第6回 鐘の第一声「ブラガヴェスト」と音楽
ロシア正教会の様々な鐘の音の中で、市民が最も頻繁に耳にする機会の多い鐘の音は、大鐘(ブラガヴェストニク)でゆったりと打ち鳴らされるブラガヴェストの音でしょう。ブラガヴェストは、中・小の鐘に先行してならされるため、「鐘の第一声」の役割を果たします。信徒を教会に呼び出し、音響の響き渡る空間を聖別する役割を担う鐘の音は、8キロ先まで届いたとの記録もあります。その音を合図に信徒たちは仕事をやめて、祈りの時を分かち合うために教会に赴く————あるいは、イコンの前で祈りを開始する、というのが、古くからのロシアの日常でした。
ロシア人が最も耳にする機会の多かったこのブラガヴェストもしくはブラガヴェストニクの音は、様々な形で音楽化されています。本日は、その代表的な例として、ムソルグスキーとラフマニノフの作品を紹介いたします。
モデスト・ムソルグスキーはロシア国民楽派を代表する作曲家であり、19世紀中葉にサンクトペテルブルクを拠点として活動を行った5人組の一人です。本職は文官であり、公務員と音楽家を兼務しながら、非常に特色ある作曲活動を行いました。ムソルグスキーはロシアの民謡や文学を題材にした作品を多く書き残しました。そのような作品の特徴として、民謡調の旋律が用いられていること、鐘の音の模倣が取り入れられていることが挙げられます。
ムソルグスキーの代表的な作品は、歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》です。この歌劇はプーシキンの戯曲とカラムジンの『ロシア国史』を題材として、1868年に着手され、1874年に初演されました。ムソルグスキーの死後、1896年にリムスキー・コルサコフが編曲を行い、1906年にパリで上演されて成功を収めました。今日最も演奏される機会が多いのが、このリムスキー・コルサコフ版です。
この作品では、16世紀末から17世紀初頭のロシアを舞台に、病没した皇帝フョードル1世の後継として戴冠を受けた元摂政ボリス・ゴドゥノフの陰謀とその死が描かれています。
鐘の描写はプロローグ第2場「戴冠式」の場面で登場します(譜例 1)。場面はクレムリンの中央の広場。冒頭2小節で最低音のブラガヴェストニク(大鐘)が打楽器群、チェロ、コントラバス、チューバなど低音の楽器で表現されます。
ブラガヴェストの描写(6小節)に続き、木管楽器などによって祝祭の鐘が表現されます。ここでは軽やかな8分音符でパドズヴォヌィ、ザズヴォヌィが描写され、この音形はやがて16分音符へ変化し、そこに実際の鐘が加わります。華やかな鐘の音響が舞台全体を満たす中、民衆がボリスを讃える讃歌を歌い、聖堂からボリスが登場します。ボリスは、本来なら皇帝として即位するはずであった皇子を暗殺したことへの良心の呵責に苦しんでおり、密かにその苦しい胸中を吐露します(アリア<わが魂は悲しむ>)。その後、再び祝祭の鐘が響き、戴冠式を壮大なクライマックスへ導きます。
ムソルグスキーの歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》は、後年、リムスキー・コルサコフ、ストラヴィンスキー、コンスタンチン・チェルノフ(Konstantin Chernov, 1865 - 1937)、イーゴリ・フドレイ(Igor Khudolei, 1940 - 2001)らによってピアノ版もしくはピアノのための組曲などが書かれました。
以下は、チェルノフによるピアノ譜です。(譜例 2)
ここで描写されるブラガヴェストは、荘厳で重々しい低音を響かせながらも、pが指定されていることから、新皇帝の誕生を堂々と告げる華やかさと力強さに欠ける印象を受けます。また、繰り返される不協和音はボリスの運命を予感させるかのような、不吉な響きを伴います。このことからも、ここでのブラガヴェストは、戴冠式という至高の祝典の開始を告げるのみならず、悲劇のはじまりを宣言するという二重の意味を孕んでいると言っていいでしょう。
セルゲイ・ラフマニノフの代表作であるこの作品は1900年から1901年にかけて作曲されました。最初に2楽章と3楽章が書かれ、最後にこの1楽章が作曲されました。初演は1901年10月27日、ラフマニノフの従兄であり師でもあったアレクサンドル・ジロティの指揮、作曲者自身によるピアノによって行われました。初演は成功をおさめ、作曲家としてのラフマニノフの名を揺るがぬものとしました。
1楽章冒頭の8小節が、ロシア正教会のブラガヴェストを想起させます(譜例 3)。楽譜からも明らかなように、ムソルグスキーのブラガヴェストの音形と相通じるものがあります。
1章節目の和音を基本形として、上行下行する半音階によって音楽的な情緒が付加されます。この和音に呼応する低音のF(ファ)が、遠くに鳴り響くブラガヴェストニクの音を想起させます。9小節目からアルペジオの伴奏音形に移行しますが、この低音のFは、打ち鳴らされ続ける鐘のように、決然と繰り返されます。ラフマニノフ自身の演奏では、このFの音が非常に強調されています。
キリストの受難の最後の2日間で鳴らされるペレズヴォンの奏法では、ブラガヴェストニクが冒頭で7回打ち鳴らされることになっています(ペレズヴォンはキリストの受難と悲しみ、復活への希望を意味します)。ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》の冒頭でも、F音が7回繰り返されます。これは、恐らく偶然ではないでしょう。
これと似通った音形は、ラフマニノフの他の作品にも見られます。一例として《プレリュード》Op.3-2最後の8小節をご覧ください(譜例 4)。低く、静かに繰り返されるCis(嬰ハ)に対して、半音階的に音響を変化させる和音が呼応します。
この作品には、鐘の音を模倣するかのような旋律が全編に散りばめられています。正教会の鐘の音を聞きなれた者の耳には、それが鐘の模倣であることは、瞭然たるものであったのでしょう。
ラフマニノフの演奏会において、ロシアの音を求める多くの聴衆が、アンコールの際にこの曲を執拗に求めたとの逸話があります。鐘の音がいかにロシアという国と切り離しがたいものであったか容易に想像できます。
次回はラフマニノフ自身の鐘についての思いと、復活祭の鐘に関連する音楽についてお話しいたします。
- Emerson, C., and Oldani, R. W., Modest Musorgsky and Boris Godunov: Myths, Realities, Reconsiderations, Cambridge:
- Cambridge University Press, 1994.
- Harrison, Max. Rachmaninoff: Life, Works, Recordings, Bloomsbury Academic, 2006.
- Seroff, Victor. Rachmaninoff. New York: Simon and Schuster, 1950.
- Mussorgsky, M. Boris Godunov: Prologue, St. Petersburg: W. Bessel et Cie., 1909.
- Mussorgsky, M. Boris Godunov: Prologue, Moscow: Muzgiz, 1959.
- Rachmaninoff, S. Morceaux de fantaisie, Op.3, Moscow: A. Gutheil, n.d.[1893].