ピティナ調査・研究

大人のためのJAPAN17: 吉村弘『静けさの本』

ピアノ曲 MADE IN JAPAN

今日ご紹介する吉村弘氏作曲『静けさの本』 (春秋社刊)は、楽譜とCD、そして作曲者ご本人のエッセイがセットになったCD-BOOKです。昨年、没後10年を迎えた吉村氏は、日本の環境音楽の第一人者。その吉村氏の唯一のピアノ曲集であるこの作品集を、今回はご紹介させていただきます。

作曲家・吉村弘氏とは

公園や美術館、駅や空港でふと耳にする、何気ない音楽。コンサートホールで聴く音楽とは違うものではありますが、これらもやはり作曲家が作曲した音楽です。これら環境音楽と呼ばれる音楽は、周辺の音の環境にマッチするように、綿密に計算されて作られます。そんなサウンド・デザインを数多く手がけ、日本に環境音楽という分野を確立したのが、作曲家・吉村弘氏です。「環境としての音楽」、「空気に近い音楽」を目指し、自然の移ろいに寄り添った「エンバイラメンタルな音楽」を創り続けた吉村氏。主要作品には、それら公共空間のサウンド・デザインの他、シンセサイザーを多用したCDが10枚ほどあります。

『静けさの本』とは
写真

今回ご紹介する『静けさの本』は、そんな吉村氏の作品の中では珍しく、演奏用の楽譜が存在するピアノ作品集です。もともとは1980年代に住宅メーカーの依頼で作られたCD音楽でしたが、その後2003年に吉村氏本人による直筆譜とエッセイが加えられ、CD-BOOKとして再版されました。CDの演奏は、フランスでサティのピアノ曲を学ばれた柴野さつきさんです。家にピアノがなく、ピアノは憧れの楽器であったという吉村氏。その音の魅力を綴った以下の文章は、当たり前のようにピアノに慣れ親しんできた私たちには、とても新鮮ですね。


「まずはじめにピアノの鍵盤に触れて出てきた音、鍵盤の重たい感触に反発しながら思い切って指でポーンと押した音が、フェルトのハンマーを伝わって柔らかな深みのある音になって戻ってくるのがなんともいえなかった。この最初に出した一音は、アラジンの魔法のランプの煙のような音の世界が漂い始めてくるのが何よりの魅力であった。鐘を撞いた後の長くのびていく余韻のように、ピアノの音でしか表せない静けさが伝わってきたからである。」(『静けさの本』より)
漂う"静けさ"

『静けさの本』では、そんなピアノならではの静けさが、11曲の作品となって表現されています。これらは、吉村氏の指先が余韻を確かめながら紡いでいった音の流れを録音し、それを後から譜面に起こしたものとのこと。どの楽譜にも全音符や二分音符、またフェルマータなどが多く、時には拍子や小節線のない曲(下記「Sheep's Patern」など)もあります。私たちが見慣れた楽譜よりも余白が多く、聴き慣れた音楽よりも余韻が多いこれらの作品。ともすると弾きなれた作品のように前のめりに弾いてしまいそうになりますが、そこをぐっと待つことよって、これまで気付かなかったことに気付かされていくような、そんな豊かな体験に浸れる作品集と言えるでしょう。吉村氏はあとがきにて、「静けさとは、静かで心落ち着く状態(癒し、癒される)であるが、と同時に、時にはとてもダイナミックな、詩的な世界に誘ってくれる」と述べています。

 
吉村弘氏作曲『静けさの本』よりSTATIC (演奏:須藤英子)
 
 
吉村弘氏作曲『静けさの本』よりGray Cat (演奏:須藤英子)
 
 
吉村弘氏作曲『静けさの本』よりSheep's Pattern (演奏:須藤英子)
 
環境音楽的ピアノ曲

これらの作品が作曲された1980年代は、非日常的空間としてのコンサートホールのような場ではなく、より日常に密着した空間に音楽を開放していく動きが、日本でも活発になった時期でした。その第一線で活躍した吉村氏が、敢えてピアノという楽器のために書いたこれらの作品には、いわゆるライト・クラシックやヒーリングミュージックとは異なる思想性が、その静寂の中に感じられるように思われます。日常に疲れたときの気分転換として、ではなく、むしろ今この日常をじっくり噛み締めたいときのツールとして、ぜひ浸っていただきたい作品集です。

参考文献
吉村弘 静けさの本 春秋社 2003
吉村弘 都市の音 春秋社 1990
小川博司他 時事通信社 1986
日本戦後音楽史(下) 平凡社 2009