はじめに/第1回 キリスト教教会の鐘の由来について
チャイコフスキーやラフマニノフ、ムソルグスキーなどロシアの作曲家の作品について、しばしば「ロシア的な音楽」「ロシアを感じさせる旋律」などの言葉で言い表されることがあります。それでは、ロシアの作曲家の作品をロシア的であると感じさせる要素とは、いかなるものでしょうか。
これについて、ラフマニノフの次の言葉がヒントを与えてくれています。
「音楽とは何でしょうか?いかに定義するのですか? 音楽とは、穏やかな月夜の晩、夏の木の葉のざわめき。音楽とは、夕暮れ時に遠くから聞こえてくる鐘の音です。音楽は心の中で生まれ、心の中でのみ訴えかけるもの———それは「愛」です。音楽の妹はポエジーであり、その母は悲しみです」※1
夕暮れ時に遠くから聞こえてくる鐘の音———ラフマニノフの言葉通り、教会の鐘の音はロシア音楽の重要な要素の一つです。ラフマニノフ自身、鐘の音を模した表現を用いた作品を多数書き残しています。中には、作曲家本人の予想を超え、聞き手に鐘の音を強く印象付けた作品も存在します。《前奏曲》Op. 3-2がその代表的な例です。《前奏曲》Op.3-2は1892年に出版された《幻想的小品集》Op.3(全5曲)の中の一曲であり、作曲された当初、サブタイトルは付されてはいませんでした。米国版が出版された際、<モスクワの鐘>とのタイトルが付され、以降、<鐘>の愛称で親しまれるようになりました。ラフマニノフが正教会の鐘をどれほど意識してこの作品を書いたかについては、諸説があります。随所に鐘の音を思わせる音型(中間部の半音階的な三連符、和音による三連符の絡み合いなど)が散見することから、聞き手がこの作品にある種の宗教性を見出したとしても、不思議はありません。
ロシア正教会において、「鐘」はとても重要です。鐘の奏法は様々であり、それぞれ多様な意味があります。宗教儀式の道具である教会の鐘は、古くからロシア人の生活に溶け込み、正教信仰を深く浸透させ、信徒の絆を深める役割を果たしてきました。19世紀以降、正教会の鐘の音はロシアの文学や音楽に影響を与え、鐘の音をテーマとする作品や、その音を思わせる旋律を取り入れた楽曲が書かれるようになりました。
果たして、正教会の鐘とは何を意味し、どのように社会に根差していったのでしょうか。これはロシアの宗教のみならず、歴史、文化、芸術を理解するうえで、重要な問いです。音楽においても、それは例外ではありません。この問いを出発点として、鐘がロシアの大地に根差し、音楽となって再現されて行く過程をこれから何回かに分けて、お話したいと思います。
第1回目のテーマは、「キリスト教教会の鐘の由来について」。教会の鐘の根拠について『聖書』を用いてお話しいたします。
キリスト教教会には鐘が不可欠であり、朝に晩にならされる鐘の音を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。それでは、なぜ教会に鐘が必要とされるのでしょうか。その根拠は『聖書』にあります。特に旧約聖書に鐘と関連する楽器に関する記述が見られます。
まず鈴についてですが、旧約聖書には様々な形状、大きさの鈴が登場します。サムエル記下6章4にはシストラもしくはシストルムという楽器について言及されていますが、この言葉は「振る」を意味する動詞を語源とし、ラテン語訳聖書には「Sistra(シストラ)」と記されています。シストラは古代エジプトで使用されていた楽器であり、輪差状の枠にゆるく動く輪をつけた棒を取り付け、これを振って鳴らします。
鈴は(ゼカリア書14章20) (出エジプト記28章31-35)(シラ書45章6-10)などに、大祭司の服に付けられた小さな鈴として登場し、これらは金属製の音を嫌う「魔を追い払う役割」を持っていたとされます。
ゼカリア書14章20には、当時、馬に鈴がつけられていたことが記されています。この馬の鈴は風鈴のような形をしていたとされ、一種の魔除けの役割を果たしていたと考えられます。これは橇や馬車に鈴をつける近代、現代の習慣にも相通じるものがあります。
シンバルを意味するヘブライ語「ツェルツェリーム」「メツィルタイム」は共に「ガンガン響く」を語源とします。2枚の平皿状、または2個の盃状の金属からなり、これを打ち合わせて音をならしました。シンバルには冴えた音を放つ小型のもの、太い音響を轟かせる大型のものの2種類あり、いずれも神への賛美を示す際に用いられました。
ラッパは共同体への民衆の呼び出し、出撃の合図としても用いられました。(民数記10章2-10、歴代誌上15章24ほか)。古代のラッパは青銅、銀製の真っ直ぐな吹奏楽器で、冴えた音色を発したとされます。古代には非宗教的な合図にも使用されましたが、その後、宗教楽器となり、レビ人※2によって吹奏されました。新約聖書(黙示録8章2、11章19)には、神の国の到来を前に民を集めるためのラッパを持った天使が登場します。
以上のように、『聖書』には様々な楽器に関する記述があり、それぞれ固有の意味、役割を担っています。後世、これらの楽器を総括する役割を果たすものとして、修道院などで鐘が用いられるようになりました。西欧において徐々に受容された鐘は、やがて、ロシアに伝承されることになります。次回、鐘の受容史を概観したいと思います。
- Bertensson, Sergei, Leyda, Jay and Satina, Sophia, Sergei Rachmaninoff: A Lifetime in Music, Bloomington: Indiana University Press, 2001.
Harrison, Max, Rachmaninoff: Life, Works, Recordings, London: Continuum International Publishing Group, 2006. - Lukianov, Roman, ABriefHistoryofRussianBells, Printed in the ABA's official publication, TheBellTower (vol. 57, no. 4: Jul-Aug 1999).
Williams, Edward V., The Bells of Russia: History and Technology, Collana: Princeton Legacy Library, 2014.
『聖書辞典 新共同訳聖書』東京:新教出版社、2001年。
『聖書 旧約続編つき』(新共同訳)。
- Bertensson, Sergei, Leyda, Jay and Satina, Sophia, Sergei Rachmaninoff: A Lifetime in Music, Bloomington: Indiana University Press, 2001, p. 291.
- 旧約聖書の太祖ヤコブの子レビを祖とするイスラエルの祭司の一族。