Category II 「前奏曲」
前奏曲は文字通り、何かに先立って弾かれる曲である。ピアノ音楽の普及と共に、プレリュードは自由な性格小品の一種として扱われるようになる。従って「前奏曲集」というようなタイトルが矛盾なく成立していく。
ピアノ音楽における「前奏曲」のモデルはJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」、即ちフーガの前に置かれたプレリュードであろう。それ故にこの世代が書いたピアノのための「前奏曲」はバッハを意識したものが多い。
ここでは本来の意味での「前奏」として曲の冒頭に置かれた作品と、独立した「前奏曲」各2点を展示する。
一般的な音楽史ではドイツ・ロマン派の系譜はシューマンからブラームスに飛んでしまうため、ブラームスがシューマンの後継者であるかのように思われがちだが、両者の音楽に共通性はほとんどない。
ブラームスに直接的な影響を及ぼしたのは、若きブラームスの才能を愛で、作品を献呈したヴィンチェンツ・ラッハナー(1811~1893)やカール・グレーデナー(1812~1883)ではなかったか。当時高名なラッハナー四兄弟の末弟で、指揮者として活躍したヴィンチェンツのピアノ曲は少ないが、シンフォニックで厳格かつ能動的な音楽を書いた。「前奏曲とトッカータ」Op.57は明らかにブラームスを予見させるものがある。
1811年7月19日、ライン・アム・レヒ生、1893年1月22日、カールスルーエ没
早くから中央集権体制を確立したフランスとは異なり、諸侯が群雄割拠していたドイツには各地で独自の音楽文化が栄えました。それだけに、「19世紀ドイツ」とひと括りにして、ドイツの音楽のビジョンを得ようとするのはなかなか困難な作業であり、ベルリンの国立図書館に眠る楽譜から才能ある作曲家の楽譜を探し当てなくてはなりません。ラッハナーは、事典、作品目録、図書館の蔵書カタログから探し当てられた稀有な才能の一人です。彼は、同年生まれのフェルディナント・ヒラーのように、ヴィルトゥオーソとして国際的に名を馳せた作曲家はありませんでしたが、音楽一家に育ち、管弦楽、室内楽、そしてピアノ音楽において、ブラームスへと繋がる音楽的成果を残した人物です。
ラッハナーは4人兄弟の末子で、3人の兄、テオドール(1788~1877)、フランツ・ポール(1803~1890)、イグナーツ(1807~1895)はいずれも音楽家となりました。まず、アウクスブルクの北約40キロに位置するライン・アム・レヒに誕生したラッハナーは、14歳の時にアウクスブルクに送られ、ギムナジウムで教育を受けます。この時既に、ピアノとヴァイオリンの演奏に秀でていたと云いますが、しかし、彼は初めから音楽家を志したわけではありませんでした。転機は17歳のときに訪れました。ポズナンのポーランド人伯爵家の個人音楽教授として雇われ、自らも専門的な音楽的教養を培う必要を自覚し、作曲の勉強に力を注ぐことになります。兄フランツがシュトッゥトガルトに移住することになると、兄が勤めていたカルヴァン派教会のオルガン奏者となるべくヴィーンに移住。1834年、彼は、ケルントナートーア劇場で楽長を務めていた兄の後を継ぎ、次いで36年にマンハイムで宮廷楽長の地位に就きました。42年にはロンドンでドイツオペラ協会の演奏会を一シーズン指揮。72年、独仏国境に近いカールスルーエに移り、12年以上、同地の音楽院で指導に当たりました。
ラッハナーの作品は、作品番号にして82作までが確認されています。同時代のピアノのヴィルトゥオーソとは異なり、ピアノ音楽が創作の占めているわけではなく、むしろ声楽(オペラ、リート、合唱)に重きを置いています。器楽作品では、ピアノ曲の他、序曲(《トゥーランドット》作品33-1、《デメトリウス》作品44)、弦楽五重奏(作品8)、ピアノ四重奏(作品10)、弦楽四重奏(作品27, 36)、チェロ、ヴァイオリンとピアノのための性格的作品が主要作品に数えられます。
ラッハナーは22歳年下のブラームスとも交友があり、ピアノの為の《12のレントラー、間奏曲とフィナーレ付》はブラームスへの誕生日プレゼントとして書かれました。《前奏曲とトッカータ》作品57に見られるように、低音を重視する重厚な書法は、ブラームスに通じる特徴です。これは、オルガン奏者としての経験に由来する音響感覚かもしれません。
この時代、ロマン主義的な作品が注目を集めたことは事実だが、後にそうした一部の作曲家や作品ばかりが称揚されたことで、時代全体を「ロマン派」と見てしまうという、致命的な歴史認識の誤解を生んだ。そのために、健全で真に古典的な音楽が一斉に音楽史から抜け落ちてしまったのである。
19世紀のイギリス音楽、わけてもピアノ曲はほぼ全滅状態にある。ヨーロッパ屈指の音楽文化の中心地、ロンドンでなぜこういうことになったのか。当時のイギリスの作曲家のレベルが低かった訳ではない。このことは、本シリーズの作曲家たちによって、証明されるであろう。考えられるのは「ロマン派」の尺度に合わなかったためである。イギリスの名ピアニスト、チャールズ・サラマン(1814~1901)がフェルディナント・ヒラーに捧げた「前奏曲とガヴォット」Op.47は、この時代の古典性の見本である。主題が繰り返される度に内声部が複雑に変化する、こうした作品はしかし、格調の高さと引き換えにピアニストの敬遠を招く。
1811年3月3日、ロンドン生、1901年6月23日、ロンドン没
イギリス(特にイングランド)は、19世紀音楽史において、多く研究される余地を残す領域です。早くから公開演奏会の習慣が確立された国とあって、演奏会制度に関する研究は多いのですが、一方で、イギリスがこの時代に生み出した作曲家とその作品、教育制度は、包括的な研究の対象とされてきませんでした。確かに、イギリスはバロック時代以来、ヘンデル、ハイドンをはじめ、ドイツの音楽家を歓迎し、19世紀にはクラーマーやモシェレス、タールベルクといったピアニスト兼作曲家たちが活動しました。しかし、地元音楽家不在では音楽活動は成立しないはずであり、ロンドンを中心とした諸都市を、単に「音楽の消費都市」と矮小化してしまうのは、余りに性急であるように思われます。
さて、今回紹介されるサラマンは、そんなイギリス音楽シーンの闇を照らす、「ロンドン人音楽家」の一人で、とくに「ドイツ古典音楽」のイメージ形成に大きく寄与した人物といえます。とはいえ、彼もまた、移民の子孫であることには変わりありません(父方がドイツ、母方がオランダ人の血を引いています)。母は優れたピアニストで、母の手ほどきを受けた後、サラマンは、1824年から26年まで王立音楽アカデミーに学び、次いでべートーヴェンと交友のあったチャールズ・ニート(1784~1877)に師事しました。28年から29年にかけて、パリでアンリ・エルツにも師事しています。彼が初めてピアニスト兼作曲家として公開演奏会に登場したのは1828年のことで、自作歌曲を上演し、やがて独奏者としても公演を行うようになります。33年5月30日に、ハノーヴァー・スクエア・ルームズで主催したコンサートを皮切りに、37年までロンドンで毎年、声楽・器楽コンサートを開き、自作の他、メンデルスゾーン、モーツァルト、ヴェーバーのピアノ協奏曲を上演しました。1835年にはロンドンのウェスト・エンド地区で初めて結成された室内オーケストラ、コンチェルティ・ダ・カメラで演奏し、36年にはメンデルスゾーンの《弦楽八重奏曲》作品20をイギリス初演しました。
1830年、彼はストラトフォード=アポン=エイヴォンで行われたシェークスピア記念祭のために頌歌を作曲し、彼の指揮で上演されました。30年代後期には最初の歌曲集を出版。38年から40年にかけて、サラマンはザルツブルク、ヴィーン、ミュンヒェン、その他の欧州諸都市で演奏し、46年から48年にかけてローマに居を定め、活動しました。滞在時、彼は46年にサンタ・チェチーリア・アカデミー及びローマ・フィルハーモニー教会の名誉会員となり、2年後、指揮者として、ベートーヴェンの交響曲第2番をローマ初演しました。ヨーロッパ旅行を経て、彼はモーツァルトの元妻コンスタンツェとその息子、シューマン、チェルニー、タールベルクといった著名な音楽家たちと知己を得ています。
帰国後、ベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第1番》を上演。この時期から、サラマンは音楽史に学術的関心を寄せ、51年から53年にかけて存在した、ロンドン音楽院(Musical Institute of London)の研究員となります。1855年、彼はロンドンと地方でピアノの歴史やその他音楽に関する講義を開始し、大いに評判を博したため、ヴィクトリア女王、アルバート公子とその子どもたちに私的に招かれて講義を行い、古楽器を上演しました。ちなみに、古楽器(特にチェンバロ)の上演は、当時、大陸では大変珍しく、廃れた習慣でした(ロンドンでは、モシェレスがチェンバロを人前で演奏したことがあり、恐らく、モシェレスの先例を受け継いだものと思われます)。
彼はまた、1858年に設立されたロンドン音楽協会(Musical Society of London)の創設者の一人であり、58年から65年にかけて秘書を務めました。74年、彼は音楽協会(Musical Association)の創設にも寄与しています(77年まで秘書、77-87年まで副会長)。
サラマンには、ピアノ曲(パリでは全く出版されなかったと見られます)のほか、ベートーヴェン、モーツァルト、メンデルスゾーン、その他の作曲家の校訂楽譜があります。だが、生前、彼の成功を保証したのは彼の歌曲で、その数は200曲以上にのぼります。この他に、詩篇曲、アンセム、ユダヤ教の典礼用音楽を書きました。ユダヤ人の一家に生まれた彼はロスチャイルドを学友に持ち、著書『ユダヤ人の実像Jews as they are』(1882, フェリックス・メンデルスゾーンの祖父、モーゼス・メンデルスゾーンに献呈)は、イギリスにおける反ユダヤ的偏見に対抗する試論で、ユダヤ教を捨てたメンデルスゾーン家を擁護しています。
最後に、《前奏曲とガヴォット》作品47について、金澤さんが「この時代の古典性の見本である」と書いているように、彼は創作においても厳格に、古典的伝統の守護者として振舞っていることが分かります。
エドゥアール・マリー・エルネスト・ドルドヴェーズ(1817~1897)の「3つのプレリュード」はそれぞれ「過去」「現在」「未来」と題され、いわゆるバロック風、(当時の)ロマン派風に続いて、奇妙な未来の音楽が登場する。これは1860年代における「未来」であり、優美でバレエ音楽風なドルドヴェーズの本領とは無関係とはいえ、対象を冷静に、シニカルにとらえる彼独自の観点である。リスト晩年の作品より10年以上も前に、こうした未来への予測が行われていたことは興味深い。
1817.5.31. パリ- 1897.11.6. パリ
ドゥルドゥヴェーズ(ドルドヴェーズ)というよりも、バレエ曲《パキータ》の作曲者と書くほうが、ピンとくる方は多いと思います。パリに生まれ、生涯をこの街で過ごしたドゥルドゥヴェーズは、生前、作曲家としてのみならず、指揮者、ヴァイオリン奏者、理論家、著述家、教育者として、幅広く活動した人物です。
彼は時計職人の息子でした。家族が音楽家と親しかったので、幼少より音楽に親しみ、感性を磨くことができました。最初のヴァイオリン教師は、発明家としても知られるジャン=フランソワ・シュドルJean-François Sudre(1787~1862)で、記譜原理に基づく人工言語開発の試みで知られる人物です。ドゥルドゥヴェーズも彼の「音楽言語」メソッドで教育を受けたといいます。1825年、パリ音楽院に入学、31年にソルフェージュで1等賞、33年にヴァイオリンで1等賞(アブネックに師事)、38年に対位法・フーガで1等賞(アレヴィとレイハに師事)、ベルトンHenri-Montan Berton(1767~1844)のクラスで作曲を学び、38年にカンタータ《ラ・ヴェンデッタ》でローマ大賞次席を獲得。この他、受賞には至りませんでしたが、A. エルヴァール(1808~1877)のクラスで和声を学びました。40年、ローマ大賞の獲得に失敗しましたが、ベルトン師の助力で自作の演奏会が行われ、彼の交響曲、序曲、カンタータが上演されました。
33年にヴァイオリンで1等賞を獲得して間もなく、ドルドゥヴェーズはオペラ座の第2ヴァイオリン奏者として雇われ、37年には第1ヴァイオリン奏者となります。また、彼は遅くとも33年から、師アブネックに呼ばれてパリ音楽院演奏協会のオーケストラでも演奏していました(正式な協会員になるのは39年で85年まで会員)。
指揮者としての経歴は、47年に遡ります。同年4月から59年10月にかけてオペラ座の第3指揮者、59年11月から次席指揮者、次いで翌年3月、前任者ジラールが亡くなると主席指揮者に昇進。同時に、短期間、ジラールに代わりパリ音楽院演奏協会の指揮者も務めました。1870年6月にオペラ座を引退するも、普仏戦争後、指揮者ジョルジュ・アンルの死に伴い、73年6月に主席指揮者に返り咲き、72年にオペラ=ガルニエ(現在のオペラ座)の落成を見て、77年まで指揮台に立ちました。また、アンルの死により、彼はパリ音楽院演奏協会の指揮者となり、85年まで指揮棒を振りました。
教育者として、ドゥルドゥヴェーズは、1871年からパリ音楽院院長を務めていたアンブロワーズ・トマの下で、73年10月に初めて創設された指揮科教授に選任され、85年10月まで教育に当たりました。この年、彼は病に倒れましたが、亡くなる前年まで音楽院の教育運営に携わりました。
理論家ドゥルドゥヴェーズは、1860年代以降、多くの著作を執筆しています。『古典音楽の記譜:現代音楽の記法及び小音符[装飾音符]一般の演奏における寄付との比較』(1867)、『現代の調性システムに基づく音程と和音の教育原理』(同)、『指揮者の技法』(1878)、『合奏について』(1888)。この他、バロックから同時代のヴァーグナーに至るまで、広い歴史的視点で編集された多数の編曲・校訂楽譜集があります。また、著述家として彼は、古典的作曲家評『音楽的好奇心』(1872)『わが回想』(1890)とその続編『「わが回想」の続編を成す今日についての過去』(1892)を刊行しました。
作曲家としてのドゥルドゥヴェーズは、3作のレクイエム、複数の宗教的合唱曲、賛歌、オペラ、歌曲を書いています。器楽では、3つの交響曲(作品2、8〈威厳ある様式で〉、15〈勇壮かつ喜劇的〉)、こんにち唯一レパートリーに定着している《パキータ》を含むバレエ音楽、コントラバスを伴う弦楽五重奏(作品22)、ピアノ三重奏曲(作品9、23)、2つの弦楽四重奏(作品10)、ヴァイオリンとピアノの為の複数の小品、および、ピアノ曲。作曲者がピアニストでなかったこともあり、ピアノ曲の割合はごく少ないですが、〈過去〉、〈現在〉、〈未来〉の3曲からなる《3つの前奏曲》(1867)には、当時のパリ楽壇の世相、つまり、古典的音楽とワーグナーを旗手とする当時の「前衛」の共存が、知的に、皮肉を交えて描き出されています。
セザール・フランクより5歳年長のエデュアルト・フランクはドイツ人である。室内楽を中心に、オーケストラ曲、ピアノ曲、歌曲をバランス良く書いた人で、重厚で堅実な書法、名人芸を誇示するようなタイプのピアノ曲が少ない点など、ブラームスの先駆性が感じられる。近年、再評価が進みつつあるようだ。「40の小品」Op.43は恐らく二人の娘に書かれたと思われる7分冊の性格小品集で、「プレリュード」は2冊目の最初を飾る。さながらバッハの合奏曲を想わせる。
1817.10.5 ブロツワフ-1893.12.1
フランクといえば、ベルギー出身のセザール・フランクを思い浮かべますね。ピアノ・ブロッサムに登場するフランクは、このフランクとは血縁関係のない、ドイツの音楽家です。彼は、メンデルスゾーンの系譜に属する、いわば「正統派」作曲家で、とくに器楽の領域で練り上げられた質の高い作品を書きました。
フランクは現ポーランド領(当時ドイツ領)のブロツワフに、教養ある銀行家の息子として生まれました。1834年、兄ヘルマンの勧めでデュッセルドルフに移り、メンデルスゾーンに師事しました(当時、メンデルスゾーンはこの街で3年任期の楽長を務めていました)。ひとたび生地に戻って一般教育を修了、35年、師がライプツィヒ市の楽長およびゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任すると、同地で38年まで再びメンデルスゾーンに師事しました。当時、デュッセルドルフと並んでザクセン王国における音楽の中心地だったライプツィヒで、フランクはイギリスのピアノ奏者、作曲家W. S. ベネット、R. シューマン、ヴァイオリニストのフェルデイナント・ダーフィト(ダヴィッド)らと知己を得ます(後に、彼は《ピアノ協奏曲》作品13をシューマン夫人に献呈しています)。
42年から45年にかけて、パリ、ロンドン、ローマへ旅行。しかし、フランクがこれらの都市で自作品を売り込むことはなかったようです(確認されている限り、フランクの作品はドイツの出版者のみから刊行されています)。帰国後、45年から51年にかけてベルリンで活動し、次いでヒラーが院長を務めるケルン音楽院で1851年から59年まで教鞭を取り、ピアノ、スコア・リーディング、音楽理論を担当しました(ヒラーはフランクの後任にブラームスを据えようとしたが断られています)。52年、同市の市民合唱協会の会長にも任じられ、同市の音楽院および音楽活動の発展に大きく寄与しました。彼の《ピアノ三重奏曲》作品22はフェルディナント・ヒラーに捧げられています。59年に彼はベルンに移り、名誉教授および博士として67年まで同地の音楽院で教えました。同年、ベルリンに移住したフランクは、教育者ユリウス・シュテルン(1820~1883)がテオドール・クラックらと創設したシュテルン音楽院に招かれ、78年まで同校の教授として教壇に立ちます。78年から晩年の92年まで、フランクは、かつてシュテルン音楽院で教えていたエミール・ブレスラウアー(1836~1899)が創設した音楽学校で教えました。
フランクは、自己批判の強い性格から、自作品をあまり出版しませんでした。76年という比較的長い生涯にも拘わらず、彼は作品番号にして62番までしかありません(しかも、作品30番台は出版されなかったようです)。
フランクが出版した作品は、歌曲集(作品4, 8)を除けば、器楽曲に限られています。管弦楽作品には、演奏会用序曲(作品12)、ピアノ協奏曲(作品13)、幻想曲(作品13)、交響曲(作品47)、室内楽にはチェロ・ソナタ(作品6)、ヴァイオリン・ソナタ(作品42、60)、ピアノ三重奏曲(作品11、58)、弦楽四重奏曲(作品49、55)、弦楽五重奏曲(作品15、51)、ピアノ五重奏曲(作品45)、弦楽六重奏曲(作品41、50)があります。ピアノ独奏作品では、9曲のソナタ(作品40、44)、練習曲集(作品1)、前奏曲集(作品18)、幻想曲(作品61)、および種々の性格小品集があります。
フランクの様式は、古典的フレーズ構造、和声体系を重んじており、師メンデルスゾーンの厳格な系譜に属します。初期には師メンデルスゾーン風の語法も見られるものの、後年の室内楽にはいっそう自由でゆったりとしたおおらかさ、ヒラーを思わせる思いがけない展開を聴くことができます。PTNAピアノ曲事典に登録されている《40の小品》作品43-7には、恐らくメンデルスゾーンを介して学んだバッハの教会カンタータ風の様式が顕著です。近年では再評価も進み、録音や校訂楽譜が制作・販売されるようになっています。彼の前奏曲 息子のリヒャルト(1858~1938)もピアノ奏者および作曲家となりました。
- 参考文献・サイト:New Grove Online
- フェッファーコルン音楽出版社ホームページ