第9章-1 ヴァンドーム広場 12番地
ボダール・ド・サン・ジャム邸
Hôtel Baudard de Saint-James
12, place Vendôme(現在はショーメ宝石店)
75001 Paris
M③⑦⑧ Opéra
M①⑧⑫ Concordo
1849年9月後半~10月17日
死を予感したショパンは長年の住まいであったオルレアン広場のアパートを正式に引き払い、看病の為にポーランドから駆けつけた姉のルドヴィカと共に、シャイヨの丘からヴァンドーム広場に面した美しいアパルトマンに移りました。
Hôtel Baudard de Saint-James
18 世紀の金融家、クロード・ボーダール・ド・サン=ジェームスClaude Baudard de Saint-James (1738‐1787)男爵が建てたネオ・クラシック様式の邸宅。内装を施したのはフランソワ=ジョセフ・ベランジェFrançois-Joseph Bélanger (1744‐1818)と画家のジャン=ジャック・ラグルネJean-Jacques Lagrenée (1739‐1821)。当時、ロシア帝国が大使館として借りており、ショパンはその一角の中庭に面した中二階の部屋で息をひき取ったと考えられている。
Place Vendôme
M③⑦⑧ Opéra
M①⑧⑫ Concordo
クーデター、革命、王の結婚など、さまざまな史上の舞台となったヴァンドーム広場。アンリ4世と愛妾ガブリエル・デストレの間に生まれた庶子、ヴァンドーム公セザールの所有地を王家が購入し、騎馬像を据えた。この彫像は 1789 年のフランス大革命で破壊されたが、1810 年、広場に皇帝ナポレオンの記念柱が新たに設置され、この時、戦勝品であった、大砲数千台分のブロンズが記念柱に鋳造されたと云う。その後、1871 年のパリ・コミューンの首謀者らにより取り壊されたが、1873 年に再建。パリ・コミューン下で文化大臣となった画家のギュスターブ・クールベは、記念柱の破壊を参画したとして、再建費用の一部負担を命じられ、スイスに逃亡してその支払いを免れたといわれている。現在、広場を囲むかつての貴族の館は、そのほとんどが史跡建造物に指定され、高級ホテルや時計&ジュエリー・ブランドが軒を連ねる、世界有数のラグジュアリーな広場に。中央にそびえ立つ円柱上のナポレオンは、今もローマ方向を睨む。
TEL +33 1 43 16 30 30
1889 年創業。ヴァンドーム広場のもうひとつの悲しいエピソードになってしまったショーメ宝石店の向かい側、15番地のリッツ・ホテル。1997 年 8月 31日、かのダイアナ妃が亡くなる直前に、最後の食事をした場所。1898年の創業以来、常連だったプルーストをはじめ、1920 年代には「パリのアメリカ人」フィッツジェラルドやヘミングウェイ、1934 年から 1971 年までこのホテルで暮らしたシャネルなど、世界中のVIPを魅了してきたパリの5つ星ホテル。ショパンの名を冠した 19 世紀の音楽サロンの雰囲気を再現したプレステージ・スイートルームが存在する。
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。