ピティナ調査・研究

Vol.2 The moment

ピアノのある場所
The moment

The momentは成城学園前の改札から30秒。交番横の小さな地下室。静寂に響くカラリと鳴る一片の氷。RINAが奏でるスタインウェイの高音が透明な空間を貫く。客は黒い切り絵。サステインペダルを上げた後にピアニッシモが一音だけ居残る。細く。微に。そして突然のクレシェンド。

須川崇志は今日の為に1750sのコントラバスを選んだ。ジョセフ・ライドルフJoseph Leidolffの手によるモーツアルト時代の名器である。アンプは使わない。ピアノが生音であるせいもあるが、ジャズクラブとしては極めて異例と言って良い。アルコ(弓引き)が美しい。澄んだ音ではない。年老いたクリント・イーストウッドが絞り出す『グラン・トリノ』の主題歌のように。時には掠れ途切れる。しかし皺が深く刻まれた音。ピチカートが板に擦れる。足を引き摺る老人。琥珀色に空気が染まる。

The momentの空間は楽器である。空間構成はHPシェルという面の組み合わせ。直線を少しずつ傾けて繋げた平面幾何学である。細い棒を敷並べてできている。相対する面の角度が同じ組み合わせは一つとして存在しない。反射した音圧は特定の場所に溜まらず、回折し柔らかく広がる。あえて非対称の構成としているのは音の焦点を作らないためである。壁や天井を構成するルーバーの裏には周波数に合わせて二種類の吸音材が仕込まれている。響きすぎず吸音しすぎない塩梅を保っている。

奥に据えられたスタインウェイは1939年のハンブルグ製。スタインウェイ本社による復元がかけられている。名木が枯渇した現世では二度と作ることができないピアノである。この大きさの空間としては想定外の贅沢と言える。オーナーの正木彩生氏は演奏していて楽しい空間を作りたかったという。クラシックのどのホールにも負けない音響がある。神経質な空間であると思う。ジャズクラブであるが、クラシックの繊細な音も扱える。正木氏は、ここは世界の何処にも存在したことのなかった場であるという。ニューヨークに行こうとロンドンに行こうと同じ場所はない。本当に音楽が好きな人々が集まる、究極の音響空間。音楽ホールでもなければスタジオでもない。怪しく光るボトル。壁には一列のレコード。ここはなんと呼べば良いのだろう?

文 手塚貴晴(建築家 東京都市大学教授)


THE MOMENT JAZZ CLUB
〒157-0066 東京都世田谷区成城2-39-7 すみれビルB1F