ピティナ調査・研究

第025回 シューマンとの出会い

ショパン物語
1.メンデルスゾーンとシューマンと会う ヴォジンスキ一家のいるドレスデンを9月26日に発ち、その日の夜にライプツィッヒに到着した。そこで自分の作品を出版してくれている出版社を訪れたり、メンデルスゾーンと再会したりしていた。その後、10月4日にメンデルスゾーンに連れられて、ヴィーク家に滞在していたシューマンと会った。
2.音楽批評家シューマン シューマンは批評家としても、以前からショパンを熱狂的に褒め称えていた。3年前、ショパンの「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ変奏曲」についても賞賛したが、その解釈は見当違いも甚だしく、ショパンは苦笑したらしい。
3.音楽批評家フリードリヒ・ヴィーク 後にシューマンの妻となるクララのお父さんのフリードリヒ・ヴィークは音楽教育者として有名で、批評家でもあり、やはりショパンの作品を論じたことがあるが、これについてもショパンは、その見当違いの解釈に呆れかえっていた。
4.クララ・ヴィーク(後のクララ・シューマン) ショパンの前でエチュードOp10の中の2曲を演奏したクララ・ヴィークだが、後にショパンは「私の音楽を弾くことのできるドイツにおける唯一の婦人」と賞賛した。
5.献呈 シューマンはショパンに「クライスレリアーナ」を、ショパンはシューマンに「バラード2番」を献呈している。ただし、ショパンは献呈された「クライスレリアーナ」はじめシューマンの音楽をそれほど評価していなかったようである。そんなショパンが「バラード2番」をシューマンに献呈したのは表面上の儀礼的なものだったらしい。
6.つきあい シューマンはフランス語ができず、ショパンはドイツ語が出来ないので、お互いきちんとしたコミュニケーションがとれていたとは考えられず、深い付き合いはなかったようである。 シューマンは熱狂的にショパンの音楽を支持したが、ショパンのほうはそれほどでもなく、しかもシューマンの「謝肉祭」を「あれは音楽ではない」と酷評していたらしい。
林 倫恵子(はやしりえこ) 漫画家・ピアノ指導。ホームページ