ教会は現在もパリの観光スポットの一つとして有名ですが、当時はパリの中でも上流階級が住む重要な教区の一つで、そのオルガニストは栄誉ある職でした。もちろん待遇もパリの教区の中では一番良く、3,000フランの報酬でした。1862年の小作農一家の一般的な年収が720フランですから※19、パリと地方の物価の差を考えても高給取りです。この先1877年まで20年間務めますが、サン=サーンスの即興演奏は非常に評判を呼び、フランス内外に彼の名を知らしめました。その結果、教会のオルガンのある2階席は、クララ・シューマン(1819-1896)、パブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)、アントン・ルビンシテイン(1829-1894)、そしてフランツ・リスト(1811-1886)等の偉大な音楽家たちが集う華やかな場となりました※20。つまり、サン=サーンスのキャリアにおいてオルガニストの職は、ただ安定した報酬を得るためだけの「お勤め」ではなく、音楽家としてコネクションを作り、世界へ飛躍するための重要なきっかけだったのです。
最後にサン=サーンスによる「オルガン」と題された記事からの引用をご紹介しましょう。彼はオルガンによる即興を「フランス楽派の勝利」とした上で、「オルガンとはインスピレーションの泉であり、オルガンを演奏するとイマジネーションが呼び覚まされ、思いもかけない楽想が無意識の奥深くから立ち現れる。これは丸々一つの世界をなし、常に新しく、同じものが再度現れることはなく、暗がりから出現するが、まるで海から出て来て、それから魅惑の島へ永遠に行ってしまうかのようである……※21。」と述べています。また、「かれこれ20年来、マドレーヌ教会のオルガンを担当し、ほとんど常に自分のファンタジーに任せて即興を行ったが、それは私の人生の中でも幸福な時間の一つであった※22。」とも。このように、オルガンはサン=サーンスの演奏活動において、ピアノと両輪をなすものでした。
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フォーレはこの新聞のインタビューで控えめに回想していますが、具体的に補足しました。 - フランスの作曲家のキャリアとして、オルガニストの他には教職、すなわち各地の音楽院の作曲、エクリチュール(和声、対位法、フーガといった作曲理論)、そしてソルフェージュの教授に就くというのが昔も今も定番でしょう。
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- 日本ではアンリエット・ピュイグ=ロジェ女史(1910-1992)の指導を受けた方、演奏を聴かれた方も多いでしょう。
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- Jean BONNEROT, Camille Saint-Saëns, Sa vie et son œuvre, Paris, Durand, 1922, p. 24.
- Camille SAINT-SAËNS, op cit., p. 42-43.
- ちなみに、作曲の師アレヴィのサン=サーンスに対する影響が指摘されることは、研究書でもほとんどありません。ただ、サン=サーンスがオペラ作曲家としての成功を夢見て作品を書き続けたところからみて、自身のキャリアの理想像としたのはアレヴィやジャコモ・マイアベーア(1791-1864)世代のグランド・オペラ(グラントペラ)の作曲家たちであったことは間違いないでしょう。
- Jean BONNEROT, op cit., p. 28.
- ノルベール・デュフルク『パイプオルガン』秋元道雄他訳、東京:白水社、1975年、75頁。
- Camille SAINT-SAËNS, op cit., p. 170-171.
- Sabina Teller RATNER, Camille Saint-Saëns (1835-1921) / a thematic catalogue of his complete works, vol. 1, New York, Oxford University Press, 2002, p. 99.
- Jean BONNEROT, op cit., p. 33.
- Emile CHEVALLIER, Les salaires au XIX e siècle, Paris, Librairie nouvelle de droit et de jurisprudence, 1887, p. 32.
- Michael STEGEMANN, Camille Saint-Saëns, Hamburg, Rowohlt Taschenbuch, 1988, p. 25.
- Camille SAINT-SAËNS, op cit., p. 174.
- Ibid., p. 175.