第8章-2 ピアノ・リサイタルの誕生
ヨーロッパにおけるロマン派の時代、演奏会はサロンや慈善団体から音楽ホールや市民組織による運営へと移行し、内容も数人の賛助出演者を招いてさまざまな楽器の組み合わせによる曲目を無秩序に並べるだけのコンサートから、単一楽器による統一の取れたプログラムで構成されるリサイタルという形式が生まれ、次第に定着していく過程にありました。
19世紀初頭の音楽界において、ピアニストは他の楽器奏者や歌手、室内楽団と競演して自ら作曲した作品を演奏するのが常識でした。一人のピアニストがほかの音楽家の作品を主として演奏する現在のようなソロ・コンサート、いわゆるリサイタルはまだ存在していなかったのです。
ショパンが*1832年2月25日(26日)にプレイエル・ホールで演奏したパリでのデビュー・コンサートは、以下のような形態で構成されていました。
- 1832年2月25日(26日)
長きに亘り、プレイエル・サロンにおけるショパンのデビュー演奏会は、度重なる延期の結果、フェティスの批評記事によって1832年2月26日(日)に開催されたと考えられていたが、告知やポスター、来場者の日記や手紙などから、現在では1832年2月25日(土)と推定されている。
- バイヨ、ソゼー、ユラン、ティオフィル=アレクサンドル・ティルマン、ルイ=ピエール・ノルブランによるベートーヴェン作曲「五重奏」
- トメオーニ嬢とイザンべ-ル嬢による二重唱
- ショパン自身の演奏による«ピアノ協奏曲 ホ短調»より第1楽章アレグロ
- イザンべ-ル嬢とステファンによる二重唱
- ショパン自身の演奏による«ピアノ協奏曲 ホ短調»より第2楽章ロマンス と第3楽章ロンド
~休憩~
- トメオーニ嬢、イザンべ-ル嬢、*ブーランジェ、ステファンによる四重唱
- カルクブレンナー、スタマティ、ヒラ―、オズボーン、ソヴィンスキ、ショパンによるカルクブレンナー作曲«六台のピアノの為の序奏と行進曲付きグラン・ポロネーズ»
- ブロッドによるオーボエ独奏
- トメオーニ嬢によるアリア
- ショパン自身の演奏による«モーツァルトの主題による華麗なる大変奏曲»
Pierre Marie François de Sales Baillot
ヴァイオリン奏者、教育家、作曲家。
1795年からパリ音楽院で学び、4年後に教授に就任。同僚のクロイツェルらとともに、パリ音楽院ヴァイオリン科のための教本『ヴァイオリン演奏の方法論』(1802)を執筆。弦楽四重奏を結成し、1814年より室内楽の夕べを開催して1840年まで継続した。また、1821年より1831年までオペラ座管弦楽団の第一奏者を務める。著作に『ヴァイオリンの演奏法』(1834)。
バイヨはショパンのデビュー演奏会でベートーヴェンの«七重奏曲»作品20から抜粋した3つの楽章を5重奏の編成で演奏した際、第1ヴァイオリンを担当したほか、ショパンの«ピアノ協奏曲ホ短調»を伴奏した。
Charles Eugène Sauzay
ヴァイオリン奏者、作曲家。
バイヨの娘婿。
パリ音楽院卒業後、バイヨ弦楽四重奏団のメンバーとなり、宮廷でルイ=フィリップ、後にナポレオン3世に仕える。
1860年にパリ音楽院教授に就任し、後進の指導にあたった。
Chrétien Urhan
ヴァイオリン、及びヴィオラ奏者、作曲家。
ベルギーとドイツの国境付近にあるモンシャウで生まれ、パリ音楽院でバイヨに師事。
オペラ座管弦楽団にヴィオラ奏者として入団、その後、ヴァイオリン奏者として活動。
バイヨ弦楽四重奏団にヴィオラ奏者として参加、ソリストとしても、ベルリオーズの交響曲«イタリアのハロルド»初演においてヴィオラ独奏を担当する等、多くの演奏会に出演した。
Théophile Joseph Alexandre Tilmant
フランスのヴァイオリン奏者、作曲家、指揮者。
パリ音楽院で学び、パリ音楽院演奏協会の創設メンバーのひとりとして同協会の設立と運営に尽力する。
イタリア座とオペラ座の管弦楽団でヴァイオリン奏者として活動後、イタリア座管弦楽団の指揮者に就任。オペラ・コミック座の指揮者や宮廷の礼拝堂とオーケストラの指揮者を兼任し、病で倒れるまで多忙な日々を過ごした。
Louis Pierre Martin Norblin
ワルシャワ生まれ のフランス人チェロ奏者。父はポーランドで活躍した画家のジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ。パリ音楽院で学び、イタリア座管弦楽団を経て、オペラ座管弦楽団の首席チェロ奏者。1826年よりパリ音楽院教授。門下にジャック・オッフェンバック(1819‐1880)、ショパンと親しかったオーギュスト・フランコム(1808‐1884)。
Erminia Toméoni
18 世紀から19 世紀にかけて3世代に亘り音楽界で活躍したトスカーナ州の都市ルッカ出身の一族、トメオーニ家の一員。パリ音楽院で声楽と鍵盤楽器 を学び、ブリュッセルのモネ劇場(ベルギー王立歌劇場)をはじめ、パリやリヨンのオペラ座を経て、フィレンツェの劇場にプリマ・ドンナとして出演。その後、ジェノヴァからメキシコへ向かう船が難破し、行方不明に。ロッシーニから受け取った2通の手紙から、パリでの交流が窺える。
- ローマ大賞受賞者でオペラ作家のエルンスト・ブーランジェ(1815-1900) Ernest Boulanger と特定している研究家や著作も存在するが、シャルル=アメデ・ブーランジェCharles-Amédée Boulangerの可能性が高い?アメデ・ブーランジェは1830年に結婚した妻のFanny Kunzéと多くのコンサートに出演。作曲家としても複数の歌曲を残している。
Stephen de la Madelaine
本名Étienne-Jean-Baptiste-Nicolas Madelaine
歌手、文筆家。
声の生理学や歌唱法のみならず、短編小説や物語等、沢山の著作が残されている。
Camille-Marie Stamaty
ローマでギリシャ出身の父親とフランス人の母親との間に生まれたピアニスト、ピアノ教育家、作曲家。
カルクブレンナーの高弟で、カミーユ・サン=サーンスの師。
1836年秋にライプチヒのメンデルスゾーンのもとを訪れ、短期間ながら教えを受けている。
演奏活動の傍ら、パリでカルクブレンナーの指導法を受け継ぎ、多くの弟子を抱えていた。
George Alexander Osborne
アイルランド系ピアニスト、作曲家。
神学を専攻し、ピアノは独学であったが、18歳でアイルランドを離れると、ブリュッセルでオランダ王の長男の音楽教師に任命され、ヴァイオリニストで作曲家のシャルル=オーギュスト・ド・べリオと出逢い、後にベリオとともに、ヴァイオリンとピアノのための作品を数多く残した。1830年、ベルギー革命で王家のために戦い、捕らえられ解放された後、パリに移住。フェティスやカルクブレナーに学び、ヴァイオリン奏者のエルンストとのデュオ・コンサートを度々開いた他、ピアニスト、教育者として活躍し、ショパンやベルリオーズと親交を結ぶ。1843年からロンドンに永住し、ロイヤルフィルハーモニー協会に属し、英国王立音楽院の校長となった。また、ショパン最後のイギリス・ツアーでは体調を崩したショパンを支えた。
Wojciech Albert Sowiński
ポーランド生まれのピアニスト、作曲家、音楽著述家、教育家。
ウィーンでカール・ツェルニーに学び、イタリアを経てパリに定住。演奏活動の傍ら、«ラ・ルヴュ・ミュジカル»誌に執筆し、音楽学校ャ女子校で後進の指導にもあたっていた。著書に«ポーランドとスラヴの新旧音楽家たち»。
ショパンは1834年2月25日に左手を負傷して出演不可能になってしまったソヴィンスキのサロン・コンサートの代役をリストと共に務めている。
Henri Brod
オーボエ奏者、木管楽器製作者、作曲家。
パリ音楽院で学び、ソリスト、オペラ座管弦楽団の首席オーボエ奏者として演奏するとともに、パリ音楽院演奏会教会管弦楽団のメンバーとしても活動する。1832年にパリ音楽院教授に就任。1835年より木管楽器の製作・設計に取り組み始め、音響の改良や音域を拡大して演奏の向上に貢献した。著書に二巻から成る教本 «オーボエ奏法大全» (1826~1835)。
リサイタル形式の演奏会を始めたのはイグナーツ・モシュレスです。1837年2月に〖クラシック・ピアノフォルテの夕べ〗と題したコンサート・シリーズをロンドンで開始した彼は、短い声楽曲を織り交ぜながらもオーケストラやアンサンブルの助けを借りず、ベートーヴェンやウェーバーのソナタ等、過去の作曲家の作品から鍵盤曲だけを選んで演奏しました。この独奏を中心とした新しいプログラム構成は、演奏の質と共に聴衆や楽壇の高い支持を得、その後の演奏会の有り方に革新的変化をもたらしました。
Ignaz Mocheles
ピアニスト・作曲家。
プラハで、裕福なユダヤ系の商人の息子として生まれ、1804年よりプラハ音楽院でD.ウェーバーに学ぶ。父親を早く失くしたモシュレスは、1808年よりウィーンに移住。作曲理論をサリエリに師事し、1814年にはベートーヴェンの依頼でオペラ『フィデリオ』のピアノ版を担当。その後、ヴィルトゥオーゾのひとりとしてヨーロッパ各地で演奏活動を開始し、1825年から1843年にかけてはロンドンを拠点に活躍。クレメンティやクラーマーと親交を結び、ショパンやリストらとも競演を重ね、1843年からはメンデルスゾーンと共にライプチヒ音楽院で後進の指導にあたった。
ところが、リストはその2年後の1839年3月8日に「音楽のモノローグ(独白)」と名付けた単独演奏会をローマで開き、翌年の1840年6月9日にロンドンのスクエア・ルームズで、告知に英語のリサイタル(独奏)という用語を史上初めて用いた自作自演のコンサートを開きました。曲目はベートーヴェン作曲『田園』からスケルツォとフィナーレ、続いてシューベルトの『セレナード』と『アヴェ・マリア』、リスト自身の作曲による『ヘクサメロン』、ナポリの『タランテラ』、『半音階的大ギャロップ』で、このコンサートは、さまざまなジャンルの作品を複数の演奏家が演奏するという今までの演奏会の常識を覆した画期的な出来事になりました。
リストはバッハから当時の作品までをレパートリーとし、従来の楽譜を見ての演奏から原則として暗譜で演奏して、徐々に現代のピアノ・リサイタルのスタイルを確立していきました。
例えば、ミュンヘンの公演はベートーヴェンの«悲愴»ソナタで始まり、リストの自作自演による«夢遊病の女の主題による幻想曲»、続いてロッシーニ作曲の«タランテラ»、ショパンの«マズルカ»と«清教徒からのポロネーズ»、バッハの嬰ハ短調フーガ、最後はウェーバーの«舞踏への勧誘»という曲目、ウィーンでのリサイタルは、ロッシーニ作曲の«ウィリアム・テル»序曲をリストがピアノに編曲して演奏し、次に、リスト自身の作曲による«ヴァレンシュタットの湖で»と«泉のほとりで»、そして、シューベルトの«さすらい人幻想曲»、ショパンの2つのエチュードを経て、最後は«ノルマ幻想曲»の自作自演で締めくくられています。
空前の大成功として伝えられる1841年12月27日から3月初旬にかけてベルリンで行われた一連の演奏会では、リストは約80曲を弾き、そのうち50曲は暗譜だったと伝えられています。さらにピアノの蓋を開け、客席に向かって右向きに置き、蓋を開けて弾き始めたのもリストです。彼は自らの演奏活動を通してこれらのことを各地で一貫して実践し、現在に至るピアノ・リサイタルの様式を定着させました。
一方、ショパンは作曲技法においては前期ロマン派の最先端を歩んでいましたが、演奏会の形態においては従来の形を踏襲しました。これは彼自身の選択というよりは、健康状態やサンドとの関係の悪化と別れにより、晩年にはリサイタルどころか演奏会自体を開く気力も体力も衰えて、限界を超えてしまった為でしょう。
マネージメントが確立していなかったロマン派の時代において、演奏家が全て自分自身の手でお膳立てしなければ成り立たなかったコンサートの在り方は、ショパンにとって体力的にも精神的にも負担が重く、彼は次第に作曲に専念し、作品の出版を通して自らの音楽を表現していく道を選びます・・・
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。