大人のためのJAPAN1:滝廉太郎『メヌエット』(1900's「日本初のピアノ曲」)
歌曲「荒城の月」や「花」で知られている作曲家・滝廉太郎(1879~1903)。彼が1900年(明治33年)に作曲した「メヌエット」が、日本初のピアノ曲と言われています。難易度はバッハやモーツァルトの「メヌエット」と同等ですが、その雰囲気はいかがでしょう?全音ピアノピースの楽譜には「日本風の主題による」という副題が付されていますが、確かにこの「メヌエット」からは独特の表情が感じられます。
滝廉太郎 メヌエット (2m08s )
「メヌエット」が作曲された明治期、日本は約260年に渡る鎖国を終え、西洋文化の輸入により社会全体を大きく変化させました。それまでの日本では、音楽と言えば歌舞伎や能、筝や尺八などの伝統芸能。そこに流れ込んできた西洋音楽は、近代化の象徴として人々の心をとらえました。教会の賛美歌や軍隊の吹奏楽から始まり、その後学校での唱歌教育を通して広められた西洋音楽は、伝統音楽を上回る勢いで日本全国に浸透していったのです。
「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)」。文部省によって1879年に設置された日本初の音楽学校の名称です。1887年に「東京音楽学校」、1949年に「東京藝術大学」と改名されたこの学校では、当初、唱歌教育のための教員養成が行われましたが、その後演奏家や作曲家の育成も行われるようになりました。「メヌエット」の作曲者・滝廉太郎も1894年から1900年までこの学校に在籍し、「三大B(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)」を日本に紹介したケーベルや、ボストン・ヴィーン等で学んだ幸田延にピアノや作曲を学びました。
「音楽取調掛」の設立目的は「1東西二洋の音楽を折衷し新曲を作ること、2将来国楽を興すべき人物を養成すること、3諸学校に音楽を実施すること」(音楽之友社『はじめての音楽史』参照)。当時は、西洋既存のメロディーに日本語の歌詞を当てはめただけの唱歌が流通していましたが、それに代わるオリジナル音楽の創造と普及が、大きな目標とされていたのです。滝廉太郎も、オリジナル作品の創造に意欲を燃やしました。そしてそこから「荒城の月」や「花」等の歌曲が生み出され、ピアノ曲「メヌエット」が作曲されていきました。
「メヌエット」作曲後の1901年、滝廉太郎はその才能と意欲から、ドイツのライプツィヒ音楽院へ派遣されます。しかしわずか2ヶ月で病に倒れ、翌02年に日本に帰国、03年にはピアノ曲「憾」を残して若干23歳で他界してしまいます。彼の作品の多くは、当時の日本で主流とされていたドイツ古典・ロマン主義スタイルによるものですが、その端々に、日本人として西洋音楽を追求する上での使命感や志が表わされています。そのような姿勢は、その後の日本人作曲家たちにも広く受け継がれていくことになるのでした。