リュクサンブール公園
75006 Paris
(RER) (B) Luxembourg M④&⑩ Odéon
M⑫ Notre-Dame-des-Champs
M④ Vavin
M④ Saint-Sulpice
リュクサンブール宮殿は、フィレンツェからフランス王家に嫁いできた、アンリ4世の王妃でルイ13世の母、マリー・ド・メディチ Marie de Médicis(1575 - 1642)が、フランソワ・リュクサンブール公爵の屋敷を買い取り、イタリア風に改装した宮殿。リュクサンブール公園はこの宮殿の庭として1612年に開園。フランス大革命以降、元老院(上院)の議場がチュイルリー宮殿からリュクサンブール宮殿へと移転した為、22.45 ヘクタールの庭は元老院の所属となった。四季折々の花に彩られた園内には歴代のフランス王妃や女聖人、ショパン、ジョルジュ・サンド、ドラクロワ等の彫像、自由の女神の原型像が点在し、ロング・ポームのコートやペタンク場、チェス・テーブルの並ぶ一画も。人形劇場やポニーに騎乗しての散歩など、子供の遊び場も充実している。暖かい季節にはミニ帆船をレンタルして水に浮かべるのが大人気。世代を超えたパリ市民から "都会のオアシス" として愛されている公園。
それぞれの像の位置確認は下記のサイトで
www.senat.fr/visite/jardin/statues.html
出入口は複数あるが、ショパンの像はvavin で下車し、リュクサンブール公園に向けて伸びる Vavin 通りの突き当たりから入って、クロケット場を通り過ぎた辺りの木陰にひっそりと佇んでいる。さらに直進すると、自由の女神像。サンド像は宮殿に向かって右側の、Luxembourg 側から入って直ぐ。
Vavin口から入って道標を左に折れた木陰に、フレデリック・ショパンの胸像がひっそりと佇む。1900年に設置されたポール・デュボア Paul Dubois (1829-1905)によるショパン像は1942 年に失われて撤去されたが、ショパン没後150年を記念して、1872年に作成されたボレスワフ・サイレウィッチBoleslaw Syrewicz(1835~1899)による大理石像のレプリカが、ポーランド政府より寄贈された。
オリジナルは1929年よりワルシャワの国立博物館に収蔵されている。
フランスがアメリカ建国100周年を祝って1886年に寄贈したニューヨークにある自由の女神の原型(「白鳥の散歩道」に設置されている女神像はパリのアメリカ人会がお返しにフランスに贈ったもの)。
ウジェーヌ・ドラクロワの絵『民衆を導く自由の女神』とバルトルディの母親をモデルにデザインされたこのモデルは、1889年、フレデリック・オーギュスト・バルトルディ自身の発注で制作され、1900年のパリ万博に出展。その後、バルトルディはこの像をリュクサンブール美術館に収めることを望んだが果たされず、彼の死後、未亡人の提案によって1906年から2011年までの115年間、庭園に置かれた。2012年7月、像は修復のために取り外され、修復後はオルセー美術館に収蔵。現在の像はその複製である。
フランソワ=レオン・シカ―ルFrançois-Léon Sicard (1862-1934)作 サンド像。
ジョルジュ・サンド George Sand (1804-76) 生誕100周年を記念して1904年に設置されたもの。男装のイメージとはかけ離れた、フェミニンな姿が印象的。
1840年から1846年にかけてリュクサンブール宮殿 (上院) 図書室の天井画を描いたウジェ
ーヌ・ドラクロワのモニュメント。
ヴィクトル・ユーゴーの義理の弟で、ドラクロワを敬愛していたオーギュスト・ヴァキュリーAuguste Vacquerie (1819 - 1895)が彫刻家のジュール・ダルー Jules Dalou (1838-1902)に依頼した作品(1884 - 1885)。
記念碑に組み込まれている天使は「時」「栄光」「天性の芸術的才能」を意味する。
15 rue de Vaugirard
L'hémicycle la salle des Séances
アルフォンス・ド・ジゾルAlphonse de Gisors(1796-1866)の設計に基づき、1836年から1841年にかけて作られた会議場。小さな半円の中にはテュルゴー、コルベール、マルゼルブ等、フランスを代表する政治家や法律家の7体の像が置かれている。
シャルグランChalgrin (1739-1811)のデザインをもとに、ヤコブ=デマルテJacob-Desmalterが金箔を施したもので、両脇には帝政様式の典型である2頭のスフィンクスが施されている。
マリー・ド・メディチの死後、ヨーロッパ初の絵画美術館として一般公開されたギャラリー。その後、開閉を繰り返し、美術館のヴォジラール通りに沿った棟への移転に伴い、図書室別館として再構築された。アーチ形の天井には12星座をモチーフにした天井画が美しい。
ダンテの神曲をモチーフにしたドラクロワの天井画で有名な書庫。 全長65メートル、幅7メートル。19世紀には、高踏派詩人ルコント・ド・リルLeconte de Lisle (1818-1894)やアナトール・フランス Anatole France(1844-1924)らが司書として在職していた。
『黄金の手箱に入れられたホメロスの詩を語り聞かせるアレクサンドロス大王』
ペルシャ軍との戦いの後、戦利品の黄金の箱にホメロスの詩を入れるように命じるアレキサンダー大王が描かれている(1847年完成)。
hôtel de la Présidence
17–17 bis, rue de Vaugirard
ルイ=フィリップ治世下では、フランスの王党派政治家で貴族院の大審判官であったドゥカズ公爵Duc Decazesが駐在し、ショパンは1836 年にここで演奏している。
第一執政官であったサポレオンは、1799年11月からチュイルリーに移るまで、此処を拠点にしていたと考えられている。家具の殆どは帝政時代のもの。
1625年、マリー・ド・メディチは1617年に創設されたベネディクト派カルワリオ修道女会Fille du Calvaireの尼僧院をプチ・リュクサンブールの近くに設置。王妃のプライベート・チャペルとこの院のチャペルは連絡通路で結ばれていたが、教会と修道院は1844年に破壊された。現在のチャペルはアルフォンス・ド・ジゾルが翌年の1845年から1854 年にかけて、装飾をネオ・バロック様式に改装し、旧教会通路の一角に再現したもの。
H.ベルトー Berteaux(1894)作。
ジェルマン・ボフランGermain Boffrand (1667-1754)は当時の宮殿所有者コンデ公アンリ3世の逝去に伴い、未亡人となったアンヌ・ド・バヴィエール公妃 Anne de Bavière (1648 -1723)に宮殿の近代化と再設計を委託され、中庭に荘厳な階段とそれに続く美しいサロンを造った。
Élie Louis Decazes (1780-1860)
フランス復古王政期の首相(1819年11月-1820年2月)。
ドゥカズ伯爵から昇爵した初代ドゥカズ公爵。
ルイ18世の信頼を得て政界で頭角を現す。七月王政下では1834年9月に貴族院(フランス上院議会) の大審判官に任命され、会議室や図書館の拡張、庭園内の整備等、数多くの改良が彼の就任中に進められた。1848年の二月革命を機に引退。後年は実業家として活躍し、園芸や農業協会にも積極的に貢献した。
Théâtre de l'Odéon
75006 Paris
+33 1 44 85 40 40
M④ & ⑩ Odéon
(RER)(B)Luxembourg
1782 年 4 月、王立劇団コメディ・フランセーズの劇場として、ルイ16 世の王妃マリー・アントワネット臨席のもとに開場。長らくコメディ・フランセーズのセカンド劇場として使用されたが、1900年にコメディ・フランセーズから離れ、現在は既存の演目の上演と諸外国の劇団や演出家による公演を両立させる、約1000 席のヨーロッパ劇場 Théâtre de l'Europe となっている。1844 年 4 月、ショパンはサンドと共にこの劇場を訪れ、ソポクレスSophocleの『アンティゴネ』Antigoneを観劇している。
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。