ピティナ調査・研究

第10章-2 二月革命の勃発

パリ発~ショパンを廻る音楽散歩2019
第10章-2
二月革命の勃発

1848年2月、パリでショパンのコンサートが開かれた一週間後にフランスで勃発した二月革命は、 それまでのブルジョワジー主体であった市民革命と異なり、産業資本家と労働者が政府の主導権をめぐって争った政変でした。

七月革命は王政の復活によって再び増長し始めた王侯貴族を打倒して、産業資本家 ブルジョワジーと労働者が結集して起こしたので、政局は当然、共和制に移行するはずでした。ところが王族でありながら共和派を自称するオルレアン家のルイ・フィリップが王座につき、七月王政を成立させてしまいます。これは革命を首謀した、既に大きな富を蓄えていた一部の 金融家らが更なる私服を肥やす為に採った政策でした。「フランス国」ならぬ「フランス人 民」の王と自称して即位したルイ・フィリップでしたが、実質的には裕福なブルジョワ階 級のみを擁護する体質で、イギリスに継ぐ産業界の隆盛によって農村から流れ込んだ労働 者や一般庶民は、共に革命の担い手であったにも関わらず政権外に退けられ、革命の利益 は全て富裕な銀行家や大地主などの、一握りの階層の支配下に独占されていました。

このように、七月王政の実態は政治的には制限選挙王政、経済的にはブルジョワ 金融態勢で、選挙権は相変わらず高額納税者に限られ、政治に参加することは一部の上層ブルジョワジーしか認められていませんでした。この事実は国民の大半を占めていた農民ばかりでなく、実際に七月革命を推進した中小規模の商工業者や労働者の国政への参加拒否を意味することになります。

こうした七月王政下での不平等な選挙制度や生活レベルの改善を求めて、労働者や農民達は改革宴会と呼ばれる政治集会を度々実施し、この改革宴会はしだいに1848 年の二月革命の要因となる選挙法改正運動へと発展していきます。そして、七月革命から18 年を経た1848 年 2 月 22 日、ある改革宴会が政府の命令によって強制的に解散させられたことに激昂した労働者、農民、学生がデモやストライキを起こし、二月革命が勃発しました。革命勃発の翌日には首相であったギゾーが退任して沈静化が図られましたが、24 日には武装蜂起へと発展。遂に国王ルイ・フィリップが退位してロンドンに亡命することで事態は終結し、同日組織された臨時政府による 1848 年憲法の制定と共にフランス 第二共和政が成立しました。この革命の影響は大きく、三月にはヨーロッパ中に飛び火してウィーン体制の崩壊要因となり、世界が国民国家の競合する激動期に入るきっかけと なりました。また、自由主義に代わって民主主義が政治風潮の主流となり、その後二度と フランスに王制の復活を許しませんでした。

退位したルイ=フィリップ1世(1842年撮影)
パリ市庁舎前のラマルティーヌ
Lamartine devant l'Hôtel de Ville de Paris le 25 février 1848 refuse le drapeau rouge

アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリポト-Henri Félix Emmanuel Philippoteaux (1815–1884)による油彩画
1848年 2月 25日、臨時政府を代表してパリ市庁舎前で共和制を宣言するラマルティーヌと民衆の様子を描いた作品。ラマルティーヌは此処で恐怖や血を連想させる赤旗を国旗として採用することを退け、自由民主主義の精神の象徴である三色旗(トリコロール)をフランス国旗として掲げた。

アルフォンス・ド・ラマルティーヌ Alphonse de Lamartine (1790 - 1869)
フランス・ロマン派を代表する詩人・著作家。 マコンの貴族に生まれ、王政復古期に一時、軍に籍を置いたが、後に外交官となり、1825 年から 1828 年までイタリアに駐在。 1820 年に『瞑想詩集』Méditations poétiques を、 1830 年に『詩的で宗教的な調べ』Harmonies poétiques et religieuses を発表。フランツ・リスト(1811-1886)はこの詩集からインスピレーションを得て1853年に全10曲から成る同名の曲集を完成させた。 7 月革命を機に政治活動を開始し、ブルジョワ共和派として1848 年の 2 月革命で臨時政府の外務大臣に就任。同年 12 月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン 3 世)と争って敗れ、1851 年のクーデターで政界を引退した。

ショパンはパリに暮らしながら、二月革命よりも、そのひと月後に連鎖的に起こったプロイセン統制下のポーランド・ポズナン大公国の蜂起と存続に関心を抱き、祖 国の再興を目指してポズナンに向かったポーランドの友人たちの安否を気遣っていたようです。そんなショパンとは対照的に、サンドは労働者や農民を擁護する社会主義運動に積極的に加わり、作品を通して改革への熱意を表明しました。ノアンの田園地帯で少女時代を過ごしたサンドにとって、農村は身近な存在でしたが、パリの社交サロンを舞台に一般大衆を意識することなく活動してきたショパンにとっては、芸術家としての自分を死の直前まで 支え続けてくれたパリの上流階級と対立して、それまで接点のなかった労働者や農民での 視点から社会生活を考えることは不可能であったことでしょう―このような社会情勢 に対する二人のスタンスの違いは、既に隙間風の吹いていた二人の溝を深めるのに一役買ったといわれています。二月革命の一年後、世界が大きな変換を遂げた時期にショパンはその生涯を閉じましたが、時の流れと共に、彼の作品は国境も世代も階級も越えた、世界 中の人々に愛されるようになりました・・・

二月革命暫定政府メンバー
1848年2月24日
アシル・ドヴェリア Achille Devéria (1800‐1857)

上:左から右に、ガルニエ・パージェ、マラス、フロコン、クレミュー、労働者アルベルト(アレクサンドル=アルベール・マルタン)、ルイ・ブラン
下:ラマルティーヌ、マリー、デュポン・ド・リュール、ルドリュ=ロラン、アラゴ
フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810-1849)

作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。

クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。

ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。