ピティナ調査・研究

Category III 「マズルカ」

Category III 「マズルカ」

1830年代を中心とするピアノ音楽の興隆期にあって、一般には2つのジャンルが人気を博していた。一つは流行オペラや馴染みのメロディによる変奏曲・幻想曲の類、もう一つがダンス音楽である。特にワルツ、ポロネーズ、マズルカといった三拍子系が主勢を占めた。ショパンの創作史はそれを物語っている。


この三種の舞曲の違いは単なる速度ではなく、そのリズム感にある。ショパンにとって特に重要なのはマズルカであろう。郷里ポーランドの濃厚な民族色の反映があるばかりでなく、リズムの自在性が高く、最もスピリチュアルな性格を持つ。それ故に教育や伝承に困難が伴う。リナ・フレッパ夫人に捧げられた「4つのマズルカ」の最終曲は初期の作品の中、ショパンの創作の核心を突く重要作である。ここでは本来の舞曲がショパンの幻想的変容によって、ほとんど解体寸前に追いやられる。この「辛うじてマズルカ」は調性的にも「辛うじてイ短調」であり、このやり方は後年ショパンの創作史の総括としての「辛うじてポロネーズ」(Op.61)を結実させる道を拓いた。

ショパン:マズルカ Op.17-4(録音:2016/3/2)
フレデリック・ショパン
Frédéric Chopin

1810.3.1. ジェラゾヴァ・ヴォラ生、1849.10.17 パリ没

「ピアノ・ブロッサム」には、桜木の枝々を彩る数々の花弁とともに、リストやヒラーのように19世紀ピアノ音楽の力強い幹を成し、あるいはタールベルクのようにしなやかな枝を成す作曲家が登場します。1810年世代の先頭に位置するショパンは、後代への影響力、音楽の精妙に鑑みるなら、桜の木の全体を覆う、霞に喩えることができるでしょうか。

ショパンは1810年にワルシャワ近郊の村、ジェラゾヴァ・ヴォラで、フランス人の父とポーランド人の母の間に生まれました。ショパンには、一人の姉と二人の妹がおり、両親にとって彼は唯一の息子でした。音楽愛好家の両親の下、4歳でピアノを始め、6歳でヴォイチェフ・ジヴニー(1756~1842)の指導下に入ります。ヴァイオリン奏者、ピアノ教師であり、作曲家でもあったジヴニーの指導は、16年から21年まで、約7年にわたりました。ジヴニーの下、ショパンは、当時既に鍵盤音楽の古典となりつつあったバッハ、モーツァルトとその弟子フンメルらの作品を学びました。ショパンの生涯にわたるドイツ・オーストリアの大家に対する深い愛着、柔軟な指使いの探究は、この初期の学習に端を発しています。

ショパンによる作曲の試みは、既に1817年に始まっており、最初の習作的楽曲として、ト短調の《ポロネーズ》が出版されました。22年、ショパンはユゼフ・エルスネル(1769~1854)から作曲の個人指導を受けるようになります。エルスネルは、ワルシャワの音楽活動を牽引する優れた作曲家であり、27年までワルシャワ音楽学校(音楽院)の校長となる人物です。ショパンは23年から同校教師ヴィルヘルム・ヴュルフェルWilhelm Würfel(1790~1832)からオルガンも学びました。同年、高等音楽学校の正式な生徒として入学。学友で、後に楽譜出版者とショパンの仲介の手間を引き受けることとなるユリアン・フォンタナ(1810~1969)らと共に、本格的に作曲を勉強しました1。28年から、音楽学校を卒業する翌年にかけて、ショパンはベルリン、ヴィーンへと旅をしました。ヴィーンでは、チェルニーやクレンゲル、マイゼーダーといった著名な教育者、理論家、作曲家と知己を得、二度の演奏会を成功させました。帰国後、30年3月に《ピアノ協奏曲第2番》を初演、10月には再びヴィーンで《ピアノ協奏曲第1番》を演奏しました。翌月29日、ロシアの支配に対してポーランドで蜂起が勃発。ヴィーンでも反ポーランド的風潮が漂い始め、ショパンは31年秋、ワルシャワがロシアに占拠されるのと前後してパリに到着します。

パリでは、ロッシーニ、ケルビーニといったオペラ、宗教音楽の大家や、カルクブレンナー、(チェロ奏者の)フランコム、リストをはじめとする楽器の名手と親交を深めました。特にカルクブレンナーの演奏には深い感銘を受け、《ピアノ協奏曲第1番》の出版に際し、この作品をカルクブレンナーに献呈しました。しかし、やがて、手首と指の力だけに依存して演奏するというカルクブレンナーの美学に異を唱えるようになり、ショパンは自身の探究するようになります。

パリで、ショパンはJ. ド・ロトシルト(ロシュチャイルド)男爵、ポーランドの亡命貴族ポトツカ伯爵夫人や詩人ミツキエヴィチ、サン=ラザール通りのアパートで隣人だったパリ音楽院教授ヅィメルマンとその弟子アルカンと知遇を得、音楽活動に積極的に参加します。ここで、ショパンがパリで共演した「ピアノ・ブロッサム」に登場する音楽家の名前を列挙してみましょう。リスト(33年3月にバッハの《3台のクラヴィーアのための協奏曲》BWV 1063をヒラーと共演;34年12月にリストの《メンデルスゾーンの〈無言歌〉に基づく2台ピアノのための大二重奏曲》を共演)、ヒラー(35年2月にヒラー《2台ピアノのための大二重奏曲》作品135を共演;翌月スタマティの演奏会にも出演)、シュンケ(34年2月にリストと共に出演)、スタマティ(35年4月にカルクブレンナー、ヒラーらと共演)、アルカン(38年3月にヅィメルマン、グートマンと共演)、弟子のグートマン(同前)。

ここで紹介されている《マズルカ》作品17は、こうした華やかなパリ時代の初期(33年)に作曲し、他の3曲のマズルカとセット出版した作品です。しかし、その華やかな環境とは対照的に、ショパンは、このポーランドを象徴するジャンルを徹底的に様式化しながらも、さながら幻想曲のように、明確な輪郭のない影が移ろっていきます。20代前半にして若きショパン独自の発想と「陰」的本質が極まった作品と言えます。

  1. ショパンが学んだ音楽機関については、「高等音楽学校」や「音楽院」など、資料によってしばしば記載の不統一が見られます。ここで少し整理しておきましょう。まず、ショパンが通ったのは1815年に設置されたワルシャワ高等学校(Warsaw Lyceum)です。翌年、ワルシャワ大学が設置されます。次いで21年、――恐らくパリ音楽院をモデルとして――音楽及び朗唱院がワルシャワ大学美的芸術学部内に設置されます。この内部機関の初代部長が、エルスネルでした。26年、音楽及び朗唱院は、グウォヴノ音楽学校(音楽院)と演劇・歌唱学校の二部門に分割されます。ショパンが作曲を学んだ「音楽院」は、前者の音楽学校でした。

19世紀のドイツの作曲家には三人のシューマンがいる。即ちローベルト、グスタフ、ゲオルクである。グスタフはローベルトと同世代で20点余りのピアノ曲を書いた。それらは小品、または小品集ばかりで大作はない。しかし作品の完成度は高く、練達したピアニズムが光彩を放つ。このマズルカは「舞踏会の情景」と越された3つの小品の第1曲。ショパンとは対象的に人間が踊るための舞曲を感じさせる。華やかな大広間やそれを取り巻く夜の気配までもが伝わってくるようだ。

G.シューマン:マズルカ Op.18-1(録音:2016/3/2)
グスタフ・シューマン
Gustav Schumann

1815.3.15 ホルデンシュテット生、1889.8.16 ベルリン没

ザクセン王国ホルデンシュテット(グスタフ・シューマンの生年にプロイセン王国に編入)に生まれたグスタフ・シューマンは、同じザクセン王国のツヴィッカウに生まれたロベルト・シューマンとは同姓異人です。彼は生前、ベルリンの有力ピアニスト兼作曲家、教育者として当時名声を博していたことが知られています。1840年代以降、プロイセン王国の首都ベルリンでもっとも有力な作曲家・指揮者として活躍していたヴィルヘルム・タウベルト(1811~91、ピアノ・ブロッサムカテゴリー4「鐘」参照)に師事しました。38年には既にベルリンで名手として喝采を浴びていたとされるので、30年代にはベルリンに移住していたのでしょう。ショパンの伝記を書いたF.ニークスによれば、グスタフ・シューマンは40年から41年にかけての冬に――恐らくパリで――ショパンのレッスンを受けたといいます。45年、ピアニストのヨーゼフ・レンマー(1805~?)と演奏旅行に出かけ、オーストリア、チェコで演奏、以後の足取りは不詳です。

作品番号付で出版された彼の作品は、全てピアノ曲で、番号にして25番までがあります。74歳まで生きた割に25作しか出版しなかった点、当時のピアニスト兼作曲家としてはかなり寡作な部類に入ります。その他は一曲のみ、男声合唱のための作品が確認されているだけです。アドルフ・フォン・ヘンゼルト(カテゴリー21「子守歌」に登場予定)は、グスタフ・シューマンの作品をロシアにおける自身のピアノ教育で重用しており、彼の作品を自ら校訂・編集し出版しました。


ファニー・ガシンは1818年生まれ、リスト・タールベルクの両人に師事した経歴を持つ。「ワジェンキの想い出」Op.19はマズルカ・ブルーと副題され、従姉妹の王女と伯爵夫人に書かれたもの。遺された約20点のピアノ曲はサロンピースの域を出ないものだが、その果断さと高度なピアニズムによって、非凡な存在感を示している。

ファニー・ガシン・ド・ローゼンベルク伯爵夫人:マズルカ Op.19(録音:2016/3/2)
ファニー・ガシン・ド・ローゼンベルク (旧姓:レシュチッツ・フォン・スミン=スミンスカ)
Fanny Gaschin de Rosenberg (Leszczyc von Sumin-Suminska)

1818.3.9 トルン(ポーランド)生、1879没

ピアノ・ブロッサムでは、初登場の女性作曲家です。当時は女性が職業作曲家として自立することが(男性社会から)こんにちほど認められておらず、一見殆ど女性ピアニスト兼作曲家がいないように見えますが、作曲・演奏活動を職業とした名手は一定数存在しますし、愛好家として活動した人々を含めれば、相当数にのぼります。ポーランド出身のファニー・ガシン・ド・ローゼンベルクは、後者に属する音楽家です。1818年、ポーランドの街トルンのヤン・ネポムツェン・レシュティッツ・フォン・スミン=スミンスカ伯爵(1786~1839)とその妻ユリ・フォン・ルブラニツ・ドンプスカ(1792~?)の間に生まれた彼女は、早くから恵まれた音楽の才能を発揮し、ピアノ演奏に長けたといいます。貴族の家に生まれたので、愛好家として演奏および作曲活動を行うようになります。彼女の生前に音楽人名事典を編纂したベルギーの著述家、理論家、作曲家のフェティスは、彼女がリスト、タールベルク、ヘンゼルトを範とした、と書いていますが、一方、イギリスで活動したピアニスト兼作曲家、著述家のエルネスト・パウアーによれば、彼女は、リスト、タールベルク、ヘンゼルトに師事した、と書いています。師事関係については、はっきりしたことは分かりませんが、少なくとも、ピアノ書法の面で、彼女が中でもタールベルクから感化を受けていることは確かです。例えば、《ちりぢりの魅力――調和の詩》作品9では、主題を変奏する際に、中声部に旋律パートを置き、アルペッジョでそれを取り囲む手法を用いていますが、タールベルクによって高度に発展されたものです。また、同曲には、楽譜の表紙とタイトル・ページ詩句が引用されています(「幻想とは何か?それは幸福/幸福とは何か?それは幻想」)。旋律的作品に詩的標題を付するのは、当時、多くのピアニストに演奏されたヘンゼルトの《12の演奏会用性格的練習曲》作品2で用いた流儀でもあります。ここから、タールベルクとヘンゼルトの作品に傾倒していたことは明らかといえるでしょう。出版された彼女の作品は少なく、19世紀に以下の作品が刊行されました。当時のサロン音楽の流行に倣い、花や女性の名を持っていますが、音楽は筋が太く、厚みがあります。

作品8 夢想曲
作品9 ちりぢりの魅力――調和の詩
作品10 マズルカ
作品11 君のアルバムのために――音楽のルリジサ
作品14 ワンダ・ポルカ 第1番
作品15 パェラ・ポルカ 第2番
作品18 エミリー――ポルカ・マヅルカ
作品19 ワジェンキの想い出――マズルカ・ブルー
作品21 スティープル・チェイス・ポルカ
作品22 音楽によるおしゃべり
作品23 蝶――ワルツ
作品24 パペリート[*紙巻タバコの一種]――ワルツ
作品25 ホーヘンツォレルン行進曲

ピアノ・ブロッサムで紹介された《ワジェンキの想い出――マズルカ・ブルー》作品19は、彼女にとって、少なくとも3作目のマズルカということになります。ワジェンキは「バスルーム」を意味する「ワジェンカ(łazienka)」の複数形ですが、ここでは、恐らくワルシャワにあるワジェンキ公園のことと思われます。今日、この公園にはショパン像(1918年建造)が聳えていますが、当時は勿論、このモニュメントはありませんでした。副題にある「ブルー」は、「青い」という形容詞ですが、その背後には一体どのような想いがこめられているのでしょう?想像してみてください。


掲載したマズルカは6曲からなる「音楽の夜会」Op.6の一曲で、未来の夫ローベルトにより「ダヴィット同盟舞曲集」Op.6に引用された。クララ16歳頃の作とされ、この時点で彼女は当代を代表する名ピアニストとして頭角を現すと共に、作曲家としてもOp.番号はローベルトを凌ぎ、早くも「ピアノ協奏曲」Op.7に着手するのである。クララの作品は年齢的には信じ難いほどに厳格で、華やかさを避けたものとなっていて、その気丈な性格が伺える。

クララ・ヴィーク(シューマン):マズルカ Op.6-5(録音:2016/3/2)
クララ(・ジョゼフィーヌ)・シューマン(旧姓:ヴィーク)
Schumann [née Wieck], Clara (Josephine)

1819.9.13 ライプツィヒ生、1896.5.20 フランクフルト没

ファニー・ガシン・ド・ローゼンベルクに続いて、「ピアノ・ブロッサム」では二人目の女性作曲家です。この解説では、金澤さんが紹介している《音楽の夜会》作品6から抜粋されたマヅルカを出版するまでの、彼女の歩みを辿ります。

彼女の父フリードリヒ・ヴィーク(1785~1873)はヴィッテンベルク大学で進学を学び、ライプツィヒで楽譜・ピアノ商を営み、その傍らで、有能なピアノ教師として生計を立てていました。母マリアンネ・ヴィーク(旧姓トロムィッツ、1789~1872)は、祖父と父が音楽家で、自身も優れたピアノ奏者、ソプラノ歌手でした。クララは両親の間に生まれた5人の子どものうち、2番目の娘にあたります。しかし、両親は1824年に離別、程なく正式に離婚します。父ヴィークは子どもたちの後見人となり、彼女たちを育てました(母はヴィークの知人で音楽家のアドルフ・バルギエル〔1783~1841〕と再婚、父も28年に再婚します)。クララは父からピアノ、宗教、ドイツ語と外国語を学びました。8歳になる頃には、クララはモーツァルトのピアノ協奏曲を人前で演奏するほど上達していたと云います。以後、9歳のときにゲヴァントハウスで演奏、11歳の時には同ホールで独奏者として公式デビューしています(この演奏会で、消失した自作《独創主題に基づく変奏曲》、エルツ、カルクブレンナー、チェルニーの作品を演奏しました)。12歳のとき、ヴァイマル(文化の薫り高いこの街ではゲーテに面会、ショパンの《「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」の主題による変奏曲》作品2を演奏)、カッセル、フランクフルト、ダルムシュタット、マインツを経由してパリを訪れました。32年に訪れたこのパリで、父ヴィークとクララはカルクブレンナー、メンデルスゾーン、ショパン、ヒラーの演奏をを聴います。彼女はパリでも演奏したが、コレラの流行を避けて、早くに帰郷することとなりました。彼女の演奏記録は、パリの音楽雑誌には残っていないため、とりわけて注目を集めたわけではなかったようです。

クララの作曲は29~30年に遡り、31年に《4つのポロネーズ》作品1が出版されました。32年刊行の《ワルツ形式によるカプリース》作品2がライプツィヒだけでなく、パリでも刊行されたのは、同年のパリ旅行の成果と云えます。

パリ旅行に先立つ28年、クララはツヴィッカウからライプツィヒに来たばかりのロベルト・シューマンと出会っていました。クララは度々シューマンの前で彼の《パピヨン》作品2やバッハの平均律クラヴィーア曲集からの抜粋を弾いて聞かせるなど、音楽的交流を通して互いの敬意を深めていました。交流は、演奏のみならず、創作の動機ともなり、クララは33年《変奏ロマンス》作品3をシューマンへの献辞付で出版しました。一方のシューマンは、この作品に基づいて、《10の即興曲》作品5を書きました。翌年、クララは短期的にドレスデンに送られ、カール・ゴットフリート・ライシガー(1798-1859)と合唱指揮者ヨハネス・ミクシュJohannes Miksch [Mieksch](1765-1845)にそれぞれ作曲と声楽を師事しました(その間に、シューマンは34年、エルネスティーネ・フォン・フリッケンと恋愛をしています)。ライプツィヒにもどったクララは、エルネスティーネとの婚約を解消したロベルトと、以前のように親しく付き合うようになります。彼女は、シューマンが定期刊行紙『音楽新報』上で展開した芸術家集団「ダヴィッド同盟」の一員となり、ツァリアという名のアバターとして登場するようになります。ここから、シューマンが彼女をいかに芸術家として尊敬していたかが理解できます。

35年から、父ヴィークは、クララとシューマンの友情が恋愛に発展するのを見て、強硬に反対し始め、二人の面会と文通を禁じます。36年、クララは父に連れられてヴロツワフへと演奏旅行に行き、温泉地バーデン・バーデンで旅の疲れを癒しました。ライプツィヒに戻ると、メンデルスゾーン、シュポーア、ショパンが相次いでヴィーク家を訪れました(メンデルスゾーンは前年にゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者として同地に定住していました)。著名な音楽家の来訪を受けたこの年から、彼女の創作意欲はいっそう盛んになります。36年に出版された《4つの性格的小品》作品5は、明らかに同時代のロマン主義的傾向を反映した意欲作です。第1曲〈即興曲――魔女の夜宴〉、第4曲〈幻想的情景〉、第5曲〈幽霊たちの踊り〉に見られる標題は、ベルリオーズに着想を吹き込んだゲーテの『ファウスト』に通じる怪奇的情景・幻想を彷彿とさせます。また、翌年には《ピアノ協奏曲》作品7も出版しており、クララはこれをシュポーアに献呈しました。クララは作品5、作品6《音楽の夜会》、作品7のいずれをも、ショパンの前で弾いています(特に、作品5はショパンの多いに気に入ったと云います)。

1830年代にピアニストとしての地位を確立したクララは、40年以降、次第に作曲から遠のいていきます。

作曲家としてのクララ・シューマンは、管弦楽・室内楽作品として、2曲のピアノ協奏曲(作品7と未刊のスケッチ)、ピアノ三重奏曲(作品17)、ピアノと管弦楽のための3つロマンス(作品22)を書いています。残存しているピアノ独奏曲としては25作品、声楽作品が14作、その他、ベートーヴェン、モーツァルトのピアノ協奏曲へのカデンツァが3点あります。彼女の作品は、たいへん知的に、いわば「ひねりを入れて」書かれています。即興の名手でもあったクララは、厳格な作曲理論に基づく論理性と即興性の双方を巧みにより合わせて、夫とは一味ちがった独自の複雑な世界を織り上げているように思えます。

シューマン夫妻の評論及び演奏活動については、これまで著名人に関する部分しか伝えられて来なかった。実際に彼らが評価したのはショパンブラームスに限らない。クララに優れた作品を献呈した同時代人たちーーーW.タウベルトF.ヒラー、G.フリューゲル、J.ローゼンハイン、F.クッフェラート等々、こうした人々との関わりについて今後明らかにされていく必要がある。
しかし、作曲家としてのクララ・ヴィークはシューマンとの結婚によって事実上の終止符が打たれた。シューマンブラームスのその後の創作活動と今日に至る多大な評価は、ひとえにクララ・シューマンの献身的労苦の上に成り立ったものであることを忘れてはならないだろう。

調査・研究へのご支援