第10章-1 ペール・ラシェーズ墓地
Cimetière du Père-Lachaise
16 Rue du Repos
75020 Paris
周囲の必死の看病にもかかわらず、ショパンの病状は日毎に悪化し、1849 年 10 月17 日の午前 2 時、遂に息を引き取ります。告別式は 10月30日にマドレーヌ寺院で行われ、パリの楽壇と文壇を代表する人々が多数参列し、遺体はペール・ラシェーズ墓地に葬られました。一周忌には『嘆きの天使』と題された、サンドの娘の夫で彫刻家のクレサンジェによる記念碑がショパンのお墓に置かれます。ショパンの遺志に従って、彼の心臓は姉のルドヴィカがポーランドへ持ち帰り、ワルシャワの聖十字架教会に安置されました。
1849 年 10 月 17 日。 テオフィル・クフィアトコフスキによる水彩・鉛筆画。
Teofil Kwiatkowski(1809‐1891)
ポーランド中部の貴族の家に生まれ、フランスで活躍した画家。
1830年に勃発したロシア帝国支配に対する武装反乱<11月蜂起>に参加し、その挫折後、アヴィニョンを経てパリへ亡命。アダム・ミツキェヴィチの知遇を得た後、ショパンと出逢い、数多くの肖像画を描く。
晩年はブルゴーニュで創作を続け、印象派の陰に隠れてしまった時代の最も傑出した画家のひとりとして評価されている。
テオフィル・クヴィアトコフスキTeofil Kwiatkowski(1809‐1891)による油彩画。 家族と友人に囲まれたショパンの最期。向かって左からアレクサンドル・イェウォヴィツキ神父、姉のルドヴィカ、マルツェリーナ・チャルトリスカ公妃、ヴォイチェフ・グジマワ、クフィアトコフスキ(画家)本人の姿が描かれている。
アレクサンデル・イェウォヴィツキ Aleksander Jełowicki (1804-1877)
ショパンの学生時代からの知人。音楽的素養に恵まれ、自身もピアノを演奏し、プレイエルを愛用していた。
ワルシャワ11月蜂起に参加してアダム・ミツキェヴィチらと共にフランスへ亡命。パリ到着(1832年7月)後は亡命ポーランド人が設立したさまざまな文化的・政治的組織のメンバーとなり、印刷所を経営して隣人であったアダム・ミツキェヴィチの著作集全館を私費出版する等、ポーランド人による書籍の編集や発刊に携わり、多くのポーランド人作家をフランスに紹介した。1841年12月に叙階の秘蹟を受けて司祭となり、1844年にパリのサン=トノレ通り296番地の聖ロック教会、続いてポーランド人カトリック信者のパリの拠点となっていたサン=トノレ通り263番地のノートル=ダム=ド=ラサンプション教会でポーランド・カトリック宣教団長を務めた。アレクサンデル・イェウォヴィツキ神父は最晩年のショパンを頻繁に訪れ、1849年10月13日にショパンの告解を聞き、聖体拝領し終油の秘匿を授けた。この油彩画は神父によって保管されていたが、彼の死後、ポーランドに運ばれ、1964年にワルシャワのショパン協会に売却された。現在はショパン博物館蔵。
Ludwika Jędrzejewiczowa(1807‐1855)
ショパン家の長姉。聡明で音楽と文学の才能に恵まれ、娘時代から妹のイザベラと共に慈善活動に参加する等、社会的にも貢献していた。1844年の7月から9月にかけて、父親の死にショックを受けたショパンの悲しみを和らげるために夫のカラサンティと共にパリを訪れた際、ノアンの館にも招かれ、サンド家やその友人たちと親交を深めた。ルドヴィカとサンドはそれ以来、信頼と友情で結ばれ、心のこもった書簡のやり取りしていた。1849年6月末、病に臥したショパンの看護のために再び一家で駆けつけ、その臨終を見届ける。姉弟の絆は深く、ショパンから『レント・コン・グラン・エスプレッシオ―ネ』の手稿(1830)やノクターン作品15の初版(1834)を贈られていた。ペストに感染しワルシャワで死去。
Princess Marcelina Czartoryska
マルツェリーナ・チャルトリスカ
Marcelina Czartoryska (1817 − 1894)
ショパンの愛弟子。ポーランドの大貴族、ラジヴィウ家に生まれ、1840年にチャルトリスキ家に嫁ぐ。ウィーンでカール・ツェルニー、パリでフレデリック・ショパンに師事し、ヨーロッパ各地でコンサートを開催。その才能は周囲に高く評価され、フランツ・リスト、ポーリーヌ・ヴィアルドらとも度々共演した。1867年にポーランドに帰国し、1869年よりクラクフに居を構え、クラクフ音楽協会や音楽院の設立に尽力した。
Wojciech Grzymała (1793 − 1871)
ポーランド貴族の家系に生まれ、ワルシャワ公国の軍事施設で訓練を受けた後、公国軍の将校として活躍。1815年以降、ナポレオン失脚後のロシア帝政下においても、財務委員会の国務長官、国家評議会のメンバーなどの要職に就いたが、ポーランドへの愛国的姿勢が問題視され、ニコライ1世が即位した翌年の1826年から1829年2月まで収監される。1830年11月蜂起の際には独立を望むチャルトリスキ陣営を擁護する立場をとり、ロンドンやパリに赴いてポーランド側への武器供給や財政支援の交渉役となった。蜂起失敗後はパリに留まり、チャルトリスキ公と共にポーランド歴史文芸協会の共同創設者となってポーランド出身の亡命芸術家を支援。既にワルシャワで顔見知りであったショパンとはパリでの再会後に友情を深め、ショパンが最期を迎える日まで、年長の頼れる相談相手として強く慕われていた。
Pl. de la Madeleine 75008 Paris
+33 (0)1 47 42 39 84
foyerdelamadeleine@orange.fr
M⑧⑫⑭ Madeleine
月~金 11:45~14:00 (ランチのみ)
マドレーヌ寺院の地下食堂。
寺院の正面入口の右側に食堂専用の入口が有り、受付で会員手続きをしてから入店。
メニューと料金(2020年現在)
ランチ:会員料金10ユーロ (ヴィジター:19ユーロ)
既にテーブルに置いてある前菜を選び、2種類のメイン料理からひとつ選択
1ユーロでチーズ又は本日のデザート追加可
1ユーロでコーヒー、紅茶、ハーブ茶等のドリンク追加可
16 rue du repos
75020 Paris
+33(1) 55 25 82 10
Cimetière du Père Lachaise - Ville de Paris
③Père-Lachaise
③Gambetta
Philippe Auguste
Alexandre Dumas
ペール・ラシェーズ駅を出たところにPorte des Amandiers。 さらに墓地に向かってBoulevard de Ménilmontant を右(東)に下った正門Port Principalで無料地図が配布されている。
Philippe Auguste駅からはRepos通り沿いのPorte du Repos。
Alexandre Dumas駅からはPorte de la Réunion。
Gambetta駅からはPorte Gambetta。
石畳の道は歩きにくいのでヒールは避けて。
CHOPIN Frédéric の墓/11 区画
BELLINI Vincenzo(1801‐1835)の墓 / 11 区画
CHERUBINI Luigi(1760– 1842)の墓/11 区画
イタリアのトスカーナに生まれ、1788年にパリに定住。1822年にパリ音楽院院長に就任し81歳の長寿を全うした。
François Antoine Habeneck (1781- 1849)の墓/11 区画アブネック
68 歳でショパンと同じ年に亡くなった。
1801 年にパリ音楽院に入学し、ピエール・バイヨにヴァイオリンを師事。パリ・オペラ座管弦楽団で首席ヴァイオリン奏者を務めた後、1806 年に音楽監督、1821 年から 1824 年まで指揮者を歴任。1828 年から、パリ音楽院管弦楽団の指揮者を 20 年にわたって務め、1828 年には終身指揮者に就任。アブネックがフランス国内に広めたベートーヴェンの交響曲を基に、ベルリオーズやワーグナーはそれぞれの創作スタイルを追求した。
Ignaz Pleyel (1757-1831)の墓/13 区画
オーストリア出身の作曲家で1783年よりストラスブールの大聖堂で副楽長を務め、1789年に楽長に就任。フランス大革命によって教会内での音楽活動が廃止された為、ロンドンへ渡りコンサート・シリーズを率いて大金を稼ぎ、ストラスブールへ帰還した際、城を購入した。1795年からパリに定住し、音楽出版社を立ち上げてハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンらの作品を出版。1805年にピアノ製造所も開業し、1824年に勇退した。
Camille Pleyel (1788-1855)の墓/13 区画
ストラスブールに生まれ、父親の後継者としてプレイエル・ピアノ工房の経営に加わり、コンサートホールを創設してショパンやリスト等、共同経営者のカルクブレンナーと共に才能豊かなピアニストをサポートした。特にショパンとの関係は深く、プレイエル商会はショパンのパリとノアンの両住まいにピアノを貸し出し、コンサートの際は楽器の提供や集客など、あらゆる面でバックアップした。ショパンも、タッチの変化が直接反映できるプレイエル・ピアノのシンプルな打弦機構を好み、私的なサロンや公の場でプレイエルの多種多様なモデルを好んで演奏し、弟子や社交界を通してプレイエル・ピアノの販売に大きく貢献した。
Auguste Jean-Baptiste Clésinger(1814-1883))の墓/10区画
私生活では多額の借金かかえてトラブルも多かったが、その才能は周囲に高く評価され、 彼の作品はリュクサンブール公園やプティ・パレ、オルセー美術館などに所蔵されている。パリの美術界で活動していたクレサンジェはジョルジュ・サンドと親交を深め、1847 年に娘のソランジュと結婚。ほどなくサンドと折り合いが悪くなったこのカップルはショパン を頼り、詳しい経緯を知らないショパンは、求められるままに二人を援助してしまう。こ のことがサンドの逆鱗に触れ、彼女は 9 年間続いたショパンとの関係にピリオドを打ち、娘夫婦とも距離を置く。ショパンと彼らの交流はサンドとショパンの別離後も続き、ソランジュは パリで 39 年の生涯を閉じたショパンを看取り、クレサンジェはデスマスクと左手の石膏像、 ショパンの墓の記念碑を制作。この彫像は 2008 年、フランス歴史的記念物に指定されている。
クレサンジェはショパンのお墓の数歩先の左側の小さな階段脇に、彼のモデルを務めていた Berthe de Courrière(1852-1916)、クレサンジェの死後、彼女の 伴侶となった象徴主義の詩人、レミ・ド・グールモンRemy de Gourmont(1858-1915)と共にひっそりと眠っている。
ROSSINI Gioacchino (1792-1868)の墓/4 区画
MUSSET Alfred(1810 - 1857)の墓/4 区画
BALZAC Honoré (1799-1850)の墓/48 区画
Eugène DELACROIX (1798-1863)の墓 / 49 区画
パリ近郊の革命政府の高官の家に生まれたが、実際はフランス有数の大貴族で政治家のタレーランの息子という説も。若くして才能を認められ、上流サロンに出入りして時代の寵児となったドラクロワは、サンドを通してショパンと知り合い、彼の音楽家としての才能と人格に魅せられて急速に親交を深めていった。自らのアトリエにピアノを運び込んで二人の肖像を描き、サンドの領地ノアンにも長期にわたって滞在し、館内のアトリエで制作しながら互いに芸術について語り合った。サンドとの別離後もショパンを頻繁に訪問し、病に伏した最期の時までショパンを支えた。
Marie d'AGOULT(1805-1876)伯爵夫人の墓 / 54 区画
ワーグナーの義母(ワーグナーの妻コージマはマリーとリストの次女)。
フランス系の貴族の家に生まれ、幼少期をフランクフルトとフランスで過ごす。
ダグー伯爵と結婚後、貴族や芸術家を招いて定期的に演奏会を催しながら自身も歌やピアノを披露していたが、1833年にリストと出逢って恋に落ち、二人はスイスへ旅立つ。その2年後に長女を出産し、翌年パリへ戻ってラフィット通りのオテル・ド・フランスに滞在。同じ館内に住んでいたサンドと共にサロンを開く。ショパンは此処でサンドと出逢い、しだいに惹かれていった。マリーがショパンから『練習曲 作品25』(1837)を献呈されたのもこの頃。1844年4月、リストの奔放な女性遍歴に耐え切れず破局。ダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活躍した。
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。