ピティナ調査・研究

Category I 「祈り」

Category I 「祈り」

ここではグノーの余りに有名なJ.S.バッハによるメディタシオン(アヴェ・マリア)を含む4つの祈りにまつわる作品を挙げた。名手アレクサンドル・ゴリアに書かれたグノー自身のピアノ独奏版は、恐らく過酷な跳躍が連続する内容故に拡まらなかったと思われる。

グノー
(録音:2016/1/25)
シャルル・グノー
Charles Gounod

1818.6.17 パリ生- 1893.10.18 サン=クルー没

シャルル・グノーはピアニストではありませんでした。父は画家、母は音楽愛好家で、幼少時に母から音楽の手ほどきを受けますが、普通教育にも抜かりなく、由緒正しいサン=ルイ高校に学び哲学のバカロレア試験(大学入学資格試験)に合格しています。母の勧めでパリ音楽院教授アントニン・レイハについて作曲を学び始め、36年にパリ音楽院に入学、37年にフランス学士院が主催する作曲コンクールでローマ賞の二等賞を得ます。二年後、ついにローマ大賞を得た彼は、40年にローマに留学、音楽(パレストリーナ、モーツァルト、グルック、ロッシーニ)、文学(ゲーテ)、彫刻、絵画(ラファエロ、ミケランジェロ)など、広く芸術に親しみます。42年にウィーンを訪れ、自作のミサ曲が上演されました。その後、訪れたベルリンでメンデルスゾーンの姉ファニー・ヘンゼルと再会し、彼女の紹介で、グノーは43年、ライプツィヒでメンデルスゾーンと出会い、バッハの音楽を深く知るきっかけとなりました。この出会いが、《アヴェ・マリア》創作の一つの伏線になっていると考えられます。更に、同年、パリではチェルニーが校訂したバッハの鍵盤作品が「全集」として出版されており、グノーもチェルニー版のバッハの楽譜を参照していたとされます。

43年に帰国後、彼は宗教音楽作曲家、オルガニストとして、キャリアを積みます。彼が後に、足鍵盤付ピアノ用の協奏曲を書いていることからも分かるように、ピアニストではなかったにせよ、鍵盤楽器演奏の心得は、職業として成立できる程度にはあったということが分かります。金澤さんが指摘されている「過酷な跳躍」は、恐らく、オルガンであればもっと容易に演奏できるはずです。グノーは、オルガン的な発想でこのピアノ版を作成したと言えるでしょう。

鍵盤音楽との接点についてもう一つ重要なことは、彼が結婚したアンナの父ヅィメルマン(1785~1853)がパリ音楽院ピアノ科の名教授だったことです。グノーの結婚時、ヅィメルマンは教授職を退いていましたが、彼の自宅には、かつての弟子たちが師を慕って訪れていました。グノーが《瞑想曲》を献呈したアレクサンドル・ゴリア(1823~60)は、ヅィメルマンの門弟で、彼の可愛がったピアニスト兼作曲家でした。同時代の批評家のレオン・ガタェスが伝えるところによれば、この《瞑想曲》はヅィメルマンのために特別に作曲され、ゴリアは53年、マルモンテル宅で内々に行われた室内楽版注1の初演にも参加しています。ピアノ、オルガン、ヴァイオリンのために書かれたこの室内楽版は、ヅィメルマンへの献辞とともに出版されました。

10月、ヅィメルマンは病で亡くなりました。本作は、敬愛する義父ヅィメルマンの恢復を願った祈りだったのかもしれません。(解説:上田泰史)

  • 注1:この作品のオリジナルはオーケストラと混声合唱、独奏ヴァイオリンのために書かれました。

 シャドのOp.43はエルマン(Le R.P.Hermann)の賛美歌を主題とする変奏形式のトランスクリプション。相当な名技性を発揮しながらも、それを誇示することなく、内省的で質素な印象を与えるのが、この作曲家の持ち味といえよう。

シャド
(録音:2016/1/29)

1812.3.6シュタイナハ生-1879.7.4 ボルドー没

地方で活動したローカルな音楽家たちは、しばしば音楽史の盲点です。ことに、首都パリに行政・教育機能を集中させたフランスでは、音楽史はパリを中心に語られることが多く、地方の音楽家の研究は得てして後回しにされがちです。この場合、地方からパリに出てきて活躍した音楽家は幸いですが、活躍の場を地方都市に求めた作曲家は、パリの音楽家に比べて、陽の目を見る機会がずっと少ない、ということになります。

南仏ボルドーで活躍したシャドは、そうした「ローカルな名手」の中でも大変優れた技巧をもつピアニスト兼作曲家でした。とはいえ、彼のドイツ出身地はドイツのシュタイナハという町です。この町は当時、バイエルン王国の北部(現在のチューリンゲン州南部)に属していました。彼は、シュタイナハの南東に位置するヴュルツブルクの名高い音楽理論家ヨーゼフ・フレーリヒ(1780~1862)に師事しました。フレーリヒは、19世紀初期に同地で音楽学校を立ち上げた人物で同地の音楽界の重鎮でした。シャドは次いでアロイス・シュミット(1788~1866)に師事しました。シュミットは、19世紀ドイツ音楽界の重鎮フェルディナント・ヒラーを指導した優れた教育者であり、また、ピアニスト兼作曲家でもありました。バイエルン王国出身のシュミットは、1816年からフランクフルトに住んでいましたが、その後、ベルリンを経て、1825年から29年まで、ハノーファーで宮廷ピアニストとしての生活を送ります。シャドがシュミットの指導を受けたのは、ヒラーと同様、おそらくヴルツブルクからそう遠くない、フランクフルトにおいてだったと考えられます。学習時代を経て、ライン地方、スイスで演奏旅行したシャドは、その才能を買われて1836年11月から39年8月まで、ジュネーヴ音楽院のピアノ教授を務めました。1842年から45年にかけて、シャドの名前はパリの音楽雑誌を賑わせます。華麗な自作品を演奏し、フランスでの名声を確立したのち、45年にボルドーに移住、亡くなるまでここで半生を過ごしました。生涯に100点あまりのピアノ曲(編曲、オペラ等の主題による幻想曲、ワルツ、ノクターン、その他の性格的小品)を出版しましたが、中でもフランツ・リストへのオマージュとして彼に献呈された《独奏ピアノのための協奏曲》作品62は、シャドの優れた構成力と高度な演奏技法の両面を遺憾なく示す大作です。


レイバックは愛好家向けのサロン小品を400曲以上も作曲したが、それらは重厚な和声感覚を備えた彼独自の書法になっている。このショパンの門弟とされる作曲家は「下町情緒」に通じる魅力があって、その芸術的価値は演奏者の趣味、センスによって大きく変動する。

レイバック
(録音:2016/1/29)
イグナース=グザヴィエ=ジョゼフ・レイバック
Ignace-Xavier-Joseph Leÿbach

1817.7.17 ガムスハイム生- 1891.5.23, トゥールーズ没

パリから遠く離れた街に生まれ、パリを経由して再び別の地方へと移住したという点で、レイバックとシャドには一脈通じるところがあります。彼も例にもれず、レイバックもこれまでほとんど研究されておりません。レイバックは、アルザス地方、オー=ラン県のガムスハイムに生まれました。この町は、ストラスブールの北北西約15キロメートルに位置し、ライン川に接しています。川の対岸はもうドイツです。レイバックは、この町で兄から音楽の手ほどきを受け、次いで、ストラスブールでフィリップ・ヘルターPhilippe Hoerter (1895-1863)に和声と対位法を、ジョゼフ・ヴァッケンタレールJoseph Wackentaler(1795~1869)にオルガンを師事しました。ヴァッケンタレール師は父の代から続く音楽家一族で、ストラスブール大聖堂の楽長を務めていた著名な音楽家でした。1838年、彼は兄がオルガン奏者を勤めていたサン=ピエール=ル=ヴュ教会で、兄の後を引き継ぎました。

レイバックは、ピアノとピアノ音楽が大きな変革期を迎えていた30年代の末~40年頃、パリに到着し、ピクシス、カルクブレンナー、ショパンに師事したとされています。しかし、彼が作品を出版するのは、ようやく30歳を過ぎてからでした。1891年6月7日に『ル・メネストレル』紙に掲載されたレイバックの死亡記事(これは、後の伝記記事の典拠になっている)によれば、彼は1847年に初めて自作品を出版したとされますが、この年代に出版された楽譜を、筆者は確認していません。フランス国立図書館に所蔵されているもっとも古い彼の作品は《田舎風のイディール第1番》作品10で、1852年刊です。1844年に、レイバックはトゥールーズ大聖堂のオルガニストに選抜され、以後、73歳で亡くなるまでこの街で活動しました。前半生に作品を出版しなかったにも拘わらず、驚くべき多作家で、作品番号にして290番までの作品があります。大部分はピアノ独奏作品で、オペラの主題に基づく幻想曲、トランスクリプション、独創作品(性格的小品)、更に、教育的作品では、ピアノとハルモニウムのための作品、4ヶ国語に翻訳された『ハルモニウムの理論的・実践的メソッド』(1864刊)、『実践的オルガニスト』があります。彼の作品は、フランスのみならず、ドイツ、イタリア、ハンガリーなど、ヨーロッパ諸国で広く出版されました。


 エヴェルスは5曲のピアノソナタ、連作「愛の歌」Op.13、「晴天の日、嵐の日」Op.24等が示すように大作志向の人である。大らかで劇的な身振りを特徴としている。

エヴェルス
(録音:2016/1/29)
カール・エヴェルス
Carl Evers

1819.4.8 ハンブルク生-1875.12.31 ウィーン没

パリ以南まで活動の場を広げたシャドやレイバックに比べると、エヴェルスはむしろ、生涯の多くをドイツ語圏で過ごしたピアニスト兼作曲家です。

北ドイツのハンブルクに生まれたエヴェルスは、6歳のとき、ヤーコプ・シュミットJakob Schmitt(1803~1853、シャドを指導したアロイス・シュミットの弟)からピアノの手ほどきを受けます。12歳で、地元ハンブルクで演奏会を開くほどに上達し、やがて周辺各国の都市で演奏を行うようになりました。1834年から翌年にかけての旅行では、再びデンマーク、ウェーデン、そしてロシアのサンクトペテルブルクまで足を伸ばしています。1837年の旅行で訪れたハノーファーで、エヴェルスは、1830年から同地で宮廷楽長を務めていたハインリヒ・アウグスト・マルシュナー(1795~1861)から和声を、ツィーガーZieger(生没年不詳)からオルガンを学び、次いで、27年からハンブルク劇場で指揮者を務めていたカール・アウグスト・クレプスCarl August Krebs(1804~1880)に作曲を師事しました。38年にライプツィヒを訪れ、メンデルスゾーンと親交を持ち、助言を受けたとされます。41年、パリを訪問し、ショパン、オベールから歓迎された。また、同年に訪れたというウィーンでも、ヴィルトゥオーソとして名声を博しました。彼は、翌年、再びパリを訪れ、演奏会に参加しています。当時の音楽雑誌の記事を見ると、エヴェルスは2月27日の演奏会で「メンデルスゾーンのスケルツォ」(告知では「前奏曲」)と彼の自作「オクターヴの練習曲」(恐らく作品8)を「想像を絶する速さで」演奏したといいます。パリには1845年にも訪れ、演奏会を開いています)。その後、彼は58年にグラーツに居を定め、音楽商を営んで過ごしたとされますが、彼の最後の20年、どのような生活を送ったのか、詳細を伝える史料は今のところ筆者は目にしていません。彼は79年にウィーンで没しました。

エヴェルスは、同世代の多くのヴィルトゥオーソとは異なり、オペラの主題に基づく幻想曲には全く関心を示しませんでした。彼の作品の大部分はオリジナル作品で占められており、しかも、その多くは大規模でシリアスな様式で書かれています。ピアノ独奏用のソナタが5作、連弾用のソナタが2作のほか、性格的作品(12曲から成る《うららかな日々と嵐の日々》作品24など)、幻想曲、舞曲(マズルカ、タランテラ、ポルカ)、室内楽(弦楽四重奏2作、ヴァイオリン・ソナタ1作)、歌曲のジャンルを手がけ、作品番号にして107番が確認されています。エヴェルスの作品は、今日、演奏会で弾かれても、聴き手を惹き付ける深刻さと、交響的なダイナミズムを備えたピアノ作曲家と言えます。


 こうした世代100人の個性を知ることは、100色の色彩を知るが如く。同系色の微妙な色合いの違いが伝えられる必要がある。「ショパンに近い人」「リストに似た人」がいたからと言って、それがイコール彼らの影響を受けたことにはならない。それこそが同じ時代を生きていた人間の共通性である。各人本来の個性と時代の流行との識別は、同時代人たちを知ることで初めて可能となる。

 ここで重要なことは、有名作曲家は優れていたが故に残り、無名作曲家は劣っていたが故に忘れられた、とする洗脳的な思い込みからの脱却である。人の多い大都市のみが重要で、他の所は知る必要がない、ということでは地図は作成できず、その「大都市」の位置すらはっきりしない。町の魅力と人の多さは無関係である。その周囲には何があったのか。

ピアノ開花期の原風景を巡る旅が、ようやく実現する。

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