ピティナ調査・研究

第3回 ロシアへの鐘の伝来について

3. ロシアへの鐘の伝来について
1)セマントロンから鐘へ

ロシアのキリスト教史は988年、ロシアの最古の公国キエフ公国が東方教会を受け入れたことに始まります。この際、ギリシアからセマントロンが持ち込まれましたが、ほぼ同じ頃、西方教会の金属の鐘ももたらされ、キエフを中心に急速に広められました。12世紀には、ロシアの古都ノヴゴロドのおよそ230の教会で鐘が用いられたとの記録があります。鐘は信徒を晩祷などに招集する目的で使用され、やがて鐘の音は古代ロシアの都市の「生活音」となりました。ノヴゴロドの聖ソフィア寺院での聖務については、『チノヴニク』と題する儀式書にまとめられ、後世に伝えられました。そこには鐘を鳴らす時刻や奏法などについて細かに記されています。
セマントロンは15~16世紀までロシアの教会で通常用いられていましたが、次第に金属製の鐘を内側から叩いて鳴らすロシアの独自の鐘が一般化されるようになりました。セマントロンを奉神礼の開始前に一定時間打ち鳴らした後、大鐘を鳴らすという例も実際に見られます。
いずれにしても、鐘は教会に欠かせない祭具の一つとして位置づけられ、これに伴い、教会や修道院内において鐘楼の建設が盛んとなりました。至聖三者聖セルギイ大修道院(セルギエフ・ポサード)の聖神聖堂(1476年建築)は、最も古い鐘楼付きの教会です。16世紀には、モスクワのクレムリン内に、金の丸屋根がシンボリックな「イワン雷帝の鐘楼」が建設されました。

15世紀建築の聖セルギイ大修道院の聖神聖堂

キリスト教徒の生活において、祈りは欠かせません。礼拝に与ることは、日常生活の場から完全に離れ、神聖な心の内において神との対話を行うことを意味します。従って、祭儀への呼びかけを行う鐘の音は、信徒にとって聖なるものへの導きを意味し、その音響自体、神聖なものとしてとらえられます。教会の鐘の音はまた、信徒を教会に導くのみならず、教会に行くことのできない者の信仰生活にまでも影響を及ぼしました。すべての住民の生活のリズムを刻み、精神生活の支柱となるものこそ、鐘の音であったと言っていいでしょう。こうした環境において、ロシアを「聖なる地」とするイメージが形成されていきました。19世紀、ナショナリズムの高揚に伴い、教会の鐘の音は「ロシアの栄光」を暗示するシンボリックな素材として、音楽作品、文学作品等においてしばしば用いられています。

16世紀に建設されたイワン雷帝の鐘楼
モスクワ側から見たクレムリン。右手にイワン雷帝の鐘楼のクーポル(丸屋根)が見えます。

17世紀、モスクワ周辺にはおよそ4千の教会が存在しましたが、すべての教会に1セット以上の鐘がかけられたため、ロシアにおける鐘の生産高が最高値に達しました。モスクワの「イワン雷帝の鐘楼」の大鐘が周辺教会を統括し、他の教会に対して奉神礼の開始の合図を行う先導的な役割を果たしました。その音は音楽作品において、模倣されています。
ムソルグスキーの歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》のプロローグ第2場「ボリスの戴冠」の場面では、オーケストラと実際の鐘によって、祝祭の鐘が再現されます。冒頭2小節で最低音の大鐘「鐘の皇帝」が打楽器群、バス・クラリネットなどで表現され、その後、木管楽器が8分音符で中音、高音の軽やかな鐘の音を描写します。次第にこの音型は16分音符へ変化し、実際の鐘がこれに加わり華やかな祝祭の鐘が舞台を包み込みます。
ムソルグスキーは同様な手法を《展覧会の絵》の第10曲<キエフの大門>にも用いています。低音のオクターブで大鐘が壮大な音響を響かせる中で、高音域で華々しい小さな鐘の音が描写されます。1870年代に作曲されたこれらの作品は、正教会の鐘の音をリアリスティックに音楽化する先例となり、ロシアの作曲家のみならず、フランスやイギリスの作曲家にも影響を与えました。

鐘の皇帝小史
1599年、初代「鐘の皇帝」がイワン雷帝の鐘楼にかけられました。 1654年、初代の鐘が大火で損なわれたため、2代目の「鐘の皇帝」が製作されました。これも間もなく破損し、崩落しました。即座に新たな鐘が製作され、ウスペンスキー寺院(生神女就寝大聖堂)内にかけられました。この鐘もまた、1701年のモスクワの大火の際に破損。そこで、 1735年に新たな鐘が製造されました。この鐘は「鐘の皇帝」と呼ばれ、最も大きな鐘としてロシア史に記録されています。重量200トン、高さ6メートル。この鐘は大きすぎたため、鐘楼に吊り下げることができませんでした。結局、一度も鳴らされることなく、クレムリン内に置かれたままとなりました。
2)鐘の音の変化と音楽性

 17世紀は、ロシアの鐘は生産高が上昇しただけではなく、音色や音域などにも多様性が生じました。例えば、ロストフでは府主教イオーナによって17世紀末にクレムリン内に3つの大鐘が設置され、後に、大中小の13の鐘がかけられました。このように、ロシアでは大きさを異にする複数の鐘を掲げることが慣例となり、幅広い音域を有する音楽的な響きを伴う鐘の音が聞かれるようになりました。
この響きにさらに磨きがかかるのは、18世紀の北方戦争時においてです。大砲の資材を調達するため、ピョートル大帝が全教会の鐘の没収を命じ、ロシアの鐘の3分の1が失われました。古びて朽ちた鐘の多くが軍事徴用に付されたため、教会の鐘の音響が格段に向上するという結果が生じました。その後、ロシア帝国領の拡大に伴い、新しい鐘が量産され、輝かしい、澄んだ響きを伴う、音階的な鐘の音がロシアの教会のシンボルとなりました。
五人組やラフマニノフ、スクリャービンら、19世紀の作曲家が日常的に耳にしていたのは、このような音楽的な鐘の音であったと言っていいでしょう。
20世紀に帝政が崩壊すると、ソ連では教会、鐘の破壊が進められました。1935年には教会の鐘を鳴らすこと自体が禁止され、クレムリンの時計台のチャイムのみが時報として存続されました。1991年、ソヴィエト連邦崩壊後、教会や修道院が復興され、「イワン雷帝の鐘楼」の鐘がおよそ70年ぶりに鳴らされました。
ロシアの教会の鐘には、用途に応じて様々な鐘の奏法があります。次回はこの奏法についてお話しし、鐘と関連する音楽について言及していきます。


主要参考文献